三、追憶の罠とその製作者と
跳ね飛ぶような目覚めを導くのは、雷鳴のごとき絶叫か、雹雨のごとく胸を叩く鼓動なのか。記憶の闇に潜行続ける精神から、突如爆発した目覚めよという意思に肉体ははげしく呼応し、傷めつけるように喉と心臓を駆動する。呼気がふれるほどの位置にいたゴブリンたちは、ぎゃあぎゃあ叫びながら三方向に跳び退いた。握る抜き身の短刀をみれば、その意図は知れる。今は静かに立ち上がる魔物。彼は案内役として連れ出して来た三匹の動きを、すさまじい眼光で縛り上げる。しかし、実のところ怒ってもいないのだが。彼らの集落は収穫場として上手くこの罠を利用してきたのだろう。そして罠にかかったおれがマヌケということだ。恨む筋合いはない。遺跡の上層をねぐらとする彼らの、当然の権利だからな。
「ここにあっても師の言葉に過ちはない。まさに今、おれは死にかけていた。まさにおれは、肉体の目でしっかりと見るべきだったのだ。こんなことを見逃していたのか」
天井から来るやわらかな光に照され、見えるものは周囲に広がる骨また骨。おおむねは人間であり、冒険者だろう。意外と魔族の骨も多いな。オーガやトロール、さらには人馬一体の種族セントーアの骨まで。こいつらも冒険者なのだろうか。求めるものなくばこんなところには来ず、まだ見ぬものを求めて危険をおかすのは人間だけのことではない。してみると魔物の冒険者というのも、ゴブリンでは珍しいだけでそれほど稀少というものでもないのだろうか。そもそもおれがここに来たのはこの地下にあらゆる呪われし物具の拘束から開放する力をもつ宝珠があるということでそれゆえ野心のすべてを挫折させた首飾りを捨てる手段となろうと思ったこいつらも同じだとしたらいまは身一つの白骨ならばすくなくとも開放はされたそうなるとこのゴブリンどもの持ち物にそれら呪物がまざっているうかうかこの短剣を受け取ったのは早計かもしれんがいまさらしかたがない短剣は切れ味鋭くその文様はなかなか興味をひくもので単なる囮以上の働きをするだろうと選んだ結局ここまでの道程でつかうことはなかったひょうし抜けするほど何の抵抗もうけないそもそもここの噂を聞いたのはいまだ最深部に到達したもののない地下迷宮ということでそれでなんで宝珠があることがわかるんだなにがしいわれがあるのかこんないかがわしい話を信じたおれもそうとう煮詰ってたな追われてること気づいたからってのもあるがあの冒険者どももあぶないやつらあんなのを雇い入れたのは誰だしてみるとこの首飾りにゃそれなりの価値用途があるか惜しいとは思わんこれ以上利用されるのはまっぴらあの冒険者どもの仲間になってりゃ多少なり楽だったかもしれんが駄目だあの先頭のやつあいつだけは信用できん三人は心服していたようだがあの優しげな表情にかくされた飢えた目おれと同じ目をしたやつを信用できんこいつらもおれを飢えた目でみつめてやがる不味い。
顔をはたいて正気づき、もたれかかった壁から体をおこすのにずいぶん苦労する。とり囲むゴブリンどもの怯えた目と力の込められた短刀。ぎゃっぎゃと叫んでいるが、それは言い訳してるのだろうか。おれはそもそもゴブリン語に達者なわけでもなく、こうもまくしたてられては意味がうまくとれん。
「うるさいぞ黙れ」意味がわかったのか三匹は黙った。
美しい異性、膨大な財宝、生き別れた家族、心を惑わせる幻影は数多くあるが、この、追憶というものほど抵抗なく精神に入り込むものはあるまい。当然のことだ。未知の状況を打破する武器を探すのは、記憶という蔵にしまわれた経験の在庫だろう。意識することもなく、たやすく罠に捕まる。
「それにしてもこいつら、まったく影響うけとらんのだな」過去を追想することなどないのはゴブリンの特質だろうか。過去という経験を脳裏に蓄えることなく、それゆえ未来はなく現在は今という瞬間にのみある。同じ間違いを延々と繰り返す。知的能力としては最悪の部類が、しかしここでは有利に作用するのか。この”追憶の罠”とでもいうべき仕掛けに、彼らはまったく害をうけず、それどころか利用さえしている。
