―第六章 もくろむひと―
幸子夫人の元から事務所に戻ると、椿は明日の取材の準備を始めた。
心のモヤモヤが、殺気の様なオーラになっていた。
「卯木」
「何ですか」
「ちゃんと詫びは入れたのか」
「入れましたよ、それどころか友人になっちゃいましたよ」
「………ほぉ」
「ご懐妊なされているとのことでしたので、今後私が直接原稿取りに伺いながら調子を確認しますのでよろしくお願いします」
「そ、そうか、じゃあ頼んだ」
この上司は家族の事なんて分からないんだろうな、と勝手に思い溜息を付く。
「明日直行直帰の取材になるんで宜しくお願いします」
「あ、ああ」
余りの不機嫌さに、誰も近寄れなかった。
椿がこんなにも感情的だったのは初めてだったので、部署内が葬式の様に静まり返っている。
メモ帳、一眼レフ、パソコン。
ボイスレコーダーは必須だったが、あの先生には必要ないと思って机にしまった。
自分が詰め寄るかもしれないという気分の悪い録音が残るという状況も嫌だった。
後は大麦の勉強と大まかなレイアウト、取材内容を作っていた。―無心で。
前回の取材で、あまり勉強をしすぎない程度で丁度いい事は分かっていたので、取材内容の流れとレイアウトだけは作成した。
もう後は最後の「大ネタ」の入念な脳内トレーニングだ。
あまりにも気分が乗らないので、時間になったらさっさと帰宅した。
よく見たら夫人からメッセージが来ていた。
『つばきさん、こんにちは。
今日は美味しいシュークリームをありがとうございました。
原稿が出来たら、お知らせしますね。
主人ともども、よろしくお願いしますね ゆきこ』
翌日 午前9時 研究所
「おはようございます」
「おはよう、卯木さん」
全エネルギーを酷使するかのように、全力で微笑んだ。
どうも昨日から複雑でもやもやとした気持ちが晴れない。
「じゃ、さっそく別施設に移動するけど、車のカギ出してもらっていい?万が一事故とかあったら移動するって程度だから」
「はい、宜しくお願いします」
椿はシンプルな車のキーを取りだし、渡す。
「あんまり飾ってないんだね。社用車?」
「いえ、自家用です。飾ったって邪魔なだけですから」
言い方がものすごくぶっきらぼうだと、自分でも分かっている。
でも、どうも気分が悪いし、うっすら笑みに全力でエネルギーを費やしているので、全然それどころじゃなかった。
町井は受付にカギを渡し説明をすると、小走りで戻ってきた。
「大丈夫です。じゃいこっか」
駐車場に行くと、車の横に研究所の名前があることから社用車であることが分かる。
「15分くらいで着くから。あ、場所は内緒ね」
「はい」
車は走り始めた。
「今日は大麦のどんなお話が?」
「んーとね、まぁこないだみたいに基礎ちょっとと、大麦の国内生産拡大に一石を投じるかもしれない技術の話、かな?」
「基礎あって助かります」
「…卯木さん、敬語」
「少しずつ直します」
有無を言わせない卯木の空気に、町井は理由も分からず困惑していた。が、今聞き出せそうもないので何も言わない事にする。
15分で山を切り開いたような場所に、鉄骨ハウスが何棟も立っている。
駐車場に車を止め、警備室に入る。
「町井です」
「お疲れ様です。本日は一名の入所を許可しているそうですが」
「こちらです」
町井は、椿を手招きした。椿は、名刺を出す。
「源氏出版の卯木と申します、本日は町井先生に一日密着する形で取材させて頂きますのでよろしくお願いします」
「頂戴いたしました。本日いっぱいのゲストカードキーをお出ししますので、施設にはこちらでお入りください」
しっかりした厚みの、『GUEST KEY』と書かれた赤いカードキーを受け取る。
警備室を抜けると、しっかりと舗装された道路が放射線状に並べられていた。規則的な景色が椿を圧倒する。
「すごい…」
「俺の研究施設は左端。わかりやすいでしょ?まぁ、日当たりと土壌条件が一番悪い場所なんだけどね…」
歩きながら説明を受ける。
「でも、町井先生の事だから何か秘策を持ってそうですね」
「…鋭いなぁ、実はこれが今日の目玉ネタなんだけど、とにかくまだ内緒ね」
鉄骨の風除湿らしき入口には、カードリーダーと番号、小さなディスプレイがあった。
町井が緑のカードキーを通し何度か番号をプッシュすると、『町井先生おはようございます。本日ゲスト登録のある方についてカードキーの提示をお願いします』と、機械が流暢に、ご丁寧に説明の声を上げる。
「卯木さん、カードキー」
「あっはい」
赤いカードをカードリーダーに通すと、『ウキ様、本日は宜しくお願いします』と、これまたご丁寧に声が上がる。
カチャリ、と音がして風除湿が開く。
「ダブルで認証ですか…」
「ゲストがいるとトリプル。手の込んだ高級認証機械だよ」
二人とも別の意味で呆れながら、中に入る。
中は専用の資材で三分割にされていた。
「左が寒冷地向けの研究、真ん中が普通土壌、右側が暗室条件の栽培試験」
