屋根裏訪問
いつもと変わらぬ朝であった。
一章 切れ痔の妻は、トイレで姿を消す
その日、僕はキッチンで卵焼きを作っていた。子供のお弁当に入っていたら絶対喜ぶ、砂糖をふんだんに入れた甘いやつ。
フライパンを菜箸でつつき、くるっと回転。ここが腕の見せ所、黄金色に輝く塊をまさに、宙に揚げたその時、
「きゃあぁぁぁっ!」
玄関口から、妻の叫び声が聞こえた。
滅多に聞かない妻の悲鳴ではあるが、その声音に悲壮感は感じられなかった。なんだ、ゴキブリでも出たのか。朝食作りを中断し、キッチンを後にする。といっても味噌汁は既に出来、鮭もグリルでこんがりと焼けている。卵焼きが完成した時点で、後はもう盛り付けるだけであったが。
僕は玄関口の隣、便所の扉を叩いた。妻の叫びがここから聞こえたか定かでは無かったが、先程彼女がこの扉を閉める音を僕は聞いている。何より、僕が朝食を作っている間に、切れ痔の彼女が便器に踏ん張っているのが、朝食前の日課である。
応答が無い。さすがに不安になる。
「おーい、百合恵! どうした、そこにいるんだろ!」
ドアノブを大きく叩いても、一向に僕を和ませる返事がない。さては室内で気を失い倒れているのか。
ゴキブリかはたまた、真っ赤に染まった血便か。それなら先程の悲鳴とも合点が行く。とんだ朝になったものだ、ここはドアを突き破るか、それとも救急車のお出ましか。事を荒げないためにも、前者を選ぶべきだろう。
サスペンスドラマさながら、何度も全身でドアにぶつかる。静謐な朝をかき乱す、荒々しい音。だが何回試しても、扉は一向に開く気配はみせない。内から開く扉である。外から圧力をかけても、どだい余程の力でないと、開いてはくれないだろう。
想像する。もし妻が扉に寄りかかっていたら、いくらぶつかっても徒労といえるはずだ。
そういえばサスペンスドラマでは、多数の秘書の力で漸く扉は開いている。
途方にくれる。先程の騒音で、隣室の住人が駆けつけてくれればいいが。やはり誰かの手を借りるべきだろうか。救急車はさておくとしても、ここで必要なのは、遠くの親戚より近くの他人なのだ。
玄関口に降りたその時、便所とは真向い、妻の部屋が開けっ放しであることに目が入った。几帳面な妻にしてはおかしい。気になるも、事態が事態。本来なら、そのまま外へと飛び出していただろう。
だが、その時僕の眼下に入ったのは、妻の室内へと続く無数の床の水滴である。
「百合恵……いるのか?」
部屋に入り、辺りを見回す。寝間着が脱ぎ捨てられたベッド。化粧品が散らばる大きな化粧台。壁に掛かる趣味の、キャラクターパズル。今までと何ら変わらぬ室内である。だが当然そこに妻はいない。
カーテンに遮られた朝陽のせいか、部屋が薄暗い。電気を点けようと、小灯台に手を伸ばしたまさにその時……
水滴が、小さく開かれた押入れの前に落ちていた。
部屋を人口の光で満たし、押入れを開ける。中には、妻の公私様々の衣装が据えられている。さすがの僕も、この空間を見るのは初めてだ。独特の防虫剤の香り。その時、僕は気づいた。ところ狭しと並ぶハンガーの一画、一定の空間があり、その上の天井のタイルが一枚外されていることを。
一旦押入れから抜け、懐中電灯とマスクを手にし、再度妻の部屋に向かう。とうに朝食の献立は冷めていた。そんなことはどうでも良い。一時までいた人間が、雲隠れしているのだ!
先程とは逆の扉から開ける。やはりタイルの外された押入れは、人一人なら入るのも可能な空間となっている。
僕は二段に区切られている押入れの、上段にあくせくと登る。元々体躯は小柄な方だ。体はすっぽり中に収まったが、いかんせんやはり狭い。
奥に移り、覚悟を決めて立ち上がる。押入れで唯一、立ち上がることを可能とするスペース。予期に反し、タイルの外された屋根裏内部は、埃一つすら見受けられなかった。
陽光で見えないだけか。押入れのドアを閉め、懐中電灯を照らす。なるほど、多少の埃は所々にあるも、一般的家屋では余程ありえない、屋根裏の清潔さである。
「ん?」
よく目をこらすと、視線の先。幅20センチ程の床が、綺麗に掃き清められ、先へと繋がっている。そしてその手前、僕の視線の真下に、妻のメッセージ、水滴が落ちているのを僕は見逃さなかった。
(やはり、百合恵はこの先にいるのか。しかし一体なんの目的で屋根裏へ登っていったのか)
この屋根裏の清潔感からも、妻は度々この屋根裏に出入りしていたのだろう。捜索を打ち止め、警察に屋根裏へご招待の選択肢は僕には無かった。幸い梁は見当たらず、頭上は気にしなくて良さそうだ。
足を押入れの側面にかけ、肘に力を入れ全身を傾ける。予想通り床は頑丈で、大家の逆鱗に触れる事態にはならなさそうだ。屋根裏の床が僕の地面となり、匍匐前進を開始する。
「おーい、百合恵! いるなら返事をしてくれー!」
声を張り上げ、妻を呼ぶ。だが僕を日常へ呼び戻してくれる、妻の優しい返事はやはり聞こえない。
「ひいっ!」
タイル口が丁度見えなくなった付近で、僕は死んで干からびた鼠を見つけた。さすがに妻もこいつの処理には、お手上げだったのか。やめてくれ、僕は生き物の中でも鼠とモグラだけはどうしても駄目なのだ。
「百合恵……どこにいるんだよぉ」
鼠の死骸に恐怖がもたげ、ついに弱音が零れてしまう。どんな時も、僕を優しくいたわってくれた健気な妻。そういえば以前、天井のドタバタ音に悩まされていた時も、
(しょうがない、あなたが出勤している間に、私が害獣駆除センターに頼んでおくわ)
と業者に頼んで解決してくれたっけ。そう考えるとこの鼠は、その時の残骸か。
妻のいない生活などありえない。やはり彼女をいち早く見つけ出さなくては。匍匐前進すること四~五分、辺りは変わらず真っ暗で、懐中電灯を照らす眼下も、うっすらと塵芥が見えるだけ。
しかし妙だぞ、いくら角部屋とはいえ、そろそろ屋根裏の先端に辿り着いても良い距離ではないか。確かに僕たちの住むアパートは、横に広いが、それにしても限度がある。せいぜい共有通路ならものの三〇秒歩けば、現在空き家となっている最奥の109号室に辿り着けるはずだ。
そう思った矢先、懐中電灯の先に大柄な物体が目に移った。ガラクタか、まさかドブネズミ。体がすくめる。僕は恐る恐る近づいた。
生気に満ちた物体、肌色の足指。明らかに人間、しかも生きた生身の。ようやく妻との対面か。短いようで長かった。全身を覆う埃も今は一向に構わない。
「百合恵、こんなところでなに……」
その時ふと気づいた。よりくっきり見え出したその物体の下半分は、剛毛の足毛に覆われていた。と同時に、僕の耳に届いた言葉は、妻とは一八〇度異なる、図太いしゃがれた男声。
「なんじゃ、今日は珍しい。生身の人間を二人も見ようとは。これは一体どうした、ほんに珍しい」
二章 屋根裏のホームレス
そこにいたのは、真っ白な顎鬚に覆われた、齢六〇程の、老人である。
彼の周辺には、寝具や食料が、無造作に散らばっている。もしかしてここに住み着いているのだろうか。そして彼の手前には、露店販売さながら、ござに敷かれた複数の週刊誌が並べられている。
「あのぉすいません。先刻、私の妻を見ませんでしたか」
なぜこの老人は、アパートの屋根裏にいるのだろう。そもそも彼は一体何者か。訳のわからないことで満ち溢れていたが、今はそんなことどうでも良い。僕にとって一番大切な情報は、消え去った妻の動向ただ一つである。
老人は僕をじっと見据える。懐中電灯に照らされた顔は、老人特有のシミと無精ひげがよく目立つ。
