何故? 短機関銃【日本では機関短銃】が無かったのか?
日本陸軍は何故、百式機関短銃の採用が遅れたのか。
それは日本陸軍は全歩兵が欧州諸国で言う山岳兵であり、彼等は何より銃器の性能に対して、射程距離と命中率を重要視していたからだ。
日本の国土・地形は山ばかりが続き、ついでに戦場に成った場所は日清・日露・日中戦争の舞台である満州&中国の地だった。
有坂銃も日本陸軍兵士に支給され、6、5㎜の弾丸を使い命中率の良い歩兵銃として兵士達に活用されました。
日本陸軍は、日露戦争時に満州の二百三高地にて、この銃器を活用して勝利を得ました。
二百三高地は見通しの良い山肌であり、後の日中戦争でも中国の地形は広大な平地が続いていました。
その為、日本陸軍では射程距離と命中率の良い銃器を好み、射程距離の短く、また大量の弾丸を消費する機関短銃は好まれませんでした。
更に日中戦争が始まると、日本陸軍は中国国民党軍、地方軍閥、匿賊(馬賊)と戦いました。
彼等の装備は日本軍より一部の銃器・兵器は大変優れており。
ドイツ製のベルグマン機関短銃、中には国民党軍が装備した縦型マガジンの物も有る。
地方軍閥の装備するアメリカ製のトンプソン短機関銃。
モーゼル拳銃を20連射型に改造したドイツ製のモーゼルーシュネルフォイヤーM712、またはスペイン製のアストラM900系列。
これ等、短機関銃に市街戦や森林地帯において苦しめられたのです。
他にも、日本陸軍の兵士は初戦において国民党軍兵士のチェコ製ライセンス生産品である軽機関銃ZB26に苦しめられます。
日本陸軍の発射速度の遅い、十一年式軽機関銃では太刀打ち出来ませんでした。
大正7年、有筒式軽機関銃・無筒式軽機関銃が開発され、それらを元に、十一年式軽機関銃が設計されました。
しかし、ボルトアクションライフルである、漢陽八八式の命中精度が悪かった為に、命中率が高く、射程距離の長い三八式歩兵銃と。
それを装備した、練度の高い日本兵に狙撃や、遠距離からの銃撃に負けました。
話は少し、逸れますが第一次世界大戦を経験した欧州各国は短機関銃や軽機関銃を発達させました。
中には、自動小銃・バトルライフルに該当する銃も開発されました。
これ等は第一次世界大戦後も欧州各国で発展型・新型が生産され配備されました。
それ等を中国国民党軍はドイツ・チェコ製の銃器を中心に大量に配備し、世界中の兵器を集めた為に万国博覧会と今では言われております。
中でも蒋介石が率いるドイツ国防軍の軍事顧問団に訓練された、八七師団と八八師団は精鋭揃いで、上海や南京での壮絶な市外戦で日本軍歩兵部隊を苦しめました。
国民党軍が初戦で惨敗すると、それ等の銃器は日本軍兵士が滷獲し、活用しました。
更に、日本軍(関東軍)では分隊下士官に大量に滷獲した様々なタイプの、モーゼル拳銃を配備して、近接戦闘に備えました。
その為に日本軍では軽機関銃・機関短銃等は敵から滷獲すれば良いのだと言う考え方が主流に成りました。
そして、国民党軍・軍閥の中には日本軍側に味方した勢力も出てきました。
南京国民政府軍や、親日軍閥の兵士。
例に上げますと。
モンゴル人の様なウシャンカ帽を被った、トンプソン短機関銃を装備した兵士が活躍しました。
これは、YouTubeの自主制作映画の宣伝で見ました、後は何処かのイラストでも見ました。
彼等は後に満州国軍に吸収されたのでしょうかね、似たような帽子を被った満州国軍の兵士が居ましたから。
日本軍が正面から国民党軍と撃ち合っている時に、親日軍閥の兵士達が敵の側面から回り込み、短機関銃による銃撃を加えると言った戦法を取りました。
なので、直接自軍に短機関銃を配備する必要性の無くなった日本軍は歩兵銃(ライフルの事ね)と、軽機関銃による長距離射撃を重視して、ますます短機関銃を軽視してしまい。
大戦末期まで、機関短銃である百式機関短銃の配備が遅れてしまったのです。
長く成ってしまったので、続きは次回にします。