「暗室ですか?だって日光は必須条件じゃ…」
「日光も入れるよ。時間を決めて入れるんだ。これは今一番面白いから最後ね」
町井は楽しそうに話し、中央の区画に進む。
「とりあえず、最初の部分から」
椿はメモ帳を取り出した。
「先生、写真は取材内容を確認しながら考えますので、撮れないところがあったら説明しながらお願いします」
「ん?うん…」
それから3ブロック、おおよそ30分ずつ時間を割いてもらった。
「成程、寒冷地栽培も魅力的ですがやはり基本の土壌改良に関する部分は大変興味を惹かれました」
「でしょでしょ。今使ってる堆肥が決め手だと思うんだよね。更に上質・多収が証明されれば論文にして販売もしたいと思ってる」
この純粋さが素晴らしい発明を、閃きを生むんだろうな…。
椿はまた別の面で惹かれるのを感じる。
ガタンっ
「な、何の音ですか?」
「ああ、暗室の屋根がかかる音だよ。時間が来たら閉じるようになってる」
「ふーん…ちなみに撮影は」
「ここは出来ないから、普通ブロックと寒冷ブロックだけでお願いね」
セキュリティとかは良いんだろうか、ふと辺りを見回してみる。
「…監視カメラとか、ないんですね」
「監視カメラね、中はないよ。外は凄いけど。ま、いざとなったら非常警報とかあるし…ここにカメラあると俺らが監視されてるみたいで嫌じゃない?」
「まぁ、確かに…じゃちょっと撮影しますね」
「俺は?」
「前回大きく取り上げたので、記事の末尾に一枚と…普通ブロックで観察している感じでいきましょう、あとはこちらで数枚作物の写真を頂きます」
普通ブロックで観察しているようにしゃがんで貰い一枚。
そのままカメラを向いてもらい、笑顔を作ってもらって一枚。
「ありがとうございました、あと適当に数枚頂きますね」
「あ、じゃお茶用意してくるから…」
町井は、前回の椿と随分印象が違うと思いながら、風除湿の方へ向かった。
撮影可能な大麦は全部同じような生育をしているので、個体よりも列やまとまり、ブロック比較のできるような構成になるよう写真を撮っていった。
「さ、卯木さん休憩しましょ、椅子も小さいテーブルもそっから引っ張り出してきたから」
錆びついたパイプ椅子と、応接用の膝丈テーブルという何ともサイズの合わない組み合わせだが、いつもは一人なんだろうと思うと大して気にはならなかった。
二人で缶のお茶を持ちながら話す。
「今回も大変勉強になりました、いい記事になりそうです」
「…卯木さん、俺、タメ語って条件だしたじゃん」
椿は溜息を付いた。
「奥様にお会いしました。同じ雑誌の別の記事を担当することになりまして」
町井の眉間にシワが寄る。椿が目を向けるとさっと目を逸らし、何か不都合でもあるかのように。
「何かご都合がよろしくないですか?」
「…やめてよ、止めて、止めて卯木ちゃん」
左手で顎と唇を覆い、まるで泣きだしそうな顔をする町井。
「お願い、止めて」
町井は懇願する。
「話さないで、会わないで、俺、ダメだ…やだ、もうやだ」
ピッピッ。
町井の、時間を知らせる腕時計が鳴る。
「お車運転します、戻りましょう」
「やだ、やだ、このままここにいたい」
「…いえ、一度戻って、退勤して、ゆっくり話しましょう」
「場所取りますから、時間も取りますから」
椿は町井を半ば強引に連れ歩き、警備室に
「お加減がほんの少し、芳しくないようですので研究所までお送りしますね」
といって、幾らか強引にカードキーを返却し車に乗った。
町井を助手席に座らせ、椿は運転席で電話をかける。
「丹田部長」
「何だ、今からお偉方の取材だぞ!分かってるのか!」
相変わらずの怒声だが、今はそれを無視する。
「一つお願いがあります」
『はぁ?』
「その会合に町井先生も混ざっている事にして下さい。適当に今回の雑誌記事の話でもして印象付けておいて下さい」
『なんだそりゃ?…偽装しろってのか俺に』
「奥様にそのようにお伝えするためです。体調が芳しくないようなので、少し休ませて状況を見て連絡を入れます。…ほら、奥様ご懐妊なさったばかりですから…」
『おっおう、そうだったな。じゃ会合の時にでも話しておく』
「お願いします、奥様にはこちらで連絡を入れておきますので」
椿は電話を切ると、虚ろな町井に言う。
「町井さん、携帯の電源を切ってください。電源パックも外して。悪いようにはしません」
次にメールを打ち始めた。
『ゆきこさん、こんにちは。町井先生が当社の会合に少し顔を出すことになってしまいました。
上司の方で色々先生のお話をお伺いしたいようで、これから取材もするのですが…。
町井先生の携帯電話の電池が切れてしまったようなので、取り急ぎですが、私からメールさせて
頂きました。頃合いを見て早く離席してご帰宅できるよう、善処します。
お体をいたわる時期に申し訳ございません、上司にもよく言っておきます 町井 椿』
そして自分の携帯を公共モードにすると、運転を始めた。