「おれにもわずかに残るのだ。ゴブリンの愚かしさという性質が。しかしそれにより救われることにもなる」なるほど、世界のすべては闘争と調和の両面をもつ。文明には闘争的だった愚かしさは、この奇怪な罠には調和している。
見上げれば天井一面に刻まれた古代文字が輝き、通路の光源となっている。こいつか、どうりで光に不自由しなかったはずだ。手にもっていたはずの松明はすでにない。いつ捨てたのかさえ心当たりがない。おれの心は抵抗することなく、まったく自然にこの歪んだ世界に入り込んだのだろう。えらく曲がりくねった道だと思ったが、この一本道で迷宮とも言えない地下通路は、それ自体が方陣をかたどっているのか。そして天井に刻まれる古代文字に魔力を供給する仕掛けで、ここが罠となる。文字が光り輝いているのだから、稼働しているのはあきらかだ。この通路にそって進む者は、知らず術を発動させる。ひたすらその精神を過去へと持ち去っていく術を。現在を忘れ回想にうずもれ、いっさいの自発を失い飢え渇き死ぬ。結末まではゴブリンどもが早めてくれるのだろう。
あるいは他のものが。
そうだ、他のものもいる。骨格を完全に維持したまま、きれいに肉をこそげ落とした白骨をみれば。このように肉を喰らう方法が亜人にあるものか。装備を剥ぎとっていったのはゴブリンであるにしろ、肉を奪ったものはゴブリンではあるまい。肉が必要なら死体ごともっていく。事実こいつらの集落でそれらの八つ裂きにバラされた骨はみた。森で果てた四人も、いまでは混ざっているかもしれんな。ここまでゴブリンどもをつれてくるのに、脅しすかし苦労した理由もそれであろう。獲物自体は無害であっても、それを取り合う相手がいるということか。確実にゴブリン相手として一方的な強さをみせるのだろう。いまのおれの状況で勝目があるかわからない。
「ともかく、この頭をどうにかしないとならんな。この方陣の効果を殺さねば働かん」
追想するのは危険ではあるがしかたがない。道のりを脳裏でさかのぼり、図示してさがす。必要以上に入り込むなと叱咤しながら。絶対条件としては後退する方向にあることだ。論外なのは前進することで、術に入り込むのをこれ以上耐えることはすでに限界が近い。求めるのは通路が併走し、へだてる壁の薄い場所。検討をつけ戻り進む。追想を拒みつづけるのは過酷な労働なのだろうか、急速に心身から力が失せるのを感じる。機会はそう何度もないだろう。おそらく一回を外せばもはや屈するのみ。
卑屈な目で隙をうかがう三匹を引き連れた魔物の冒険者は、足をとめいくらか活気づいた。目当ての場所についたぞ。ここだ、間違いない。
「肉体の目でしっかりと見よ」
そうとも、おれはしっかりと見るぞ。この場合肉体の目とは、手と耳だがな。拳ではげしく壁を叩き、その響きを耳と手でたしかめる。やはり間違いないぞ。
確認を終えたゴブリンは、腰をおとし腹をすえ、呼吸をととのえる。下肢はゆるやかに湾曲し強固な土台となり、足の指はえぐるかのごとく地面を噛む。肩はおち肋骨は開き、へこませた胸の前におかれた左掌は上に、右掌は下に、互いに向い合う。彼は構えているのだ。本来この殺戮者に構えた戦いはない。お互いに構えて準備万端、おのれと相手の最大を試みあうなど馬鹿馬鹿しいお楽しみだ。常に自然体から前兆なく必殺の技をふるう。ゆるむ対手はその心を平常から非常に替える間さえなく、死ぬ。これによりおのれを上回る力量の強者でさえ葬ってきた。だが今は精神という感覚器がもっとも当てにならず、肉体に技を頼むほかない。静かに呼吸がのびる。ちじむ。のびる。ちじむ。すべては消える。この一撃で後はないという不安は消える。追想するべき過去も消える。おのれがゴブリンであるということも、罠を破壊するという意思も、おのれ自身でさえ消える。ただ有るのは、全身をうずまき指先よりほとばしる力のうねりのみ。
