(83)混沌とした混沌
アリーシャは逃げ出した。
恐怖や痛みと向き合うことを諦め逃げ出した
これから生きたまま腑分けされる恐怖に向き合える者などいないだろう。それはある意味仕方が無いと言えた。
だが彼女はここに来るまで、多くの選択ミスをしてきた。
自分が追われているのにもかかわらず、安易に咎離人の誘いに乗ったことや、その後、魔法を掛けられる前に抵抗しなかったこと、などだ。
施しのせいで、気力が沸かなかったのは事実だが、それでも危険を感じて動けなかったという自分の失敗から、彼女は逃げ出し、その結果に向き合うことを止めた。
赤ん坊のころに自分が深くし、底を抜いた魔臓。羽の生えた灰色の卵を魔力で破裂させたが、その穴の向こう側は別の次元につながっているようで、行くと帰ってこれないような恐怖を感じていた。
興味はあったが、その恐怖を理由に、これまでは避けてきたが、今は帰れなくてもいい。
今、自分の身体で、自分の失敗と向き合う勇気は彼女にはなかった。
自分の肉体を見捨て、逃げ出したアリーシャの心は、底抜けの向こう側に墜ちていった。
深い深い魔臓の穴の向こうには常に魔力が抜けていっている。魔力とは人の感情や活力などの力、情動を糧に生み出されたもの。
それが抜けた先は、多くの人の情動がうねり、それに飲まれたアリーシャは上下左右も判らなくなり、翻弄されていった。
そのうねりの中に様々なものが垣間見える。
この世界で起きたこと、あっちの世界で起きたことなどが、一瞬見えては過ぎていく。
まるでここには全てがあるようだった。
--混沌?
翻弄され、うねりの中に飲み込まれそうな意識の中にわずかに思考が浮かぶ。
あらゆるものが判然一体となったこのうねりこそが混沌なのだろうか?
アリーシャが生きていた世界の混沌は、言葉の意味として余りにもいい加減すぎた。
--混沌の意味に一番近いのは、以前ここで見た【ナニカ】かな
かつて見たその存在が目の前に広がった。
認識することができないほど濃密な【ナニカ】。
目を凝らすとその一つ一つには深い意味があり、理解できる気もするが、総体としては余りに雑多で、余りに取り止めがなく、原色の極彩色を何百倍にも強めたような圧倒的な存在感を持った【ナニカ】。
--ああ、これだ。これこそが【混沌】だ
【混沌】を整え、【答え】を導き出し、世界の【秩序】を図る。
それこそが自分の目的だった。それは前世のころから変わらない。
アリーシャは、【混沌】を厭い、【秩序】を好んできた。
--人間なんて【混沌】そのものじゃない
だがアリーシャは人間が好きだった。
* * *
混沌。
それは愚かにも秩序神に戦いを挑んだ悪魔のこと。
混沌。
それは秩序に抗い、秩序を乱すもの。
混沌。
それは神殿法に反するもの。
混沌。
反社会的なものはとにかく混沌ということにしておけ。
混沌。
都合の悪いものはとにかく混沌。
混沌。
この世界では、その言葉の意味もまた、混沌としていた。
* * *
世界五千年説。
秩序神と混沌の悪魔の戦いは、法暦五千年に秩序の勝利で終結し、人々は秩序溢れる神の国に帰還する。
そんな五千年説が、いつの間にか広く社会で流布するようになっていった。
新聞は五千年説を信じた者たちの騒動を紹介する形で人々にその存在を知らしめ、神殿はその説を否定も肯定もせず、ただその日を待ち侘びるとコメントするに留めていた。
そして人々は不安を覚え始めていた。
--あと十三年で今の暮らしが終わってしまう
--神の国って言っても、具体的にどうなるの?