「若いの、お主は雑誌か漫画か」
そう言うと、老人は手前に置かれた二冊の冊子を選り抜き、僕に渡してくる。ヤングマガジンとブルータス、ただどちらも所々紙面が破れており、何より二ヶ月以上も前の号だ。
「いや、あの……僕、人を尋ねているんです。背は低くて、少し肉付きの良い、二〇代後半の女性。たぶんこの屋根裏を通っていると思うんですが」
謎の老人の不可解な行動に、畏れと気圧で一杯だったが、僕も必死だ。老人は再び黙って僕を見つめ続けたが、ふと視線を後ろに向け、
「女なら、先程ここを通ったぞ。何か急いているようで、一瞬じゃったが」
しわくちゃの指で奥を指した。
なんと! ここに来て、初めての有力情報である。やはり、妻はこの屋根裏の先にいるのだ。だが一体どこへ向かっているのか、ともかく今から急げば、追いつけるかもしれない。
僕は礼を言い、匍匐前進を続けようとするも、
「待ちな、若いの。情報を提供したのじゃから、雑誌を一冊買って行ってもらいたい」
「でも、一刻を争う事態なんです」
「宝の持ち逃げは、紳士らしくないの」
仕方なく、二ヶ月前のヤングマガジンを一冊購入する。ポケットに手を入れ、舌を打つ。しまった、小銭入れは自室の机に置いたままだ。
「すいません、今持ち金がないんです。妻を連れ戻したら、必ず財布を持ってもう一度ここに来ます。ですから今は、先を急がせて下さい」
必死に懇願し、老人を後ろに匍匐前進の姿勢。だが右肘を前に出した瞬間、バランスを崩し転倒する。老人に左足をがっつり掴まれ、前へ進めないのだ。
「何なんですか、あなたは!」
ついに僕は声を荒げたが、老人は一貫した訥々とした表情で、
「すまんが、わしゃ明日から新宿のホームレス仲間のとこに出かけ、暫くここを留守にする。じゃから今日中に、何か先程の情報に見合ったお礼がしてもらいたいの」
そう言い、足を掴まえる両手に力を入れた。だが老人の腕力など、たかが知れてる。彼から抜け出すことなど、訳はない。
緩めた足に再び力を入れると、見事彼のしわくちゃな手から抜け出せた。あばよ、爺さん、今日中に妻を見つけたら、その日にお礼してやるよ。僕は再び匍匐前進を数歩続ける。
だが、
「てい!」
老人はおもむろに立ち上がると、僕の背中に覆いかぶさってきた。老人特有の加齢臭、それに加え、鼻にツンとくる不潔な匂い。
僕はせき込み、心底驚いた! なぜ老人は背の低い屋根裏で、立ち上がることが出来たのだ!
「よし、わかった。報酬に金はいらぬ。ただ数分だけ、わしの身の上話を聞いてくれ。屋根裏のホームレスは、通常のそれより、孤独なのじゃ。ここで会ったのも何かの縁、どうか人助けだと思って、忙しい中でも少しだけ話し相手になってくれ」
彼の涙が、僕の背中に滴り落ちた。本当に気味が悪い。だがさすがに、同情心も湧いてくる。確かに妻の有力な情報を教えてくれたのだ、少しぐらい老人の望み、話し相手になってやろうじゃないか。
妻にいち早く会いたいが、慌てる乞食は貰いが少ない。ひょっとすると妻は屋根裏の雨漏りを直しているのかもしれない。それなら妻が戻ってくるまで、老人と時間潰しをしているのも悪くは無いか。
僕は、久しぶりに匍匐前進の姿勢を解き、あぐらの姿勢に変える。老人は自分の意思表示に感激の顔を浮かべ、
「ありがとう、若いの。何、話すのなんて、わしの短い生い立ち。長話になぞ、決してならぬ。ホームレス男は、セールスマンよりよっぽと、口は寡黙なのじゃ」
こうして僕は聞き役に徹し、老人の前半生が語られ始めた。
「わしの生まれは、新潟魚沼。農家の次男坊で家業は継げず、立身出世を夢見て風呂敷一つ、花の都東京へ繰り出した。じゃが、頭も手先もさっぱりのわしは、高度成長期といえ、働き口は限られ。結局人並みの体力で、建築現場で働くこととなった」
「それでもわしは身を粉にし、日夜働いた。じゃが今から三〇年以上前、作業長として、とあるビルの建設現場で指揮をとっていた時、トラックに詰め込まれていた木造資材。たぶん積み方がわるかったんじゃろな。強風で紐がほどけ、たまたま近くにいた作業員の方へ、その一部が雪崩落ちてきた」
「わしはとっさの判断で、彼を押しのけた。そして木造資材は、倒れたわしの右腕へ。迸る出血、幸い大きな裂傷とはならなかったが、傷が深すぎた」
「といいますと」
初めて問いを投げかける。最初は適当に相槌を打っていたが、気付けば話に引き込まれていた。この老人の話し方が上手いのだろうか。否、本質的に私が他人の生活に関心を持っているからだろう。テレビのドキュメンタリー番組なんか、ついつい録画してでも見てしまう。
老人はしなびた右腕をポンポンと叩く。ひと際色の黒い彼の手は、恐らく建築労働者時代の名残りだろう。
「神経をやっちまったのじゃ。おかげで順調に出世していた仕事の方は、使い物にならず解雇へ。後に残されたのは雀の涙ほどの退職金と、わずかな慰謝料。こうしてわしは、二〇年ぶりの職探し、以降派遣・事務作業と転職するも折しも訪れるバブル崩壊。就いた職場は軒並み不安定で、何度もリストラの憂き目にあった」
そう言うと老人は、濁りを帯びた目を天井に向け、
「そして二〇年程前か、体力の減少と右腕のハンデで収入が支出を下回り、家賃滞納でアパートを追い出された。今更、新潟に戻るべくもなく、わしはホームレスになりはてた」
「……ご愁傷様です」
老人の訥々とした語り口調による壮絶な半生に心底衝撃を受ける。新宿や渋谷でよくホームレスを見かけるが、彼らがなぜ日夜段ボールに身を横たえる事態になったのか、僕には知る由もなかった(そもそも、ホームレスと関わりを持つこと自体、普通ではありえないだろう)。
大学の人権教育の講義、更生出獄者の講演を思い出す。
一応義理は果たしたのだ。このまま妻を追いかけても、なんの不義はないだろう。だが僕は重たい腰を上げず、そのまま老人の前から動かなかった。
「しかし妙ですね。建築現場で働いていたのなら、災害保険には当然入っていたのではないですか? それなら毎年一定の、少なくとも必要最低限の生活は送れると思うのですが?」
僕の質問に、老人はおやっと心底驚いた顔をする。話を終えた後、老人は無言で僕のこれから取る態度を興味深げに眺めていたが、僕がなおも話を続けることには、意表を突かれたみたいだ。
「痛いところをつくのう。確かに建築労働者にとって、災害保険は必須の加入で、おかげでわしは毎年ありがたいお給金をもらってはいるさ」
「なら、どうして」
「ダイユウサク」
「え?」
老人は、再び語り出した。
「忘れもしない、一九九一年の有馬記念。元々競馬は若い頃から道楽としていたが、職を転々としていた時期、時間の多さにかこつけ、日頃の辛さを発散するべく、わしは競馬にのめりこんでいった。そしてあの年の暮れの有馬。わしは一四番人気の大穴を当てた。あれでたかが外れたんじゃろな。それまで大切に使っていた災害保険は全て馬への軍資金に。じゃがあの年が最後、以降は年の収支がプラスになることは一度も無かった」
「はぁ」
要するにギャンブルで身を滅ぼしたという訳か、途端に老人への関心が薄れていった。初めはホームレスという概念への偏見が薄れていったが、所詮は自業自得。
「そうですか、では今年はプラスの収入になることを祈っていますよ」
そう言い、老人の下を去ろうとするも、
「なんの、ギャンブルはもうここ数十年、縁を切っているぞ」
含みを帯びた声で、老人はこう口にした。
心のわだかまりが再度もたげだす。僕の疑問は再び堂々巡りになった。
