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四、越者の部屋と首飾りと

「岩のかわりに首飾りを投げてたら、おれの冒険も終えることができたかな」

 通路は長く、逃走者はのろく、ゆるやかとした追跡に思考は様々に動く。むろん油断はなく、異変があればたちまち殺戮者の本能に変ずるのだが。長く歩くこで、ひかえようとしても水を飲まずにはいられない。唯一有効な武器なのだから、飲みつくすわけにはいかないのだが、飲まずに体調をくずすのもまずい。

「岩と同じ運命をたどるなら。しかしこいつががおとなしく消えるとは思えん。抵抗するか、あるいは越者の身体とに危険な反応があるか。試すのはよすべきか。冒険するのは地下通路を歩くこれだけで十分だ」

 夜目のきくゴブリンには影響ないにしても、天井の光は弱くなっている。魔力の供給が絶えかけてるのだろう。予備の松明を背嚢からだす。奴の身体は水と同じくらいに火を嫌うだろうか。

「結局は好奇心か。おれがこの道をすすむのは。賢い行為でないと知りながら、おれは進まざるを得ない性分なのか」ゴブリンらしからぬ好奇心は、どこから生まれ出るものだろうか。知性か。感情か。喜びか。恐怖か。それらと関りがないものからか。

 意外なほどの明さが見えて、ついに通路の終りに来たことをさとる。そこは劇場ほどの規模がある広大な部屋であり、床からつながる丸天井によって構成された半球の空間であった。

 部屋の中央には玉座のように構成された石造りの構造物があり、いまは中央に王者然として越者がおさまる。それ以外にも、本来の冒険者であれば興味をひいたものが様々ある。たとえば部屋のあちこちに置かれている天井まで照しだす光源となる、かぎりなく輝きつづける昼光石の照明など、一つでも持ち帰るならそうとうな財産となろう。だがいまは、それらのものは彼の目に入らない。見上げた景色に冒険者は他のあらゆる興味を失ない、しばし忘我を味わっている。

術にかかったのではない。それには十分な警戒をしていたのだから。警戒していないものに心を奪われたのだ。それはゴブリンの通常の生き方から彼を転覆させた嵐のごとき激情。いまの生き方を選ばせた好奇心の源泉たるもの。それがゆえに直視することを恐れ、心の深淵に沈み込ませたもの。

 すなわち芸術心と呼ばれるものである。ゴブリンの殺戮者は、部屋を取り囲んで刻みこまれた壁画に感動していたのだ。越者が刻んだものだろう。それは一人の英雄を称える、音なき音楽、声なき歌、文字なき叙事詩であった。



 要約すれば、人間であろうか、オーガであろうか、豊かな体躯をもった一人の男が、成長し学び、多くの地を踏破し、出会い別れ、国をつくり王となる。老いを目前にして始まる、世界を脅かす脅威に英雄として立ち向かい、滅びた。

 本来の英雄譚ならこれで終りだろう。あるいは死後、神に英雄としての成果を語られるところまでか。だがこの天井画には、滅びたのちのことが語られている。滅びてもなお続く、呪われた生のために。死を得られなかったがために。

 大いなる脅威に伍せんがため、大いなる神秘の力を借りて破滅したその後を。破局の混沌で友と家族のすべてを失なうのみならず、肉体も異形に変化し居場所を失ったその後のことを。彼は騙されたのか。それとも知りながら使命のために選んだのか。

 これがこの越者の生涯のあらましであろうか。ならば越者とはみなそういうものなのであろうか。かつての英雄であり、英雄であろうとして破滅を受け入れた者たち。勇気と愚かしさの両方を体現する運命を選ぶもの。

 華々しき英雄の時代を終え、残されたみじめな生き物からは、かつて英雄であった残滓は時とともに失われていった。英雄の凛々しさはその肉体から消え、英雄の思い出を語るものはその世界から去り、英雄の溌剌さはその精神から滅びた。残るのは醜い身体にやどる絶望と後悔と自己憐憫。そしてひたすら現在を否定するための追想のみ。