周囲でながめるゴブリンたちは爆発がおきたと思ったか。膨れ上がる空気を叩き付けられたのだ。しかしそれは、さきほどの絶叫さえ比べられぬ冒険者の発声であった。声に弾かれた三匹は目撃する余裕はなかったが、あったところで化け物ゴブリンの両腕が消えたとしか見えまい。爆発の半ばは旋回する腕がおこした空気のうなりでもある。そしてゴブリンが次におきることを予測するなど論外だ。耳をふさぎたくなるような甲高い音が壁面を走り、魔物が手で押すと、丸く貫かれた壁が反対側の通路に落ち、ころがった。呆然とする三匹を尻目に、冒険者は造った穴へ転がり込む。方陣にありえない動きは術を破壊し、効果を失ったのだろう頭から唐突にくもりが晴れた。
「穴を抜けてこちらに来い」
三匹を呼び寄せたらすこし間をとらせ、再び穴をくぐり元の位置へ戻る。穴の先にこいつらを置くわけにはいかない。首を出したときにスッパリとはごめんだ。こいつらにそんな俊敏さはあるかとは思わん。だが、肉体の目でしっかりと見よ。おれはこいつらの飢えた目をみたのだからな。これ以上の油断をおれはおのれに許すつもりはない。三匹は穴から頭をのぞかせ、呼ばれなくともついてきた。このゴブリンの姿をした化け物には、近づいても離れても恐しい。ある種の信仰心さえ抱くほどに。
通路をゆるがすような叫びが、深奥より響き来る。
「おれの方陣を傷つけたのは誰だ」
三匹のゴブリンは短剣さえ放り出し逃げた。やかましいお喋りさえやめて、戦う意思などまるでない。近道である穴を見向きもしないのだから、よっぽど狼狽えているのか。それとも近道になってることを理解してないのか。後者だろうなと魔物は皮肉に思う。ゴブリンの愚かしさか。
通路に一人残るは魔物の冒険者。しかし彼にすでに術の影響はなく、回復した精神は高い洞察力を取り戻していた。もはや恐怖に惑うことはない。耳をつけて磨かれた壁から来る振動をさぐる。まだ距離はあるな。そしてそれほど速くはない。しかし奇妙な壁だ。煉瓦が貼りめぐらされてるわけではない。床も、方陣が書き込まれた天井もだ。これは岩盤を穿ち、四角の通路に削り上げるだけで造られている。この硬い岩盤を掘り進むのも難事なら、それをどこも正確な大きさの通路として磨き出すのは、人間の技術では不可能事だろう。
「それが可能なものは現世において魔物にすらおるまい」つまりこの地下通路、いや罠の方陣というものを造ったものは現世の理から外れた存在、異形の力である魔力が形づくる世界、現世との断絶を越境し来たるもの、すなわち、
「”越者”がここを造ったのか。こいつは危険な相手だ」
しかしゴブリンの冒険者は動かずにいる。一目でもその姿を見ておこうというのか。後の対策となすために。ぼんやり待っているようにも見えて、しかし頭脳は回転している。越者ならば魔導の術を当然にふるい、相対すのはあまりに危険。しかし、この巨大な方陣はどうだ。こいつに魔力を供給するのは越者でも骨が折れるんじゃないのか。ならばその持つ力の多くを方陣で使い果しているかもしれん。死体に等しい獲物への恐しい肉の食みかたをみせたとしても、戦いの相手として困難は少ない可能性がある。越者とは執念深いもので、方陣に傷をつけたおれはここで逃げても追いかけてくるだろう。避けられぬ戦いならばどこを舞台とするか選択は二つ。この通路か、戻って通路が始まる上層の広い空間か。細いここでは逃げ場がなく、広く動き回れる場所が有利か。魔力を方陣に奪われ続けるこの通路より、力を存分に奮うであろう開けた場所は危険か。相手の性質を目で見て知るのが先決だな。しっかりと見てやるとしよう。
床に耳をつけ、壁に耳をつけ、そして手足の爪で登り天井に耳をつける。驚いたことに天井の音が一番大きい。つまりこいつは天井を這い進んでることになる。