「それじゃあ、そのお金でアパートなり、なんなりを借りれば良いじゃないですか! 必要最低限の暮らしは出来るはずでしょう。それなのにあなたはなぜ、そのような状況下でも、人様のアパートの屋根裏でホームレス生活を続けているのですか!」
僕の苛立たしげな声も老人はどこ吹く風だ。ちくしょう、なめやがって。いつでも、老人からは逃げることが出来る。だが僕は答えが知りたい。なぜ、老人はホームレスを続けているのか。なぜ老人はこの屋根裏で生活しているのか。
老人が一瞬不敵な笑みを浮かべたのを、僕は見逃さなかった。だが彼は即座に表情を戻し、再び村夫子然とした態度で、
「本当はここまでの話で、満足なのじゃが。しかしお主が聞きたいなら、語り続けよう。……一九九七年初夏、わしはアパートを追い出され、ホームレスになりはてた。さすがに追い詰められたよ、じゃが競馬もわかっちゃいるけど、やめられない。度合いが減じたとはいえ、災害保険金とわずかの日雇い代を、その日の生活とお馬で溶かす日々が暫く続いた」
「そんなある日、たまたま同業の男がゴミ箱をあさっていた。残飯でも探しているのか、そのまま素通りしかかった時、男が手にしていた物が目に入った。『カラフルピュアガールズ』ふふっ、俗にいうエロゲー雑誌じゃよ。訝しむわしを捉えると、彼はこう言った『お前俺の店に見に来ないか』と」
突然老人の語りが止まり、右手を奥の暗がりへ伸ばす。取り出したのは、薄汚れた置時計。
「二〇分」
「えっ」
僕も右ズボン後ろから、スマホを取り出す。八時五四分。もうかれこれ老人と二〇分も話しているのか。
「お主の奥さんは大丈夫なのかのう。二〇分は、短いようで長い時間。一時間の三分の一とも一二〇〇秒とも捉えられる」
「なに……雨漏りの修理に手間取っているんですよ。僕に任せてくれれば、そんなの訳無かったのに。妻は何でも一人でやってしまうんですね、そこが玉に瑕というか……話を続けて下さい」
エロゲー雑誌を取得したホームレスのお店とはいかに。老人は口を開く。その表情は無で、満悦も憐憫のかけらも無かった。
「彼は雑誌売りじゃった。基本は露天商へのバイヤー的役を担っていたが、駅近を通るリーマンや学生に直販売も行っていた」
「彼の販売する雑誌は、少年・青年漫画から週刊情報誌、女向雑誌、一八禁漫画と実に様々。彼はこれらを生業として、月六万程稼いでいた。わしは彼に教えを請い、雑誌売りを始めたよ。穴場のゴミ場から、汚れの少ない雑誌を拾い、警官・巡回員の来ない時間を見計らい、繁華街で売りつける。当時は雑誌の黄金期、忽ち月に三万は稼いだの」
老人はどうだと言わんばかりの顔であったが、僕はちっとも驚きはしなかった。月三万の稼ぎなんて、所詮高校生のバイト代より余程低い。だがホームレスにとっては、三万は大層貴重なのだろう。
「怪我をして以降、災害保険金はあるも、生きがいを失った。仕事のやりがいを取り戻したくとも、転々とした職から、それは見出せなかった。そして気を紛らわせるための競馬で身を破滅させ、ホームレスになりはてるも、わしは金銭面より日々の虚無感の方が辛かった。じゃがこの雑誌売りで、わしは次第に仕事のやりがいが再びもたげさすようになったのよ。初めはこの副業金を競馬の資金にあてていたが、次第に金は有っても競馬から遠ざかるようになった。同時にわしはこの頃から社会復帰を諦めるようになった。御年五〇手前、既に壮年期もいいところ。じゃったらいっそ、潔くホームレスとして生涯を終えたい。こうしてわしは、雑誌売りを残された生きがいとすることにした。そう一冊でも多く、人に雑誌を売るのじゃと」
老人の瞳から濁りが薄らいでいくのに僕は気づいた。変わった瞳の色は、生きがいを得ている人に見られる希望に満ちた目。そう、それがたとえホームレスの雑誌売りだとしてもだ。
だが一瞬輝きを見せた瞳も、再び元の濁りを帯びていく。老人はあの全盛期をを回顧するかのように、うってかわった低い声音で、
「雑誌売りの黄金期は、一〇年前じゃったよ。あの頃は、新宿・渋谷・上野。どこでも雑誌が売れたよ。若者は目を血走らせてポルノ・一八禁漫画雑誌を、リーマンも週刊誌や青年漫画をためらうことなく求めた。じゃが数年前頃か、新しい携帯、そう指でちょこちょこ触るやつ。あいつのせいで、雑誌が全く売れなくなった。月の稼ぎも一〇分の一に減ったよ。同業者は軒並み廃業、わしの生きがいは一気に消え失せてしまった」
「雑誌の売り悩みは、世間のわしを見る眼も変えてしまった。それまでは雑誌を求める購読者は、多少汚くても安く売ってくれるわしらを歓喜と興奮の態度で接してくれたよ。じゃが最近では、終始街のわしを見る眼は、侮蔑と憐みの色。わしは再び世間から必要とされなくなったのか、一体何を励みにこれから生きていかねばらならないか」
「わしは周りの目に耐えきれなくなった、でもホームレスからは逃れられることは出来ない。そこで考えた、そう誰にも気づかれない場所で雑誌売りのホームレス生活を送り続ければ良いのだと」
「それが、この……アパートの屋根裏ということですか」
狂気の台風が僕を襲い、声が震え出す。小説でそれまでの流れを一気に覆すオチを読んだような、驚きと虚無。老人は僕の恐怖の問いかけも意に介さず、かぶりを振り、
「屋根裏は三ヶ月置きに変えている。一軒家でも住宅でも、ふらっと留守宅に忍び込み、条件に叶えば、そこを拠点に生活を始めるのじゃ」
「その条件とは……」
それまで蔑みの目で見下していた老人が、今では畏れの大権化である。もしや僕はこの狐憑きの老人の餌食になってしまうのではないか。全身が恐怖に包まれても、僕は疑問を解決せずにはいられなかった。
そこで老人は初めてあからさまに笑い出し、
「お主はしつこいのう。そこまで根掘り葉掘り聞く者は、わしは初めてじゃよ。何お主の危惧していることをわしゃしないから安心せい。わしは猟奇に飢えた殺人者でも、他人を痛めつける精神障害者でもない。ただのホームレスじじいなんじゃから」
「実際わしは久々に人と話せて大変満足しておる。今お主がこの場を去っても、わしゃもう決して引き留めはしない。大手を振って送り出してみせる」
そう言う老人の顔は、まさに好々爺のそれである。だがその言葉で安心するには、今までの話で芽生えた恐れは大きすぎた。真実を知ったからにはと背後で刺される狂乱性は、この老人には十分兼ね備えている。それならわだかまりだけはどうしても取り除いておきたい。
僕は青ざめた表情で老人をじっと見据えた。老人は僕の意思を読み取ったのか、やれやれと子供を満足させるような声音で、
「居住者が屋根裏を訪れる可能性が少なからずある。これがわしの条件じゃ。やはり一生誰にも知られずに過ごすのはわしのこれまでの信念に反するし、それ相応のリスクを負わねば生活に張りが無い。まぁこれまでに一〇何件かを渡ってきたが、居住者に会ったのは二回だけ。一人は驚きのあまり卒倒し、もう一人は警察に通報し、わしゃほうほうの態でその場を逃げ出したよ」
やはりいかれてやがる。こんなの傍から見たら、生活落伍者の成れの果て。精神疾患も良いところだ。だが果たして僕はそれを否定する資格はあるのだろうか。今の状態の僕は彼をけなすに足る立場にいるのだろうか。
キーン、コーン。突然天井内に学校の鐘に似た音が鳴り響く。すると老人は突然立ち上がり、
「おおもうこんな時間か。随分長話しをさせて貰ったの。今日はこの後、根堅州国農園の無料葡萄狩りに行くのじゃよ。しまった、早く行かねば上手い葡萄が取られてしまう。無料キャンペーンは速さとスピードが何よりも肝心なのじゃ」