 明敏な冒険者は思う。あの罠はこの精神からこそ生みうるものか。あるいは罠ではなく、この壁画の続きであったのか。追憶しかもはや価値のない生を進むものは、他者もそれにまき込むのか。

 壁からつながる丸天井の一面に描かれた壁画は、下層から上層へと描き足されていったのだろう。下層から半ばまで続く英雄時代にあったすぐれた芸術性は、その終りより崩れだし、精神的荒廃の進捗をあらわすかのごとく、天頂に至るところでは意味をなさないうねり模様となっていた。まさにそれは越者の生涯を反映したものか。この巨大な壁面を埋めた壁画を、営々岩石を彫り込んで造り続ける越者の労力はどれほどだろうか。終りなき時を埋めることは、それしか手段がなかったのであろう。先に未来がない以上、過去を彫り込むこと以外には。

「終りとは寂しいものだが、終らぬ苦痛よりはまだましということか」

「来よ」

 唐突な声が、ゴブリンの思索を破った。



「天頂部に見るべき価値はない。あれは狂気の産物ゆえ。壁画を眺めたいのなら、そこでは全体を見渡すのは難しかろう。なにより気をつけよ。我が肉片が汝の背後に追い付いておる」

 声の響きが消える前に、ゴブリンは通路より跳躍し、部屋の壁に手足の爪でしゃがみ込むような形で張り付いた。

「凄まじいまでの身のこなしよ。一般に細く軽いものは俊敏さをみせるが、汝はそのなかにあっても別格だな。そこでならば安全だ。いまだ肉を喰らう力を残す、我が肉片の帰り道よりはずれておる」口調はさっきまでとはまるで違う。これがこの越者本来の声なのであろうか。あびせかけた水が彼の本性を呼び出したのか。

 通路を這い進む不定形の肉片は、散っていた破片が合わさったのかそれなりの大きさをもち、様々に変形しながら音もなく滑るように進みむ。壁面にしがみ付くゴブリンの下を通り、部屋中央の玉座にある越者のもとに帰った。

「この通り。清浄な水はたやすく我が肉体に染み込み、薄めて組成を砕き破裂させる。しかし我が命がそれでは終ることはない。細かく千切れた小片より水が渇き逃げたのち、活力を取り戻して再び集結する。なによりその小さな水筒には、この長い道のりのために、我が肉体をわずかに損うほども残ってはいまい」

「まあそうだな。おまえさんを退けるには足りまい」静かな語り口のためか、この越者を脅威と思う気持ちが薄れていた。それにしても、さきほどの知恵足らずに比べなんという変化であろうか。

「帰るときには必要となるだろう。水を汲みたければ、その壁にそって進めば、深淵よりの湧き水がある。そのまま飲めるほどに清浄な水だ。誰が使うあてもないのだが、我はかつてそこを立派な水汲み場として、岩石をもって造形した。汝が使うのならば、嬉しく思う。この肉体には直接の水は必要なく、かつてその湧き水で自死をこころみたものの、全身が細かく砕けても、いくらかの衝撃と漫然とした不快感しかなく死は得られなかった。この感覚に乏しい肉体からは苦痛さえ得られなかったのだ」たしかにゴブリンの位置からでも立派な水汲み場が見える。途中で渇かず帰るために、水筒に水を補給する必要はあるだろう。

「さきほどは悲鳴をあげたようだが、それは苦痛ではないのか」

「我ではないな。我自身の本性はほぼ眠りにつき、この肉体を支配しているのは、この肉体に支配されて狂気におち下等に退化した精神のみ。そいつは肉体を砕かれることに苦痛を感じるとしたら、いい気味だ。ふたたび試してやろう。我の知らん肉体の苦痛が、いくらかの時間我を正気づかせるのならば価値はある」