その疑問に対する答えは神官ですら持っていなかった。いや、人々に説明しなければならない神官ほど、その答えを知りたかったのかもしれない。
* * *
「だから、秩序神の邪魔をしているのです。私たちがこの世界を守っているのです」
ドジョウ髭の男が芝居がかった仕草でアリーシャにそう語りかけてきた。
* * *
ある豪族が支配する土地で、神殿の影響力は大きく後退していた。
その土地では魔法を使えないものを救済するという名目で、すべてのサイレントを捕らえ、その魔力を吸い取ることで、豪族がその魔力を独占していた。
一方、施しという名目で密かにサイレント達の魔力を活用していた神殿は、囲い込むサイレントが居なくなったことで、中央などと呼ばれる聖地神殿から配給される魔力が減り、それを背景にした豪族への影響力を落とすことになっていた。
しかしそうした施しの裏の事情は、一般的には神殿長さえ知らされておらず、突然の影響力低下に、中央への要求をする以外、取れる手段を持っていなかった。
では神殿において、サイレントからの魔力の搾取などの実情を知り、実務を取り仕切っている者はというと……
「【浄務】の二人が中央に帰るそうです」
神聖な神殿内において、神の恩恵無き穢れたサイレントどもを直接雇用し、また施しを管理する浄務と呼ばれる仕事は、基本的に中央から派遣された者が執り行っていた。
これはサイレントは【混沌】であり、混沌の言葉に耳を傾けるものもまた混沌になる、という神殿の主流派である公同派の主張に基づき、強い信仰心を持つ者でなければ務まらないという考えによるものであった。
浄務は穢れたサイレントと日々行動を共にしながらも、高い地位にある高位神官であり、穢れを厭う気持ちと、高位の者への遠慮という二つの意味で一般神官とは距離が置かれていた。
そんな聖地神殿から派遣されていた浄務神官の二人が神殿長に出発の挨拶をしにきた。
「中央に戻られましたら当神殿への割り当てについて、どうかご便宜をお願いいたします」
「覚えておきましょう」
浄務の責任者とその助手は、顔立ちも年齢も全く違うのに、似た表情を浮かべて神殿長に頭を下げ、退席していった。
雇っていた咎離人は既に全員解雇してある。彼らがこの世に居た痕跡は、助手が持つカバンの中の魔力結晶だけであった。
神殿の扉から外に出ると、濃い霧に覆われていた。
「この地の混沌化は十分だな」
町中にまで侵入してきた灰色の霧は、全ての生活において魔法を不可欠なものにしていた。
「魔力が十分にあれば、全ては魔法で事足りる」
「神殿システムよりも、このビジネスモデルのほうが効率的だったな」
「これなら五千年を待たずに決着が付きそうだな」
まるで独り言のような二人の会話は霧の中に溶けていった。
* * *
「混沌! 混沌! 混沌! 秩序をぶっ壊せ!」
騒々しい音楽をバックに、一心に手を振り上げ声援を送る若者たち。
秩序ある文化に対する混沌文化として、若者に人気のビジュアル系音楽グループ【混沌教団】のコンサートであった。
メンバーは全員【整形】の魔法で、よく似ており、ファンもまた同じ魔法で【整形】している。そのためコンサート会場はまるで同じマネキンが全く同じ動きを繰り返しているかのようであった。
秩序を否定するといいながら、彼らの言動、行動、容姿はとても統制されていた。
* * *
「ルールに従うなんてカッコ悪い」
都市部を中心に、真面目=カッコ悪い。ルールを破る=カッコいいという風潮が強くなり、一部の若者が徒党を組んで悪さをするようになっていた。
彼らは【混沌】【ケイオス】【秩序ぶっ殺し隊】などと自称し、盗み、ケンカは日常茶飯事。商店に「オレ参上」などと落書きするようなロクデナシであった。
だが彼らの行動はルールを破る事を目的にしているため、結局はルールに縛られていることに、彼ら自身も気が付いていない。
* * *
「今回わたしどもの商会が皆様にご提案いたしますのは、サイレントを用いた画期的な魔力供給システム。その名も『混沌まりょくーる』。使い方は簡単、こちらの拘束具に混沌を取り付けるだけ。【栄養補給】で世話いらず。【苦痛】で情動を刺激して魔力を生産、こちらの【魔力吸引】術式で魔力を吸い上げます。もちろん全て呪術紋を用いた自動魔法システムでお手入れ不要のオールインワンシステム。今ならお値段たったの……」