そう言うと老人は、僕は進む方角の九〇度東へ向かい消えていった。足音が次第に遠ざかる。おかしい、確かに家のアパートは横に広いが、縦はせいぜい一〇メートルも無い幅である。先は暗闇で見えないが、足音が遠ざかるなんて絶対にありえない。そもそも老人が言った葡萄狩りなんて、まさか。屋根裏の葡萄狩りなんて聞いたことも無い。せいぜいこの場で出来るのは、モヤシ狩りが関の山だ。
さすがに水道管の工事にしては遅すぎる。ここで妻を待っていてもなんの解決にもならないだろう。やはり彼女を追い続けよう。あぐらから、懐かしの匍匐前進の姿勢へ戻る。何の気なしに、懐中電灯を点け天井を照らし絶句する。頭の上にあるはずの天井はいつの間にか、僕の頭から約二メートルの高さへ伸びている。どこから天井の高さは変わったのか、そもそも僕たちの住むアパートでこの高さはありえない。唯一この現状に納得出来るのは、出会いと別れ時に老人が立ち上がった事実だけである。
不安に陥る時の癖で、スマホの画面を確認する。時刻は九時二〇分。妻とは一向に離されてしまったはずだ。僕は立ち上がり、足下に気を付け歩き出す。彼女に追いつくべく急ぐと同時に、階下の住人の騒音とならないよう注意して。
三章 根堅州国農園の葡萄狩り
老人と別れてから数十分、僕はひたすら暗闇を歩き続けた。もはや周囲を囲む空間が、僕の馴染みのアパートの屋根裏ではないことは明白である。ここまで長い屋根裏は、フランスヴェルサイユ宮殿でも到底お目に掛かれないはずだ。
では僕が歩いている空間とは一体。先程確認したスマホのマップ機能では、期待むなしく僕のアパートを指し示たままだ。ゴールの見えない未知なる暗闇を歩くこと程、空恐ろしいものはない。
妻の捜索を打ち止め、このまま来た道を引き戻る手段だってある。そうたった三〇分で、僕は謎の異空間から、馴染みの日常生活へ戻ることだって出来るのだ。
だがその選択肢を打ち消す物体が、僕の右手に握られている。切れ痔治癒の軟骨クリーム。
僕がこの手掛かりを見つけたのは、今からおよそ一〇分前。異空間への戦慄でまさに、押入れへと引き戻ろうとした時、目の前にこのチューブ薬がぽつんと落ちていた。
僕は目についたそれを拾い確信した。まさにこれは、妻御用達の薬品のそれである。しかもご丁寧にキャップからはみ出た薬液は乾ききらず、彼女が落として間もないことを物語っている。てっきり先刻老人に費やした時間で、彼女とは大幅に引き離されたと絶望していたが、何のことはない彼女も道草を喰らっていたらしく、距離はまだそこまで離れていないようだ。
妻に追いつく可能性は十分ある。希望は恐怖を打ち消す。こうして僕は再び歩みを始めたのだが、すぐに自信は不安に侵食されていった。
僕は立ち止まりチューブ薬を凝視した。もはやこれは、妻に会える可能性を示唆した自信材よりも、僕を押入れへ帰させない罪深い足枷である。
一休みしよう。僕は老人と別れて後、初めて腰を下ろし、近くの梁に背を預けた。運動を停止することで、思考する時間が生まれる。(なんでこんなことになってしまったのか。本来なら今頃、妻の家事を片目に、自室でゆっくりテレビを見ているはずであったのに)
チューブ薬を右ズボンのポケットにしまう。そう僕を苛立たせる不可思議は、何も今朝に始まったことではないのだ。たとえばあの晩、夫婦の営みを終えた直後、
「アナルセックスをしてみたいんだ」
一情事を終え、共に気だるげに体を横たえている中、僕はかねてからの念願を妻に告白した。
誤解しないでほしいが、僕は決して変態嗜好の強い社会不適合者なんかではない。過去に妻以外に二人の女性と付き合ったことがあるが、全て性交は必要最低限のことしか行わなかった。種を生み出す行為以外の戯れは、僕にとっては人間の独りよがり、忌避すべき行動である。
それは現在の妻との夜の時間も同様である。三日に一度、当たり前のセックスをし、眠りにつく。他の無粋なプレイは僕も(当然彼女も)一度も望んだことは無かった。寝室を包み込む居心地悪い沈黙。このまま彼女が嫌悪を丸出しにし、夫婦生活が破綻するリスクさえ覚悟していた。
ややあって、妻は苦笑いを浮かべ半裸をこちらに向けた。
「どういう風の吹き回し。あなたが快楽しか満たせない行為をご所望するなんて」
「いや、まぁ……一回ぐらいは、性の遊戯も悪くは無いかなって」
先日ツタヤで借りてきたAVで、僕はアナルセックスを初めて知った。好きな女優のビデオで内容は詳しく見てなかったため、初見して心底驚いた。最初はペニスも萎える嫌悪感であったが、次第に嫌悪が興味に、好奇心へと昇華していくのを止められなかった。
その時僕は葛藤した。セックスは必要最低限の行為しかしないという持ち前のポリシーと、それを揺るがせる一抹の性遊戯への魅惑。
その日から数えて三回目の性交は、僕は我慢した。だが四回目の今日、性遊戯への興奮は抑え難かった。布団で隠したペニスは、性交直後の今も勃起は収まらない。
妻は暫く心底驚いた顔をしていたが(この時僕は意外に思った。てっきり嫌悪感を露わにするかと思われたが、その顔は、この人に限ってという純粋な仰天であった)、急に悲し気な顔をして、
「ごめんなさい……私はあなたのご要望に、残念ながら応えられることは出来ない」
「そうか、いや別に謝ることはない。おかしな要望をした僕の方が悪いんだ」
そりゃそうだ。新妻にフェラならまだしも、アナルセックスを頼みこむ方がおかしい。僕は急に理性を取り戻し、今日の営みを断じようとした。だが妻はなおも、申し訳なさげに下を向き続けている。僕のペニスは当の昔に萎えている。
「どうした、別に気にすることはないよ。自分から言うのもなんだけど、こんなこと反省する方がおかしいし」
ひょっとすると妻は、前の僕と同様、この性遊戯への好奇心と理性の狭間で苦しんでいるのだろうか。それなら引き留めはやぼ、なんとか実行へのうたい文句を唱えるのが夫の役目ではないだろうか。
再び頼み込みの句を継ごうとした時、彼女は臀部を僕に向けてきた。まさかの衝撃展開、ペニスは三度勃起の構えだ。
だが妻は、意を決したように冷ややかな声で、
「私、数年前から重度の痔持ちなの。だからあなたの要求には応えたくても、応えることが出来ないのよ」
こうして彼女は、数年前に切れ痔を発症し、今もチューブ薬が無いと、便器が真っ赤にそまることを僕に話してくれた。
その際僕に見せてくれたのが、今手元に控えている、泌尿器科特注の切れ痔チューブ薬だ。
その時の妻の顔は、アナルセックスを頼んだ僕と負けず劣らず、相手に引かれないかという不安の顔色であった。僕はそれをくみ取り、心配するな、大変だったなと声をかけたのを記憶している。
そこで、妻は漸く表情を和らげ、以降彼女は度々痔の話題を僕に語り出すようになった。
「その時からだよな、妻と僕の関係が一層濃密に縮まったのは」
思えば新婚生活特有の、たまに顔を出すぎこちない時が現れなくなったのは、この日を境だったな。僕はチューブ薬を暫く見つめる。今の僕と彼女は、さらにステップアップし、お互い全てを話せる関係にまでなった。だからこそ互いが互いを必要とし、一方だけの生活などありえない。
休憩を終え、梁から腰を上げる。もし妻ともう一度会えるなら、このチューブ薬を渡し、改めて感謝の言葉を述べよう。重度の切れ痔持ちでも、僕にとっては愛すべき最高の妻であると。
