国民党軍と日本軍の戦術
前回は軽機関銃について熱く語りました。
今回は、その続きです。
前述した通り、十一年式軽機関銃では、ZB26軽機関銃に太刀打ち出来ず。
代わって投入された、三年式重機関銃ですら太刀打ち出来ず、九二式重機関銃の登場により漸く対抗できる様に成りました。
三年式重機関銃は6、5ミリで、九二式重機関銃は7、7ミリ弾と言う強力な弾丸が使えます。
そして、前述した漢陽八八歩槍と、三八式歩兵銃の撃ち合いですが。
基本的に漢陽八八式は命中率が悪く、また扱う国民党軍兵士も射撃の腕が悪かったので。
射手として腕が良く、命中率の高い三八式歩兵銃を装備した日本軍兵士に狙撃されまくりました。
が・・・中には、市内戦や森林地帯などで、日本兵を狙撃した射撃の名手も居たとか。
かくして、日本軍兵士に狙撃されたのはZB軽機関銃の射手も含まれます。
日本軍兵士は、歩兵銃も軽機関銃も重機関銃も全て、通常の射撃が狙撃並みの命中精度なので。
兵士個人も銃器も。
国民党軍側から、かなりの銃器をロ獲しましたZB26だけで、二万丁も。
それから国民党軍には何十種類のライフルと、何十種類の軽機関銃が配備されていたので、ここでは記載しきれないです。
そして、銃器類もそうですが、日本軍側より優れた戦車、野砲、迫撃砲、装甲車、等を有する国民党軍はと言うと。
練度不足と、食糧補給すらまま成らないのにも係わらず、複数の銃器を導入した事による補給体系の複雑化により、弾丸の供給すら間に合わなかった様です。
当時の銃器は国により、弾丸の口径が違うので、複数のライフル・機関銃を導入した国民党軍は補給に苦しんだのです。
一部、優れた兵器を有する国民党軍は、初戦で敗退して保有兵器の殆んどを日本軍に奪われ負けました。
日本軍側は旧式化した野砲や歩兵砲、程度の武器しか無いにも係わらず、国民党軍を打ち破る事が出来たのは、前述の為です。
その国民党軍ですが、日中戦争前から中国大陸にて戦争をしており。
その時から、ドイツの軍事顧問からは中国軍は十九世紀の軍隊では無く、まるで十八世紀の軍隊だ、と言われていたました。
そして彼等はドイツからの援助により、日本の援助で中国北部を制圧していた北洋軍閥と戦い、中国大陸を制覇しようとします。
北洋軍閥は国民政府軍に破れ、解体されました、ですが元々は北洋軍閥は複数の軍閥の集まりですし。
直ぐに彼等は日中戦争で、満州国軍や、親日軍閥として復活して、国民党軍を苦しめます。
当時は、日本人のヤクザ者が満州にて馬族や軍閥の頭目として、頭角を表したり。
日中混血児の軍閥の頭目が海上の護衛を行う軍閥、と言うより海賊を行って日本軍に協力していたりと、色々面白そうな事も有りますね。
そして、日本敗戦後も満州国軍、関東軍【日本軍の満州や中国に展開していた軍団】の一部は。
中国共産党軍【当時は八路軍と呼ばれていた】に吸収され、国民党軍を大陸から追い出してしまいました。
その時も練度の高い元日本兵と元満州国兵を、軍事顧問や前線に投入した事により中国共産党軍は勝利を手にする事が出来たのでした。
国共内戦時に、国民党軍側にも日本軍兵士は居ましたが。
彼等は軍事顧問として国民党軍側に付き、日本帰国後も、台湾まで国民党軍が追い詰められると。
日本から白団と言う秘密裏に台湾に渡った軍事顧問として、中国大陸本土に一番近い、金門島と言う島に渡り。
練度の劣る共産党軍の三倍近い兵数を相手に、果敢に戦い続けました。
何れは満州国軍や親日軍閥の系譜を語りたいと思います。
次回からは南方戦線のアメリカ軍と日本軍の戦闘と銃器を語りたいと思います。