「なんとも奇妙。類するものなき越者は常に奇妙ではあるが」
「ここはおれの創りし世界。おれが護りし世界。逃げても無駄だぞ。おれはどこまでも追う。どこまでも追っておまえを喰らう」
「ああ、食うのと穴掘り以外に能はないからな」コブリンも挑発をかえす。下手糞な脅しだな。この罠の出来がよいために、戦うってことの経験が少ないのだろう。与し易いのかもしれない。すでに声は近い。
「おれを見ろ。神のごとき姿を。すべてを恐れさせ怯えさせる姿を。おまえも例外ではないぞ」
「神というよりも、芋虫だな。地面を掘り進む芋虫。不細工なことは同意するぜ」しかし、怯えはしない。怯えなどという感情は闘技場でとうに捨てさせられ、残るのは現状を計量する冷徹な判断力のみ。芋虫といったが、他に形容するべきものを見つけられなかったからそう言っただけで、それほど芋虫に似てるというわけでもない。かといってなめくじかというとそうでもない。そいつは天井に貼りついて進んでいる。
背中でか腹でか判別つかんが、天井に貼り付く器官は古代文字をかたどり、それが天井の文様にぴったりはまっている。すでに刻まれたところには歩行の手段なのだろうが、おそらくは石にも粘土に判を押すように刻み付ける力があるのだろう。透明な身体のなかに魔力をあたえる紅玉が八つ光っている。やはりこの罠に魔力を供給しているのはこいつ自身か。多くの体節がありそれが芋虫の印象となったが、肉体は透明に近く内部に器官らしきものは見つけられない。体節ごと左右に、伸縮しねじ曲がり、流動的な変形をくり返す触手のごとき突出がある。こいつはどこでおれと話をし、どこでおれを見るのか。
通路の大きさのかなりを占めるその巨体は、しかし物質的圧力はあまりないようだ。通路上にある白骨はまったく抵抗なくその身体に飲み込まれ、剥ぐべき肉がないためかなんの変化もおきず、いささかの位置も変わることはない。まるで霧が通り過ぎたみたいだ。
投げ付けて反応みようと、手刀で通路岩をくり貫いてみた。同時に天井を這いずるものが、「がぁ」と「なぁ」をあわせたような悲鳴をあげる。まだ投げちゃいないのだから、痛みの悲鳴じゃないなこいつは、そうだ、悲嘆というものか。方陣が傷つくことを嘆いているのか。その身を傷つけられたように。
「そんなに大切なら返すぜ」と投げつける。岩塊は、透明な肉体に入り込むと白骨とは別の運命をたどった。なんの音もたてず、粉末へと変じ、それも粒子ひとつひとつが磨かれたような光沢をもっている。
「きかないぞ。おれにはおまえの攻撃など。おれの身体に抗する手段はおまえにはない」なるほどな。こうして方陣の通路をつくり、天井に文字を彫りつけたのか。便利な体質だ。しかしこうも正確に正方形の通路にするとは、なかなか几帳面な性格らしいな。変質していても、あるいは元の真っ当な生物だったときの性格は残るものなのか。迫ってきてる前端をおおまかに見れば、そうだな顔に見えなくもない。波打つ水面のようにふるえながら、しかし目鼻口らしい凹凸がある。もはやそれらの機能をまかないはしないだろうが。
越者は前進し、ゴブリンは後退する。方陣を乱した壁の穴を越者が通り過ぎようとしたとき、なんとまた不運な偶然か、さきほど逃げ出した三匹が反対側の通路を走ってきた。突如触手が伸び出し穴を越え、三匹のうち二匹を悲鳴をあげさせる間もあたえず巻き込む。根本は細いままなのに、先端はふくれてゴブリン二匹を包み込んでいる。取り残されたゴブリンは後を振り向くことなく逃げ、体内に入ったゴブリンは、わずかに抵抗したがすぐに動くことを止めた。変色し、縮み、あとは骨となる。革や布は肉とかわらず溶け、金属部分は岩と同じく砕け粒子に。触手が穴から戻るとき、骨はそのまま反対側の通路に残されたのだが、奇妙に骨格を維持したままだった。これがこいつの食餌か。