「…でよ……いで。ねの……にの、ぶ……」
その時、遠くから何者かの声が聞こえたのを、僕は聞き逃さなかった。耳をそばだてる。声の方角は、僕がこれから歩くべき先だ。
「…でよ……いで。ねの……にの、ぶ……」
「行ってみよう」
気づけば僕は走り出していた。先程の老人と同様に、声の主は妻の行き先を知っているかも。いやそこに妻はいるのか。僕は気持ちを高鳴らせ、先へと向かった。握りしめた拳の内にチューブ薬がはみ出し、若干のクールダウンを推し迫られたが。
「なんで、こんなところに、こんな場所が……」
たとえるなら、長いトンネルを抜けた先に、突如現れたテーマパークといったとこだろうか。
でもその場合は、驚きこそあれ、ある程度の想像が現実に的中した安堵感も、心の片隅に生じるはずだ。
だがその場所が見知らぬ異国の地であったら、いや真っ暗闇の先に、我々の常識に不適の光景が広がっていたら。
その時生じるのは、ただただ長い唖然である。少なくとも僕はそう断言する。
走り出して、ほんの数分、視界の先に光が広がり、屋根柱や梁は徐々に本数が減っていった。そしてその光の先に広がっていたのは、
「お兄さん、いらっしゃい。根堅州国農園の葡萄狩りへようこそ」
粗末な長机に、ちょこんと座る装束姿の子供二人。
その奥には、広大なビニールハウスの、葡萄農園が広がっていた。
長い長い沈黙。その間も、二人の子供は微笑をたたえ、一心不乱に僕を見つめていた。
僕はまだ動揺していた。それでも、長い沈黙に耐えられず、無意味な言葉を発するのは、僕の性分である。
「あの、君たちは一体……人様のアパートの屋根で何を」
「アパートの屋根? ううん、違うよ。ここは根堅州国農園の葡萄畑だよ。今日は年に一度、人々との交流も兼ねて開催する、うちの無料葡萄狩りデ―! お兄さんも、それが目的で来たんじゃないかな」
「おう先程の若いの、やはりお主も来たのじゃな! なんじゃ、怖い顔をして……安心せい、まだまだ食べごろの実は、たくさん残っておるわい」
園内で、先程のホームレスが僕を目ざとく見つけ、切り取った房を振り回している。深い紫色に包まれた、みずみずしい球体。あれは巨峰、いやピオーネか。
空想が現実世界を圧倒し出す。僕の頭は、混乱の濁流。思考が停止すれば、人間は知能の低い獣と変わらぬ。
「うわあああああ!」
僕は混乱で叫んでいた。わけもわからず、元来た道を、引き返そうとする。
「東山さん、もしかして東山さんですよね!」
その時何者かが、僕の腕を引っ掴んだ。体はその手を振りほどこうとするが、握りしめた手はびくともしない。
「わからない、わからないよっ! ここはどこなんだ! 僕は一体どこにいるんだ!」
「東山さん、落ち着いて! ここは根堅国農園、僕の顔を見て。ほら二〇七号室の、狭山だよ!」
「狭山……さん?」
冷静沈着に事の次第を話す相手に、幾分興奮の熱が覚める。どこかで聞いた、くせのある甲高い声。僕は再度、相手を見て理性を取り戻した。
「狭山さん……あぁ、お隣の狭山さんではないですか!」
同じアパート、僕の右隣の部屋で暮らす、狭山誉さん。僕より、年齢も居住年も共に二つ上。親しみやすい風貌と、以前何かの折で、彼が読書好きということを知り、時々顔を合わせては、本の話で盛り上がったりした。
屋根裏内での初の知り合いに遭遇し、僕はほっとするのもつかの間、すぐに疑問を投げかけた。
「狭山さん、ところであなたはここで一体何を。まさかあなたも、誰かを探しにここへ」
狭山さんは、僕と異なり現在も独身である。そんな彼が、一体どうしてこんなとこへ。
必死に問い詰める僕に、彼はきょとんとして、
「まさか。さっき僕も受付の子も言っていただろ、葡萄畑の葡萄狩りに来たんだって。ほら君も知っているはず、先週アパートの郵便受けに、案内のチラシが入っていたのを」
そう言って彼は、右ズボンポケットに丸められた、一枚のチラシを見せてくる。なるほど、そこには派手な単色刷りで、葡萄狩りののうたい文句が記されていた。
「チラシの処分は専ら妻の担当で。そんな行事があるなんて、露も知らなかった……でも、なぜこんなところに葡萄農園が。僕は自室の屋根裏から、ここまで来たんですよ!」
なおも問い詰める僕に、彼はやれやれと肩をすくめ、
「ビルの屋上に庭園や墓場が設けられている昨今、屋根裏に農園があっても問題無いじゃですか。この農園も、地下通路の食品街と同等の存在と、思ってもらって結構ですよ」
「でもそんな場所があるなんて、何年もその下で暮らす、僕が知らないはずないじゃないですか」
「灯台下暮らし。それではあなたは、アパート二階の踊り場に、共有のビニール傘があるのを知っていましたか。最上階の角部屋前が、一部アパート住民の憩いの場となっていることを、ご存知ですか?」
「いえ、それは知りませんでした。でも、階上の一画と、これだけの規模の屋根裏農園とは、わけが違います。そもそもここにいる人たちは、どういった人たちで、どうやってここまで来たというのですか?」
根本的問いにも、彼の余裕のある表情は変わらなかった。はぁっと吐息を漏らすと、聞き分けのない子をあやすかのように、
「東山さん、では僕の方からも、一つ質問良いですか? あなたはなぜ、ここにいるのですか? てっきり外の道路や建物の屋上から、ここまで来たと思ったのですが。まさか本当に、屋根裏からここまで来たのですか?」
「だから何度も言っているじゃないですか。狭山さんもご存知、女房の百合絵が、家のトイレで姿を消したのですよ。その際、床に落ちていた水滴が、家内の部屋の押入れまで続いて。それを追っていく内に、ここまで来たのですよ」
「そんなこと……まさか、そんな奇跡もあるのですね……」
この時僕は、彼が初めて見せる、一瞬の動揺とその中にあるわずかな興奮を、見逃さなかった。だが彼はすぐに、元の微笑をたたえ、
「それなら、きっと、この農園内にいるのではないですか。チラシを見て、内緒の楽しみ、葡萄狩りに興じているとしても、なんらおかしくはないでしょう」
「確かに、妻は果物には目の無い性質でした。だけど……よりにもよって、朝食前の排便後に、出かけるなんて解せません」
大抵こういう果物狩りは、胃腸が働き始める日中ないし午前中に訪れるのが妥当である。この時僕は、葡萄が妻の切れ痔に、効果的食物であることを思い出した。まさか妻は、今朝の切れ痔の深刻性に、衝動的に葡萄を追い求めていったのではないか。
「まぁ、論より証拠。実際、目の前に葡萄畑が連なっていることこそ、事実です。あなたが、何の世間ずれか、屋根裏の葡萄農園の存在を知らず、郵便受けのチラシを見た奥さんが、こっそりこの葡萄狩りに来たと見るのが、一番自然ではないでしょうか」
到底受け入れがたい仮説ではあるが、悲しいかな、筋は通っている。何より普段の彼からは想像出来ない、恐ろしい圧に僕はうなざかざるをえなかった。
僕の無言の肯定に、気をよくした彼は、
「よし、それじゃこの農園内に、君の奥さんがいるか、探そうじゃないか。なんなら僕も手伝うよ。度々顔を見かけたことがあるし、遠くからでも大よその検討はつくよ」
そう言い、農園の受付まで、僕の腕を強引に引っ張っていく。
受付を済まし、農園内に足を踏み入れる。その間、訝しみこそすれ、僕はただ流されるままだった。
「うわっ……凄い数の葡萄のつる」
農園から暫く歩き、葡萄畑に辿り着いた僕は、思わず感嘆の声を挙げた。まばらに人は入っているが、それを上回る広大な、葡萄、葡萄、葡萄!