* * *
「まったく、どいつもこいつも名前だけ【混沌】じゃないか。意味不明で本当に混沌だかも怪しい。神殿が放っておくのも無理はない」
仮面をつけた金髪少年はマントをばさりと翻す。ちなみに場所は街で一番高い塔のてっぺんだ。
「あの混沌姫は本物だった。ああ、罪なき咎人を殺し、圧力をかけることでようやく現れたんだね、猛きバルバロイよ」
自分のセリフの矛盾点になぞ気が付かずに、少年は一人、体を捻って変なポーズをとりながら独白する。
「穢れた者たちに自ら近づき、罪の穢れに塗れようと世界のために戦う僕、カッコイイ」
その屈折した優越感に、仮面の下で陶然とした表情を浮かべる少年(推定十四歳)。
「ヤツこそ静かな者たちから目覚めた真のバルバロイ、すなわち混沌。ヤツを旗印に、いや、僕の妻としてバルバロイ国を再建する。ふむ、世界のために穢れたバルバロイに身を捧げ、穢れる僕。僕が、僕こそが真の【混沌教団】だ。うわーはっはっはっはっはっはっはっ」
少年の高笑いが街に響いたが、族長の息子の奇行は何時ものことなのでスルーされていた。
* * *
「……などと息子が阿呆なことをやっておる」
「相変わらずですね。心中お察しいたします」
「中途半端に当家の歴史とバルバロイ国のことを知っておるからな」
「しかし報告を見る限り、混沌姫の所業は真の混沌です。下手につつけば中央が動きます」
「バルバロイ国の二の舞は御免だからな」
豪族アンズーの族長と、アンズーマリーの神殿長は顔を見合わせ溜息を吐く。
「混沌姫は如何なさいます?」
「真の混沌を御せる自信はないわ。神殿騎士にさっさと討伐してもらおう。我がアンズー家は聖地神殿を全面的に支持するぞ」
「感謝いたします。大神官に代わりお礼申し上げます」
「まったく、俺はまだまだ死にたくないし、秩序神のおわす国になんぞ行きたくないぞ。五千年説、間違いないのか?」
「大神官とその側近たちはそう考えているようです」
「神の言葉を聞く者、か。眉唾だったならどれだけ救われることか」
「神に救いを求めますか?」
「それで救われるなら苦労はないわ」
「まったくですな」
アンズーマリーの街、ひいてはここ南西山脈において有数の権力を有する二人は再び溜息を吐く。
「今の世を守るためには【混沌教団】どもには頑張ってもらわねばならんな。だが、あの【混沌の霧】には困ったものだ」
「魔法があれば問題ないと思っておりましたが、野の獣までもが居なくなってしまうとは」
「【混沌教団】だけでなく、【魔の領域】で狩りを行う冒険者どもにも援助が必要になりそうだな」
「頭の痛い話ですな」
* * *
「主人を出せ! 聖地神殿の名において貴様を【混沌】と認定する」
神殿騎士たちは神の恩恵である魔法を用いず、木と鋼で男が作った機械を破壊し、男を引っ立てていった。
それは異世界転生などのチートではなく、一人の男の思い付きと、思考錯誤の末に生み出された水車に連動した脱穀機であった。
こうして、世界の技術革新の芽がまた一つ、摘み取られていった。
* * *
混沌山脈にほど近い村に暮らす妹から相談したいことがあるとの知らせを受けて、その遍歴商人は、妹夫婦が暮らすその村を訪れた。
その村に来るのは久しぶりだったが、すっかり様子が変わってしまっていた。
村の周りは全て灰色の霧に覆われ、村の中にまで侵入していた。
その霧は【混沌の霧】と呼ばれ、混沌山脈から下りてくる。
そして山野の恵みを全て【適正化】してしまう。魔法や【生贄の短刀】があれば恵みを得ることはできるが、全てがそれでは魔力が減る一方であった。
そうして地方の村は厳しい生活を送っているのに、豪族も神殿も何ら手を打たず、税収が落ちた分、税率を上げる始末だった。
「兄さん。この子だけでもお願いできないかしら」
妹夫婦から当時七歳の姪を村から連れ出してほしいと頼まれたが、商人の息子も今年三歳になったばかり。助けてやりたいの山々だが、旅から旅の遍歴商人である彼もぎりぎりの生活を送っていたので、妹の頼みを断った。
商人が村を発つ直前、村が【混沌】に襲われた。
