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―第八章 さがすひと―

それから直季は、泣きながら何度も深い接吻を繰り返した。

「俺、これで合ってるの?」

「ええ、合っています…とても気持ちいいです…」

椿は溶けた瞳で見つめる。

「こんなキスでさえ、拒まれて、どうしていいのか、全然、俺には答えが分からない」

「こんなに愛情の詰まった答えに、拒む答えが見つかりません」

また、唇が降ってくる。

椿はそれを、受け入れる。

「…直季さん」

「ごめん………ごめん………」

「もう泣かないで、苦しまないで下さい…」

両手で直季の顔を包み込む。

漸く、二人は起き上って向かい合った。

「…直季さん、生活はきちんと出来ていますか」

「………」

「言いにくいですか?」

「…分からない」

「…じゃ、一つずつ伺います。ご飯は食べていますか」

「…うん。でも、いつも白いご飯だった日はない。何かが混ざっている。野菜や雑穀だ。食後は10個のサプリを置かれる。飲まないと離婚をちらつかせる」

椿は絶句した。

脅しに近い。離婚することは子の別れ、地位の喪失を意味する…。

「眠れていますか」

「…一人で。暗い湿った部屋。あの家に入ってからずっと、安眠した日はない」

直季は頭を抱えた。

「世間体があるから、洗濯はしてあげる。子供との会話は食事の時間だけ…女の子だから私と同じようにお稽古をして、上品に育てないといけないから」

「え…」

もう、椿には理解の出来ない世界が広がっていた。

愛情のない夫婦、いや、家庭。

想像を絶する悲しみと、深すぎる闇が彼女に鳥肌を立たせた。

「世間体。彼女の『家庭がある』という世間体の人形」

「………」

言葉が返せなかった。

「俺は家庭を持つことに焦ってしまった。恐ろしい事をした。出来る事なら、この状況から逃げ出したい。でも、逃げ出したら俺には仕事がない、寧ろ汚名だけが残るだけだ」

椿は黙って、彼を正面から抱き締めた。

「暖かいですか」

「……うん」

「人は暖かく出来ています。心があるからです。でも、世間には温度という概念自体がありません。だから、人は人といる事で暖を取ります」

椿は更に力を込めて抱き締める。

「今、暖かいと思ったら、抱き締め返して下さい」

直季は黙って、抱き締めた。

そしてまた接吻が幾度も繰り返される。深く、軽く、深く、深く。

何度も、色々な形で潜り込んでくる。

体温を探し、確かめるように、何度も何度も。

「椿は…暖かい」

「…はい…」

椿は顔を真っ赤にしながら、直季を見つめる。

直季も、泣いた跡も構わず、椿を見つめる。


ピッピッ


直季の腕時計だ。

二人は各々の腕時計を見る。

「三時ですね」

「そうみたいだ」

「顔を直して、ご飯を食べましょう。多少酔い潰れるくらいで構いません」

椿は鞄を探しながら言った。

「…でも、酔って帰ると…その」

「…」

椿はウェットティッシュを出して、直季に向き合う。

「離婚でも突き付けられますか?」

「…うん…」

直季の泣き跡が付いた顔を優しく拭く。

「仕事や地位は努力と自分の力で手に入ります。…逃げてはいけませんか?」

「ダメだ、向こうから法外な慰謝料と養育費を請求される。あの家は、金が全てだ」

「それも逃げましょう」

「…え?」

「届かない人間になればいいんです」

「そんなの……」

椿は数日前に『目論み』として雑多に書きなぐったメモ帳を出した。


「まず、今日直季さんは大物との会合に参加している事になっています。なので、参加者の名前だけ出せば奥様も『世間体』として満足します」

「会合の参加者には最近話題の学者ということで雑誌を見て貰う段取りになっています」

「そのまま国の学者に転身するんです。相手方の父が出資している『私立』の研究所を抜けて。この段階で誹謗中傷があっても、知り合いの記者が相手方の弱みを握っていますのでいつでも潰せます」

「金を要求されても、その記事がある限り手出しは出来ない。その記者はフリーライターですから、全国を転々と歩いています。まず捕まりません」


「椿…君は……」

「すみません、違和感があったので、取材させて頂きました」

深く頭を下げる。

「奥様の料理教室に参加なさっていた方に伺いました。子供さんへの過剰な教育投資、健康食品の代理販売…こちらは押しつけ気味のようですね」

「…そっか」

「残念ながら、良いと感じる情報を掴むことが出来ませんでした」

「いいよ、ありがとう…俺の奥さん、商売上手で育児上手なんだね」

「……すみません、悪いような言い方で」

「構わないよ。…いっぺんに言われて、混乱しているだけで…」

二人に気まずい空気が流れる。

椿は、とりあえずと切り出す。

「ご飯にしましょう。泣いた後は疲れた感じがありませんか?」

「うん、さっぱりもしたけど、疲れた」


二人は幾らか乾いてしまった寿司を頬張りながら、酒を少し酌み交わす。

「私はどのみち、全てに加担しなければならないですので、……直季さんの好きな道を選んで下さい」

冷静になると、下の名前で呼ぶのが恥ずかしい。しかし、この親密な空気を一つとして崩したくはなかった。

「選ぶって言ったって…どうしていいのか…」

「じゃ、好きなことは?何がしたい?理想は?」

「理想……」

直季は言葉に詰まった。

「同じ研究がしたい…子供と、別れたくないけど…あの家は、離れたい」

三つの願いが小さな声で発せられた。

「そうですか…研究は大丈夫だと思います、但し今まで以上のスピードでこなさなければ後出しになり兼ねないので、覚悟して下さい」

直季は小さく頷いた。

「子供は難しいかもしれません………日本の親権は母親に優位です、収入があるとなおさら…」

「……仕方、ないよね…」

またうつむき加減になる直季に、掛ける言葉を失った椿。

そっとコップに酒を注いで、自分でも少し口にする。

「家を離れるのは簡単かと思います。価値観の相違で成立すると思います」

離婚という言葉は使わず、説明を続ける。

「ここで起きた事は不貞に問われません、一個人の調停がどうあれ、お客様の秘密の方が大事ですから」



「家は私が用意していますので、一時でも構いません」


「円満な解決へのタイムリミットは、19時です。会合の中座の理由が遅れると、互いに面倒です」




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