遥か彼方まで、葡萄の木葉が伸びており、その合間にたわわになった実が、その存在を誇示している。みずみずしく、ふくよかな私はいかがですか! この時僕は、何の因果か風呂上り後の血色の良い、百合絵の胸部を想起させられた。
「東山さん、あなたもこの房どうですか? このビニールハウスは、担当農家さんが丹念に実をジベに漬けたおかげで、全部種無しですよ。皮だけ捨てて、その実を口で撹拌し、ごくんと飲むのが、通の食べ方です」
そう言って手元の房から、二・三粒をちぎり、僕に差し出してきた。だけど、
「すいません、狭山さん。僕、葡萄問わず、果物全般が苦手なんですよ。こう鼻にかかる甘さと、若干の青みがかった味が、どうしても受け付けなくて」
本当は受付を済ませる前にも、申告すべきであったが。僕は申し訳なさそうに、丁重な断りを入れる。
刹那、周囲の空気が凍り付いた。それまで談笑していた来場者は口を止め、皆一斉にこちらを振り向いた。
「いや……あの、なにか」
僕は尋常ならざる空気の急変に、不安な目で狭山さんを見つめる。しかし彼は、その場の空気にそぐわない満面の笑みで、
「東山さん、またまた冗談を。ここの葡萄は、他とは一線を画す絶品ですよ。あなたの気に入る甘さと味ですよ。さあどうぞ……さあ、さぁっ!」
まるで何者かに憑りつかれたかのように、僕の口に葡萄を押し込もうとする。
恐怖に襲われるが、相手への配慮から一粒だけ頂こうという、社交的考えも生じる。
口を開き、実を咀嚼する。ぱぁっと表情を緩める彼。そうさ、妥協こそが、人的交流をする上で、一番無難かつ最適な手段なのさ。
「うっ、うぇっ!」
だが咥内に広まった、強烈な甘さに、奇しくも僕は吐き出してしまう。地面に落ちた、僕の唾液交じりの食べ滓。これを見た彼は一瞬驚愕の色を浮かべ、忽ち怒りを露わにする。
「なんと、神聖な実を吐き出すなんて……これは無礼、神への冒涜である」
「妻を探さなくては、それでは僕はこれにて失敬」
気まずい空気から逃げるように、僕はその場を駆けだした。
「信じられない……彼は私たちと同じ存在ではないのか」
背後では狭山さんが放心したように、吐しゃ物を凝視している。それをすり抜けなんと、背後の来場者が実を片手に、こちらへ小走りで向かってきた。
「なんだ、一体ここはなんなんだ!」
僕は妻を探すどころではなくなった。この農園から抜け出そうと、一心不乱に出口を求めた。幸い、追手はすぐに振りまいたが、僕は葡萄畑の迷路に、すっかり取り込まれてしまった。
「あのぉ、すいません。この葡萄畑の出口は、どちらにございますでしょうか?」
試しに、近くで葡萄狩りを楽しむ、人の良さそうな婦人方に声をかける。だが彼女たちは夢中になって声が届かないのか、一向に気付いてくれない。僕は苛立ち気味に、再度声を荒げ、
「すいません! 出口を――」
その時僕は、漸くこの世界と人々が、この世ならざるものであることに、絶望せざるをえなかった。
合図を送ろうと伸ばした手は、婦人の肩をすり抜け、空を切る。透明人間に出くわした気分。いや彼女たちは、僕とは交わらない世界に存在しているのだ。
彼女らは、何事もなかったように談笑し、立ち去って行く。なるほど今もなお、辺りは葡萄狩りを楽しむ人々の声音でにぎわっている。だがその空間に僕は決して、入り込むことは出来ないのだ。
幼い時分、遊園地で一人ぽつんと迷子になった頃の焦燥と不安。
いやそれにも増して、僕の心に迸る激流は、
「彼らは何者か、彼らはどこから来たのか。いや、僕は一体……どこに向かえばいいのか」
四章 妻との再会
気づけば、僕は再び真っ暗闇の道を、歩き続けていた。
幸い葡萄農園は、あの後すぐに出口らしきものを見つけ、抜け出せた。
但しあの後も、僕は何人かの来場者に声をかけたが、誰一人僕の存在には気付いてくれなかった(なおそこに妻の存在も、結局見出せなかった)。
葡萄農園の出口の先は、変わらず狭い通路が続いているだけだった。果たしてそこが、元来た道か(それなら何れ天井は低くなり、アパートの屋根裏へと戻れるだろう)、新たな道なのか、僕にはどうでも良かった。
正直今は妻の捜索すら、僕の脳内の中核を占めてはいなかった。あの葡萄農園は、一体何だったのか。彼らは一体(いや僕は)何者なのか。
てっきり屋根裏世界の延長上と思っていた葡萄農園。だが狭山さんの、常軌を逸した行動で疑念が生じ、さらに先程の来場者への非接触で確信に変わった。
あそこ(さらにそこにいた人々)は、この世のものではない、異世界である。東京都内、日本国内……いやこの地球上にすら存在しない場所だ。
僕は、ホームレスじじいが、僕を羽交い絞めにした瞬間を思い出す。うん、間違いない。あの頃までは、僕は確かに現実世界(アパートの屋根裏上)にいたはずだ。
ではあの葡萄農園が、現実と異世界の境界点であったのか。そうなると、その二つの世界を隔てる何か兆しがあって良いはずだ。
「少し頭を整理するか」
僕は暫く考えるべく、地面に腰を下ろした。
その時、僕の後ろズボンのポケットから、何か個体が潰れ浸透する、不快な感覚が生じた。
「んだよ、何か入れてたか?」
僕は臀部をまさぐった。するとポケット内に、葡萄の残り滓がこびりついていた。
僕の記憶上、葡萄をズボンに入れた記憶はなく、追いかけていた何者かにこっそり入れられたようだ。
水分を失った果実の残骸を、何の気なしに、しげしげと見つめていた時に、ふと疑問が生じた。
屋根裏に存在するはずもない葡萄農園、僕と交わることのなかった来場者、以上の点から二つは異世界物であるはずだ。
となるとその世界を当たり前に受け入れていた狭山さんやホームレスじじいも、確認は出来なかったが、既にあの時来場者と同じ次元に存在したといえる。
しかし狭山さんは兎も角、ホームレスじじいは、少なくとも数刻前まで、僕と同じこの世の人間であったことが証明されている。
その時僕は、じじいが農園で葡萄を美味しそうに頬張っていたことを思い出した。
僕に葡萄を食べさせようと、血眼になっていた狭山さんの表情。
「どうやらこの葡萄の実が、この世とあの世の境界的役割を担っていたのか?」
「その通り!」
その時暗闇から、何者かの声が響き渡った。本来なら身構えるはずが、僕はその場に凍り付かざるをえなかった。
恐怖で動けなくなった? とんでもない。ハスキーで鼻にかかった、独特な、でも僕には馴染み深い声。