通常の獣と違って個体差のない、一様な姿の魔物たちであった。何種類かの魔物が混じっていたが共通しているのは全て『灰色』であり、それ以外の色が一切なかったことだ。
しかもその魔物に傷を負わされると、魔法では癒すことができなかった。
傷が【適正化】されてしまい、光となって患部が消えてしまうのだ。
痛みもない、苦しくもない。ただ消えてなくなるだけ。
「兄さん、お願い!」
妹は夫と共に盾となり、娘を商人に託した。
商人は泣き叫ぶ七歳の女の子の手を引き、逃げた。逃げ切れたと思った。
村から離れ、一息ついたとき、姪の様子がおかしいことに気付いた。
気が狂う寸前といった泣き笑いを浮かべたその顔は、半分消えていた。
女の子の右半分は既に光となって消えており、残る半身もじわじわと【適正化】され、光となって消えていった。
縋るような少女の手を、恐怖に駆られた商人は振り払い、見捨てられた驚きの表情を伯父に向けながら、その子の全てが光となって消えていった。
「エリー」
男は打ちひしがれ、膝をついた。
地面に落ちた服と男の手にある少女の身分証明証。それだけが少女がこの世に存在した証であった。
【混沌の獣】と呼ばれるその灰色の魔物は、従来の魔物と違い、場所を問わずに現れる存在として、地方の人々に恐れられていた。
* * *
【混沌】という言葉をきっかけに垣間見た多くの混沌と呼ばれるモノたち。 混沌という言葉がゲシュタルト崩壊しそうな数々の混沌。
--本当に五千年で世界が終わるの?
赤い月と蒼い月の両目が面白そうに目を細める。
どこからかケタケタという笑い声と、終わるよ、終えるよ、期限を切ったからね、という声。幻聴? 夢?
突如視界がクリアになる。
とても高いところから【世界】を見下ろしていた。
灰色の雲に覆われた混沌山脈で覆われた世界。
山脈の向こうに広がるのは広大な灰色の砂漠。
そして世界の多くは灰色の霧に覆われていた。
だからこそ、霧がない場所がよく目立つ。
--西方王国
混沌山脈は混沌。
山脈の向こうは秩序。
灰色の砂漠が秩序。でも灰色の霧は混沌。
西方王国は秩序? でも神殿の影響は極力排してる。
南西地方は混沌?
【魔の領域】は秩序?
灰色の霧や獣で【適正化】される。【適正化】は混沌? インベントリは? ステータスは? 魔法は?
矛盾している、捻じれている、混沌という言葉の意味が混沌としている。
高い場所から世界を俯瞰していたが少しづつ墜ちていく。
世界の中心に立つ銀色の塔に墜ちていく。
塔の頂上は五つに別れている。指だ。そのうちの一つ、小指の上に光が見えた。とても懐かしい光。その光がなんであるかアリーシャは直感し、小指の上に降り立った。
「やあ、ひさしぶりだね、アリーシャ」
声にならない声がアリーシャに直接語り掛けてきた。
「お兄様!」
光の姿をとったそれは紛れもなく、アリーシャの前世であり、彼女が兄と慕うモノの意識だった。
「客人! 再会を喜び合ってるとこ悪いけど、こっちで少しお話しようよ」
そんな二人に手のような塔の頂上の手の平にあたる場所から声が掛かった。
「アリーシャ、行こう。彼女は待たせないほうがいい。
「彼女? 誰なの」
「会えばわかるさ」
アリーシャが光を掬い上げるように手に持ち、小指から手の平に飛び降りる。20mぐらいの高さだが、物理法則が働いていないのか、ゆっくりと手の平に降り立った。
「やあ、ようこそ。お客様は歓迎だよ」
床に無造作に転がるミイラ化した生首が、ケタケタと笑いながら挨拶してきた。
ザンバラの髪に眼球のない眼窩、皮膚は残っているが干からびてミイラ化した頭は少女の声で陽気に声をかけてきた。
そして彼女の背後には、赤と蒼の月が浮かび、まるでミイラの目のように、大きな瞳でこちらを見ていた。
「……もしかしてコミックヒロイン?」
「なにそれ?」
「あ、左手切ってナイフ作ったり、【混沌】を飲み込んだりしてこの世界を作った黒髪セーラー服のこと」
「判りにくいよ!」
思わず突っ込むミイラ。
「でも、せーかい。ボク【混沌】。よろ~」
混沌という言葉がゲシュタルト崩壊し、混沌という言葉の意味が混沌とした状況で、その自己紹介を受けたアリーシャの思考は止まった。




