―第七章 ほんとうのひと―
「何があったんですか、話になっていなくても構いませんので言って下さい」
「……………怖い。家が怖い。アンティークの家具に囲まれたお嬢様。俺は底辺の人間だ。重すぎる。…子供だって、お嬢様のお望みのままだ。俺はただの種馬で、家柄だけで囚われた奴だ、人としての権限なんてない。…子供をお風呂に入れた事なんかない。触るなって。今度の…今度の子供だって……」
町井はそれきり沈黙してしまった。
相手の家は大きな家…庄屋のような大本家のような家だったんだろう。
価値観の高さと、階級の違いを分別するよう育てられた妻。
憶測ではあるが、おおよそ「畏れ」であることは分かった。
しかし、幸子という人間は良さそうな人間に見えたのだが…
沈黙のまま、元の研究所まで戻ってきた。
「町井さん、これから別の所に移動します。取材を受けると言って直帰にして来てください。車で待っていますので」
顔が虚ろで蒼白。とても苦しそうだが、ここまでは本人にやって貰わないとこちらとしても困る。
「…うん」
「受付までは一緒に行きますから」
受付で自分の車のカギを貰うと、「玄関でお待ちしています」といって出て行った。
町井はどうにか歩いて、施設内の事務所に向かったようだ。
椿は外に出て、電話を掛ける。
「はい、近東でございます」
「あ、奥様。椿です」
「あら椿ちゃん。どうしたの?」
「お昼から二階、使えますか?」
「いいわよ」
「ありがとうございます」
「じゃ、用意しておくわね」
町井はふらふらとした足取りで、未だ泣きそうな顔をしている。
「車で8分程度です、もう少しだけ頑張って」
―料亭 近東
少し古い、昭和の雰囲気が漂う木造の小さな料亭。
女将が一人で、ランチ前の数名のお客と話をしていた。
男を一人担いで、椿は堂々と入って行った。
「あら椿ちゃん、いらっしゃい」
「上、借ります」
「はぁい。準備もしておいたからお邪魔しませんので」
「助かります」
椿は万札を数枚女将に渡すと、客に目もくれずさっさと二階に上がっていった。
襖を開けると、一升瓶と2人前の寿司、女将の手料理の肴が数点ある。
奥側に先生を座らせ、その横に座る。
「ここは秘密厳守の店です。信用をおけますので落ち着いて下さい」
「……」
「とりあえず午後はゆっくりしましょう」
椿は酒を手に取り、両方のコップに黙って座る。
「ちょっと腹割って話しましょう」
椿がコップを手に取ると、恐る恐る町井もコップを手に取った。
「乾杯」
チン、と椿がコップを推し進めると、町井はグイッと飲み干した。
「……もう一杯」
「はい」
もう一杯分を注ぐやいなや、また一口で飲み干した。
一寸の沈黙があった後、町井は話し始めた。
「あのさ」
「はい」
「俺さぁ。結婚してんの」
睨むような、恨めしいような、悲しい感情が部屋を包む。
「はい」
「それがさ、大学の後輩なんだけどさぁ、超名家のお嬢さんでさぁ。美人でしっかり者で義父のコネでも名誉も手に入る美味しい話」
「………」
「若かったからさ。それが最善だと思って結婚した訳」
町井がコップを出して、催促を求めるので注いでやる。
「俺長男だったし、向こうはお義兄さんがもう後継ぎしてるから嫁ってことでもらったんだけど」
町井は酒を一口飲む。
「ビックリするよね。食器はほとんど高級品、食べ物は有機と付けばなんでもアリ、金は親が持ってるテナントで自分の料理教室開いて稼いで」
コップを置く音が乱暴になる。
「男女の営みもなし。研究者の旦那。っていうただのお飾りで踊らされてたわけだ」
そして低い笑い声が漏れる。
「ある日突然だよ、『今日は子供が出来る日だから、して下さい』って」
残りの酒を飲む。
「そしたらさ、痛いだの、嫌だとか、気持ち悪いまで言うから止めようって言ったら『絶対ダメ』だって」
町井は椿を睨んだ。
「俺、何なんだろうね、種馬?お飾り?ただ研究っていう仕事をしてればいいステータスだけの男?」
立ち上がった。
「違うよね、俺、人だよね」
町井は椿を押し倒す。
「ねぇ、教えて、人間だよね、俺、俺なんだよね?」
椿は驚きで硬直してしまった。
「教えて、椿、正しくなくてもいいから」
町井は椿に接吻をした。
一瞬唇を話すが、次はひたすらに深く長く接吻をする。
「んぅ…」
苦しそうにする椿に、町井ははっとした。
「…っ…ごめん…」
町井はぼろぼろと泣いている。
「大丈夫です」
椿はしっかりした口調で言った。
頬だけではなく耳まで紅潮しているが、町井をその大きな目で見つめた。
「合ってます、苦しみながら生きて、毎日苦しみに身を投じて、正解を探して」
椿は町井の頬を撫でた。
「そして、こうして逃げ道を見つけたんです」
町井は少し、肩の力が緩む。
「言って下さい、どう生きたいのか、どれが正解だと思うのか、言わなくても、探して下さい」
「逃げていいんです。探していいんです………直季さん」