「ゆり……え」
図らずも僕の旅路は、突然の終止符を告げる。目の前には、縁日で必ず見かける、おふくの面を被った妻が立ち竦んでいた。
暗闇から進み出た彼女は、お面をしているものの、朝方アパートで見かけたのと同じ衣服をまとっていた。唖然とする僕に、彼女はふっと、鼻にかかった吐息を漏らし、
「悪かったわね、突然いなくなって。でも、こんなところまで探しにきてくれるなんて、露も思わなかった。ほんと私、愛されているのね」
「何を言っているんだ。お前のいない生活など、ありえない。お前のためなら、地の果てまで探しにいってやるよ。さっ、ほら帰ろ。ところで、押入れまでの道は、こっちであっているのかい?」
現実世界、異世界。先程まで、僕を混乱せしめた疑念は、頭の中から消え去っていた。そんなものは妻を連れ帰した後、自宅の書斎で頭を抱えればいい。
妻の腕を取ろうとした僕だが、彼女にすっと避けられ、バランスを崩してしまう。
「そんなこと、プロポーズですら言ってくれなかったのに」
ぽつんと呟いた彼女は、すぐに首を横に振り、
「でもごめんなさい。私残念ながら、帰ることは出来ないの。せめてもう少し……もう少し早く来てくれれば」
そう言うと彼女は、唇を噛みしめ、僕を突き放した。
「そんな、ここまで来て、それはないよ。せめて、なぜ帰れないのか、訳を知りたい。僕で力になれるなら、なんとかするから」
だが彼女はそれに応じず、暗闇の中へまた姿を消してしまう。
「あっ、ちょっ……」
「ちょっと待ってて! 私、黄泉国の神様と交渉してくるから。いい! 私が戻ってくるまで絶対、探しに来ては駄目だからね!」
そう叫んだ彼女は、僕の返答を待たず、すっと気配を消してしまった。
僕に選択肢は無かった。言霊が僕を、がんじがらめに締め付ける。僕ははやる気持ちを抑え、彼女を待ち続けることにした。
「遅い」
三〇分程待っただろうか、だが彼女は一向に戻って来ない。
たかが三〇分と思うなかれ、想像してみてほしい。混乱と不可解の状況下で、真っ暗闇の中三〇分じっとしていることが、どれだけ苦行であることかを。
気を紛らわす事物は、当然周囲に無く、この間実に、あれこれと思いを巡らしていた。
真っ暗闇の状況下であれば、当然不安が生じ、考え事もついつい卑屈になってしまう。
(彼女はもしかすると、葡萄農園の集団と同じ異世界の住人になっているのでは? 僕自身、既にその一員となっている可能性も? 僕たちはあの日常の日々に戻ることは出来ないのか?)
その度に僕は、妻の一言を反芻し、不安を振り払った。だが時と共に、光明は暗雲に侵食される。僕は限界だった。
「彼女を……探しに行こう」
今日だって行動したからこそ、こうやって彼女に再会出来たのではないか。それに正直、自己と他者の不同性の恐怖より、妻とこのまま会えないことの方がよっぽと怖かった。
百合絵とこれからも一緒に暮らせるなら、何だっていい。そこがたとえ現実世界でも異世界でも。そして彼女と僕が、相容れない存在だとしても。
僕は、足下の懐中電灯を点け、妻のくらました道を進んだ。そこにとんでもない悲劇が待ち受けているとは、この時の僕には知る由も無かった。
僕の再探索は、ものの一分足らずで終わった。歩いて数十歩、目の前には大きな扉がそびえ立っていた。
扉は左右を覆い、行き止まりの役目も担っていた。僕は灯りの洩れる隙間から、そっと耳をそばだてた。
「うん、確かに誰かの声が聞こえる。間違いない、妻はこの中にいるはずだ」
扉は多少重たそうだが、鍵は開いていた。僕は扉に手をかけるが、いつもの癖。実行の前に、ネガティブなことを考えてしまう。
(いい! 私が戻ってくるまで絶対、探しに来ては駄目だからね!)
いつもならば妻の言葉を信じ、忠犬ハチ公みたく、彼女の帰りを待ち続けるだろう。
だけど今の僕は、あまりにも精神をすり減らしすぎていた。もうこれ以上、待たせないでくれ。僕は吹っ切れ、扉を大きく押し開けた。
果たしてそこに妻はいた。けれど僕が目の当たりにしたのは、全身ウジ虫や蛇に啄まれ、落雷で焼け焦げていた妻の姿であった。
「うっ、うわあああ!」
葡萄農園で感じた恐怖とは比べるべくもない、絶望。僕は体がぱんぱんに膨れ、パセドウ病みたく、目玉の飛び出した妻を認識すると、労りより恐れが勝り、無意識に駆け出していた。
幼い時分、夏に荒川の河川敷で、死後数週間たった猫の死体を見たことがある。全身ウジ虫塗れで、外の毛皮しか原型を留めていない獣の成れの果て。
その時の記憶と今の光景が、ごちゃ混ぜになって、僕を錯乱させる。僕はそれを振り払うように、ただただ全力疾走していた。
「あーあ、あれだけ探しに来ちゃ駄目って、言ったのに。切れ痔は許せても、この姿は受け入れてくれないのね。憎たらしい……憎い、憎い、憎い! 憎いわ、いっそのことあなた、殺してやる!」
背後から何者かの気配を感じ、振り向くと妻とは異なる醜女が、鉈を持って僕に迫ってきた。彼女は、運動不足の僕をすぐに捉え、あっという間に接近した。
あぁ、ここで僕は死ぬのか。諦めが僕を覆うが、無意識下にまだ死にたくないという思いが芽生え、ポケットの中をまさぐる。案の上大したものは入っていなく、あるのは先程の葡萄残骸である。
昔の侍みたく、潔く腹を括って死ねば良かったが、僕は最後まで無様だ。僕は握りしめた葡萄を、必死の抵抗とばかりに、醜女に投げつけてやった。
葡萄はあっけなく地面に落ち、何事もなく醜女の鉈が、僕の首を吹き飛ばす。誰もがその結末しか思い浮かべえないだろう。
だが目の前には、信じられない光景が広がった。葡萄の残骸は案の上地面にへにゃりと落ちた。だが、そこからなんとジャックと豆の木みたく! 葡萄の木が生え、大量の葡萄の実を瞬く間に生えさせた。
「おおっ、これは恐れ多き、神様の果実。頂かなくては、頂かなくては!」
何を思ったのか醜女は追跡を止め、狂ったように木になる葡萄の実を貪り出した。
よくわからないが、今のうちに距離を離そう。僕はもつれる足を何とか励まし、腕を振って、必死に逃げ続けた。
だけど彼女は、驚異的なスピードで葡萄の実全てを平らげ、何事もなかったかのように、また僕を追いかける。
僕は再び手をズボンに突っ込む。だが既に葡萄の実は尽きていた。代わりに、もう片方のポケットから、例のチューブ薬が出てきた。
僕はそれを醜女に投げつける。すると忽ち薬は、大きな筍へと様変わりし、彼女の前に立ちふさがった。