「おまえになすすべはないぞ。あきらめろ。喰われるだけだ」こいつあまり頭が働かんようだな。いや、まあ、そもそも頭があるかどうかも定かじゃないが。すでに術の始まってる通路だが、効果をあらわすのはさらに先だ。たとえ穴をふさいだとしても、あの位置に白骨があっては後で来る冒険者を怪しませるだけだろう。巻き込まれてることを意識させないのがこの術の巧妙なところなのに、自らぶち壊して気づいていない。
魔物がそんな思案をしている間に、越者は天井から素早く触手を伸ばす。だがとどく寸前に床を蹴り、壁を蹴り、さらには天井まで蹴り飛んで、群がり迫る触手の先端を泳ぐようにくぐり抜け、一歩届かない距離を保つ。触手のなめらかだった動きがためらうようににぎこちなくなる。今餌食にしたゴブリンと、このゴブリンとの違いに困惑してるのか。人間でいえば、顔にあらわれるというところだな。
「やめろ。抵抗は無駄だ。おまえの終りは時間の問題だ」頭の足りなさにあう陳腐な脅し文句だな。しかしこいつ、あいての力量を計りもしないでなにを言ってるんだ。まあいいさ。こいつの鈍い精神は、どういった目で外界を見ているのか調べてみよう。
すでに心を取り戻しているので、今度は構えもせず片腕しか必要としない。ゴブリンの左腕は空気を裂きちぎる轟音とともに旋回し、ふたたび壁を丸く貫く。さきほどの壁より厚いがもはや問題にならない。はげしい悲鳴があがる。「やめろおれの方陣を傷つけるのをやめろ」必死なのか、さきほどよりも前進が速くなったようだ。
「しるか。やめさせてみろ」そういうと壁の穴にしゃがみ込む。反対側の通路に出ず、壁の厚みに収まったのだ。
「どこにいった。隠れても無駄だ。たちまち見つけ出すぞ。おれの方陣より逃げられはしないのだ」やはりな。こいつは古代文字の下、方陣通路の壁が囲むものしか見えていない。さてこれからどうしようかね。道案内につれこんだゴブリンは消耗したし。
ゴブリンが穴の中でそうこう思案してるうちに、越者の行動も変化した。ゴブリンを見つけられず確信がなくなったのか、進んでは退きを繰り返し、目的を見失ったようだ。もはや挑発の言葉さえなく、無言でうろついているのは何を優先するべきか迷っているようでもある。ようやく決心したのか、最初の穴に触手を伸ばし、貫かれて落ちた壁を包み込んで砕く。触手を引き込んで、その中に浮ぶ粒子を塗り込むように埋め穴の補修を始めた。岩を砕くのは一瞬だが、形作るのは時間がかかるらしく少しずつ穴の面積は小さくなる。新たな壁は古い壁とのつなぎ目も見えず裏表完全に補修され、実に高度な技量といえる。それはよいが結局ゴブリン二匹の骨は残されたまま。じき補修は終り、残りの穴に向うだろう。そろそろ決断するときだ。
冒険者が飛び出すと、途端に越者は活気づき叫んだ。「見つけたぞ、おまえを喰らってやる」
「硬いものは試した。柔らかいものはどうかな」一心につき進む越者に水筒の水を投げかける。このような異世界の原形質が清浄な水に弱いということは、何度も体験ずみだ。
途端悲鳴があがった。水を吸収した部分が膨れ上がり、破れたのだ。飛び散る肉片や血を飛び退いて避ける。越者は血ですら危険なことがあるのだ。
「なにをした。なーにーをしーた」
「おまえが求めているものを与えただけさ。おまえは飢え渇いていたのではないのか」と魔物はせせら笑う。
傷口はすぐにふさいだようだが、どうやらこの越者は戦う意思も食欲も失せたようで、ずるずると後ずさっていく。いままで相手していたのが前だとしての話だが。
「あるいはおれは尻と話しをしていたのかもしれん」というと水筒の残りをたしかめ、「まだ水はあるな。次はこいつが道案内になるだろうか」
そういうと飛び散った肉片と血液らしきものを慎重に避け、後を追って最下層へと進むことにした。この先は巣でもあるのか。あいつは何かを守っているのか。越者が底にあるものを教えてくれたなら、それほど苦労しなくてすむのだがと思いつつ。




