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3.曖昧な事実

「……母は、かなり悪いんですよね」


 問いかけになっていたかは定かではない。抑揚のない、平坦な声だったと思う。奥野さんはただそれに言葉を返してくれた。


「そうだね。私がどの程度話してしまっていいか分からない、と考えるほどには危機的状況だと思ってくれていいと思う」

「直接聞いた方がいい、と。そんな深刻な病気なんですか」

「深刻でない病気などないと私は思っているけどね。しいて言うならやはり、深刻な状況になってしまったと言った方が的確だろう」


 つまりは病気自体は特別珍しい難病ではないということなのだろう。それが相当酷くなっている、余命について考えなくてはいけないほど。思わず止めていた息が呻くように飛び出た。手紙で、現在は自宅療養中だとは知らされていた。それが意味することも想像できなかった訳ではないけれど、一番身近に居る人物の言葉は、全く直接的ではないのにとても重く感じた。

 数度、人の死と向き合ってきたはずなのに、そのどれよりも怖い。それが母親のことだからなのか、病気という不可避な原因によるものだからかは分からない。思考が右往左往して、何だか酔ってしまいそうだ。


 今日は病院に行っているんだ。

 唐突に言われて、少しの間の後やっと反応を返した。


「……もしや更に酷く?」

「いいや、定期通院だよ。あと足を怪我しているからその診察も兼ねて。今は一ヶ月に一度通院していてね、その時間だけひとりになってしまうから丁度いいと思ってこうして来てもらったんだ。ふたりきりで話をしてみたくて。こちらの都合で、申し訳ない」

「いえ、むしろ有難いです。心の準備がまだできていないので」

「それは、栞理さんに会うこと自体に? それとも病気の栞理さんに会うことに?」


 まさに考えていたのと同じ意味のことを問われて、改めて僕は僕の心と向き合うことになった。そうしていなければきっと心の準備などできないまま会うことになってしまうだろう。顧みたところで本当に気持ちを落ち着けて会える確証もなかったけれど、しなくてはならないような気がした。


 多分、どちらもだ。臆病な僕はそのどちらにも不安を抱えている。会わなかった期間は人を変えるには十分の長さで、命を削られていくということは否応なく変化させられていくということとまた等しいだろう。まだ見ぬ変化が待っていると思うと、たとえそれが微々たるものでも想像できない想像が不安を強固に築いていく。


 浮かんだままを解として口答した。彼は頷いた。


「当然のことだ、きっとね。

 私が知り得る限りでも栞理さんの外見はすっかり変わってしまった。内側は変わらないようにと努めているようだけど」

「そういえば、どういうきっかけで知り合ったんですか?」

「あぁ、言っていなかったか。私は栞理さんの受け持ち看護師だったんだ」


 看護師。傍で見ていてくれるなら適任な職業だ。まして病状をずっと見届けてくれていた人なら尚更。そう考えてしまってから、母さんを病人としか見ていないようでとても気分が悪かった。


「最初の入院の時に受け持ちを任されて、それからずっと。……初めの頃はどんな病気もこの人を打ち負かすことはできないんだろうと、そう思っていたんだが」


 歯噛みし下げた視線に、言葉はなくてもその先は理解できた。

 少しずつ着実に、母さんの身体は蝕まれていった。いつも元気で溌剌としていて、風邪なんかで寝込むこともない健康そのものだった人。きっと入院したって自分のことより周りの人の世話焼きばかりしていただろう。それでも、それと身体の強さは違う。どんなに健康に見えても、死とは無縁そうな屈強な人でも、死はあまりに平等だ。

 ふと、言葉に引っかかりを覚えた。何かが繋がりそうな予感がある。


「最初……最初の入院ということは、母は入退院を繰り返していたんですか?」

「そうだよ。毎週のように通院していた時期も少しあったけど、入院自体は三回」

「それは手術や治療が上手くいかなかったということですか」

「この言い方ではそう思うのも無理はないか。……ここまで言ってしまうと分かってしまうだろうけど、転移がね、凄まじい勢いで広がってしまったんだ。進行が早まったのは若かったからというのもある。担当医師の名誉のためにも言うが、手術も診察も誤りは一切なかった。どれほど注意深く診ても事前に食い止めることは難しい」


 転移――癌なのか。そうか、という感想しか浮かばなかった。病名を知ったところで僕にできることはない。

 それよりももっと知りたいことがある。


「最初の入院はいつのことですか?」

「ええと、九年前の四月だね。ということは来月で知り合って十年になるのか、早いものだ」


 ひとりごちて感慨深げに頷くのを感じながら、胸の辺りが何かに押し潰されるように苦しかった。

 この三月で、僕は高校を卒業して十年になった。母さんは卒業式の翌日、家を出て行った。そして四月、最初の入院をすることになる。それはつまり。


「母さんは、入院のために出て行った……?」


 これまでずっと、正当な理由が欲しいと思っていた。僕達家族に嫌気が差しただとかひとりの時間が欲しくなったとか、そういう一般的に見られる理由からだとしたら我慢ならなかったし、何より母さんにそんな考えは似合わないと思っていた。だけど、そうだとしても、この選択肢はあまりに突飛で、怒ることも納得することも難しい。


 いつからだったんだ。隠れた涙の理由に思い至らなかったように、身体の不調にも僕は気付いてやれなかったのか。……あんなに一緒に居たのに。一緒に乗り越えることも認められないほど、息子という存在は無力だったのだろうか。

 父さんは。父さんは、知っていたのか?