「おのれ、貴様……とことん、この童を馬鹿にしおって……」
醜女は再び、尋常ならざるスピードで目の前の筍を食べ始めた。その間僕は必死で逃げた。
ふと前方を見る。そこには黒一色の空間に際立つ、何か色彩めいたものが落ちていた。僕はスピードを止め即座にそれを拾うと、どうやら雑誌であった。
東京のグルメガイドを網羅した地域情報誌。発刊は二~三年程前で、所々痛みが目立ち、明らかに古本の類であることは明白だ。
「例のじじいが落としていったものか。すると、ここはホームレスの生活圏内。もしかすると、この先は、アパートの屋根裏へと戻れるのではないか!」
葡萄農園を出て以降、無辺世界を彷徨っていたが、ようやく元の世界へ戻れる一筋の光が見えた。僕は再度駆け出した。
果たしてようやく頭上が低くなり、屋根裏へ繋がる境目まで辿り着いた時、
「あなた、もう終わりよ!」
例のおふくのお面を被り、白装束をまとった妻が、多くの化物を従え、立ちはだかっていた。
彼女の脇を固めているのは、八人の虎縞のパンツを履き、太鼓を持った小鬼たち。雷神ということなのか、僕にとっては文字通り太鼓持ちにしか見えないが。
「あなたは私の秘密を知ってしまった。だから私はあなたを殺すしかないのよ! 大丈夫、痛いのは一瞬だけ……それに耐えれば、あなたは一生私と過ごせるのよ」
お面で表情は見えないが、久方ぶりに聞いた彼女の優しい声。その誘惑言葉に、ついこれからも一緒にいたいと想いが生じる。だが死ぬのはやはりまっぴらだ。
この時僕は気づいた。僕の妻への愛は、所詮人並み程度の愛であるということを。
「さぁお前たちやっておしまい! あの人を私と同じ陰部を燃やし尽くし、殺すのです!」
そう言う間もなく、八人の雷神と大量の化物が僕に襲い掛かる。
今度こそ死を覚悟した。だが僕も決して馬鹿ではない。先程の経験からもうまくいくはず。
僕は限界まで彼らをひきつける。そして第一陣がまさに棍棒を振り上げた瞬間、
「いまだ!」
僕は最後の命綱、懐中電灯を彼らに思い切り投げつけてやった。
「っ――!」
電灯は最前にいた雷神の顔に直撃すると、音を立てて地面に叩き割れた。
するとその残骸からするするっと芽が生え、それは即座に大きな桃の木へと変化した。
巨木桃を前に、途端に怖気づく眷属連中。てっきりまた全員桃の実を食いに来るかと思ったが、彼らは威勢を削がれ、後ずさりする者さえいる。
「なにを、しておる……ほら、はやくあの人を処分しないか」
奥で指揮をとっている妻ですら、怯みの表情が目に見えている。ひょっとすると、この桃の実は彼らを恐ろしめる何か、霊験めいたものが備わっているのではないか。
試しに目の前に生えている桃の実を、最前列で動くのを躊躇う化け物に投げつける。
桃は案の上避けそこなった彼に直撃した。すると彼は突然倒れ、周りにいた雷神は皆阿鼻叫喚の体で逃げ回った。
僕は得意になって、さらに上部に生る桃を二つもぎ取り、
「このやろう、このやろうめっ!」
右端左端と固まっていた集団相手に、伝家のストレートをお見舞いしてやった。
忽ち一体は、夕立に遭遇したような大混乱。事態を収拾しようと、必死に雷神に近づく妻を僕は見逃さなかった。
彼女が屋根裏への入口を離れたタイミングで、僕は猛ダッシュし、そこに控える雷神一名にタックル、狭い路へと滑り込んだ。
「なっ!」
事態に気付いた妻が、即座に僕と同様、匍匐前進で後を追いかける。
後ろでは指導者不在でもお構いなし。この世ならざる者たちが、依然上を下への大騒ぎを繰り広げていた。
狭く真っ暗な道を、匍匐前進による夫婦の追いかけっこ。だがそれは、あっさりと終幕を迎えた。
結局妻に捕まり、隠していた出刃包丁により殺された。予期せられる結末である。実際あと数分遅かったら、その可能性だって大いにあっただろう。
だが結論から言えば、僕は妻から逃げ切った。いや言い換えよう。妻の行く手を塞いだというべきだ。
鈍い腕の痛みの連続もお構いなし、無我夢中で逃げ続けること数分、僕は右腕が柔らかい地面に沈み込む感覚を体験した。
「ああぁっ! なんだ、何か押し潰したか!」
動物の死骸は勘弁だぞ。僕はもう一度恐る恐る指先でそれに触れると、確かにぶよぶよした毛の類が感じられた。
だが冷静さを取り戻し、何度が手触りを感じ確信した。これは動物の体毛というよりも、いわゆる人工的繊維のそれである。
僕は意を決し、それを持ち上げ、目の前に掲げる。即座に既に経験した鼻のもげる匂い。
それはゴミといってよい類の枕で、さっきの商売道具と同様、ホームレスじじいが落としていったものだと想起される。
この後なぜ僕が、あんな不可解な行動をとったのかはわからない。それはほんとに衝動的な、とっさの戯れである。
僕はこれが壁になってくれたらと、後ろの地面に枕をたてかけた。すると突然枕は巨大化をし始め、みるみるうちに後ろの通路を塞いでしまった。
枕が拡大の動きを止める直前、鬼の形相でこちらへ手を伸ばす妻の表情が見えた。だがその手は枕壁に遮られ、こちらの世界へはコンマ一秒さ届かなかった。
「おのれぇ、くやしや! 卑怯者、こんなこしゃくな手を使うなんて!」
暗黒の路内に、とどろきわたる叩扉音。
妻がありったけの力で、枕壁を叩いているのがひしひしと伝わる。だが枕壁はその見た目に反し、一向に打ち破られる気配がない。
「百合絵、もう終わりだ! 残念だけど、俺はお前を救うことは出来なかった」
僕は涙交じりに、壁向こうの相手に声を投げかける。だがその想いは届いてくれなかった。彼女は「開けろ、殺す」と壊れたオルゴールのごとく、一定の語彙を叫び続けていた。
「愛しい夫よ、ここを開けてくれ! さもないと私はお前の関係者を、一〇〇〇人だって殺してやる!」
「あぁ愛しい妻よ! あなたがそんなことをするというなら、私はさらに一五〇〇人の関係者を新たに作りましょう!」
二言目は売り言葉に買い言葉だが、一言目は本心である。
僕はその言葉を、妻への最後の別れ口上とし、枕壁を後に匍匐前進を再開した。
それからどれくらい経ったのか、僕はぽっかり空いた光の空間に辿り着き、アパートの押入れへと舞い戻った。
居間に戻ると、茶碗の伏せられた卓上の置時計は、一二時を少し回っていた。
僕は卓上にうつぶせると、ただただむせび泣いた。時折聞こえる外からの子供の笑い声が、僕にはとても耐えられなかった。