「いくらかの時間のみか。永続的にではなく」せんなき問いか。しかしたずねずにはいられない。

「さよう。我を病むこの状況にいささかの変更がなければ。限りないみじめな存在には、見合う狂気に沈む必要があるだろう。我の存在は、我自身でどうすることもできんのだから」そうして息をのむようなわずかな間をあける。肺はないのだろうが、かつての肉体にあった習慣が残るのだろうか。

「汝は我を救いにきた者か。我の救世主なのか」それは王者の勇壮さを残しながら、乞うものの焦燥に満ちた声でもあった。ふいにゴブリンの心は、相手の哀しみへの共感を生んだ。



「いいや。おれはおれ自身をさえ救えてはいない。どうして他者へ救いが与えられよう。ここに来たのも、おれ自身の救いを求めてのことだった」そうして首飾りを手につかみささげ出す。「これだ。こいつがおれの運命を支配し、ここまで連れて来たのだ」

「エルジャドラの首飾りか。それは執念深いものに憑かれたものだ。この場合、執念深いには二通りの意味があるのだが」

「これを知るのか。これが何なのかをあんたは知るのか」今度はゴブリンの声に激しい焦燥がある。ついに手掛かりが得られるのか。

「むろんだ。それを造ったエルジャドラは我のかつての仲間よ」

「これは何なのだ。なぜおれの運命を狂わす」握り締める手が震える。激情か。似合わんことだが、激昂せずにいられない。

「かつての世界、我が歴史を歩んだ世界が腐朽し枯渇し、滅びに直面したとき、我等は世界を救う戦いに身を投じた。我等は少なく、規模の大きい問題へさらに仲間が必要となったのだ。そのためにエルジャドラはそのような首飾りを百と造り、世界へと放流した。それは持ち主の運命を強く刺激する。それに足る力なきものからは逃れ、相応しい者を我等の前に連れて来たのだ。すなわち汝が我の前に来たことは、汝にそれだけの力量があるがゆえ」

「それは『ほろびのとき』のことを言っているのか。七百年も前のことだぞ。なぜいまだにその役目を終らさん」

「七百年を経たのか。我に時の感覚はとうに失われている。さきほど執念深さに二通りの意味があると言ったのがそれよ。それはエルジャドラが解かぬかぎり持ち主から離れず、運命を曲げ続けるだろう。その執念深さとともに、すでに片付いた使命をなおも堅守する執念深さの二つよ」

「エルジャドラしかこいつをどうにかできないのか。この、砕いても砕けぬ首飾りを」

「我はその方法を知らん。汝が我を救えんように、我も汝になせることはない。試みにそれを我が肉体に投げてみるか。おそらくこの肉さえそれを砕くことは知らぬと言うだろう。しかし用心せよ。それを行うことで、あるいは汝により恐しい復讐を首飾りが企むかもしれん」

「そのエルジャドラとかいう糞っ垂れ野郎はいまどこにいる」

「エルジャドラは糞っ垂れ野郎などではない。断じて。高潔な男であり、それゆえ少々以上に使命に取り憑かれているきらいがあったが。今どこにいるか知る術はないな。我も彼も文のやり取りなど出来ようものか。おそらくエルジャドラも我と同じく越者の定めを受け入れ、異形のものと化しているだろう。あるいは幸運にも死があたえられたのかもしれん」

溜息をはき、動揺を沈めたゴブリンは、静かにたずねた。

「死んでいたら、おれの不幸だがな。おれは冒険者としてここに来た。最下層に君臨するものとして、あんたはそんなおれになにかしらの報奨をあたえてもよいのではないか。あんたはおれに与えられる何がある」

「思い出話をすることと、思い出話を聞くことか。汝は聞きたいことがあるのではないか。そして話したいことも」

 こうして両者は、互いの思い出話を語り合うこととなった。

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