「これは、結局余計なことを教えてしまったようだ。困ったな、どうやって栞理さんに弁解しようか」


 耳に、周囲の雑音を掻き分けて奥野さんの声が鮮明に届いた。その声は、その表情は、言葉ほど困っているようではなかったし、本気で悪いと思っているようにも思えなかった。悪戯が成功した時のようなしたり顔を覗かせて、彼は微笑んでいた。

 この人の目的は何なのだろう。善意に裏打ちされた別の何かが隠されているようで、急に背筋が寒くなった。この人に任せていいのだろうか。世話になった期間がどれほどになろうと、隠された思惑があるなら示した感謝を捨ててすべてを否定することだってできない訳じゃないんだ。


「どうして、母と住むことになったんですか? ふたりは恋人なんじゃないんですか?」

「そう思われると予想していたから同居と書いたし、否定もしておいたんだけどね」

「文字はどうとでもなりますから」


 急に攻撃的になったね、と言いつつ怯む様子はない。一度疑い始めると何もかもが怪しく見えてくるのだから、人間とはつくづく薄情な生き物だと思う。

 置かれた箸が弾けるような音を立てる。随分前に食べ終えていたようだったのに。彼は烏龍茶を舐めるようにして唇を潤すと、わずかに力の入った目がこちらを見つめた。


「三度目の退院をしたのが一昨年の七月だった。私も同じタイミングで病院を辞めた、栞理さんを傍で支えるために。あ、勿論栞理さんの許可は貰っていたよ」

「同情ですか?」

「それは断じて違う。長く看護師をしていれば、皮肉なことにそうした感情は割り切れるようになったよ。

 君が疑う通り、私は栞理さんを愛している。好きだから一緒に居たくて、支えたくて同居を申し込んだ。そして栞理さんは応えてくれた。だが、私達は恋人ではない」

「恋人じゃない?」


 奥野さんはあくまで淡々と事情を明らかにする。動揺が欠片も見られないのは医療に順ずる者の度胸ゆえなのだろうか。

 母さんは同居以上の思いには応えなかった。しかし、それなら相手の思いを知りながら同居することは些か軽率ではないだろうか。

 “神咲栞理”は随分前に居なくなってしまった。近くで見ていたその人の心根さえ分からない今、“本宮栞理”の心情が分かる筈もなかった。


「それ以上を私の口から言うのは嫌だな。五十になっても男だからね」


 あくまで愉快そうに、肩を竦める。やはりそういうことなんだろう。彼はそれでもいいと思って、母さんと一緒に住んでいるんだ。それをとやかく言う権利が僕にあるだろうか。


「もうこんな時間か。そろそろ栞理さんを迎えに行かないといけない」

「じゃあ、今日のところはこれで」

「あぁ。ホテルの場所は分かったかな?」

「大丈夫です」


 事前に電話で聞いてから場所の確認はしていた。そのホテルが海を見下ろせる高台にあることを知って、正直楽しみにしているんだ。しかしそれが今や宇加地順氏が運営する明灯ホテルのひとつであるとは何という繋がりだろう。

 



 奥野さんと別れてその足で直接ホテルへ向かう。

 彼が予約してくれた部屋はなかなかにいい部屋で、思わずベルボーイに部屋が間違っていないかを確認してしまったほどだ。笑顔を絶やさないベルボーイが去った後で開いたホームページによると、どうやらこのホテル内では普通(・・)の部屋らしかった。二重に恥ずかしくて暫くぼうっとしてしまったのは庶民として仕方ないことだ。


 大きな窓からは海が見えた。

 その雄大さに惹かれるようにテラスへ出る。強い風に足がふらついた。見下ろす海では気の強そうな波がそこら中で飛沫を上げて、忘れたように引いていく。その光景は決して優しくはない。優しくはないが、強さの象徴に見えた。


 ホテルの右手は幾つもの山が連なってずっと続いている。そのうち一番手前の山裾に大きな白い建物がある。あれが母さんが三度入院し今も通院しているという病院だろう。奥野さんに聞いていた通り、周囲にはそれ以外に大きな建物はなく一目で分かった。

 そこから山の中腹に視線を上げると、木々の中に隠れるように建つ一軒の家屋がある。灰色の瓦屋根に白い外壁であることくらいしか、ここからでは見えない。あれが奥野さんの家で、母さんの家だ。

 母さんの日頃の行動範囲は恐らく、あの中に収まっているのだろう。まだ僕が居ることを知らない母さんの生活を覗き見ているような居心地の悪さから、早々に部屋に戻ることにした。


 コートを脱ぎもせずベッドに倒れ込む。これより数倍固い自分のベッドに寝る日はどのくらい先になるだろう。場合によっては明日の内かもしれないし、数週間経って落ち着いた頃かもしれない。……何が落ち着くのかもよく分からないけれど。

 どうしたいのかをまだ決めかねている。ただまた会えることを確認したいのか、会うからには一緒に住みたいのか、そうして看取ってやりたいのか。何も言わずに居なくなったことを責めたいとは思わない、でも心の中にそういった感情が全くないかというとそれも違う気がした。


「会ってみなきゃ、分かんないなぁ……」


 これからどうなるんだろう。母さんはどうしたいだろう。奥野さんはどうするだろう。父さんは、あの人はもう母さんの夫じゃないんだから関係ないか。

 考えたって仕方ない。全部、明日を過ぎなくちゃ始まらないことだ。ひとつ願うとすれば、変わりなく笑い合えたらいいと、そう思う。窓を横切る薄雲を見送って、それだけを思いながら瞼を閉じた。


  

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