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―第五章 おとなりのひと―

恐ろしいことに、上司は日時を伝えるとその電話の二言目に「いやー、その日は農水省のお偉方さんが取材に応じてくれるからなー、そのまま会食だ!」とか言っていた。

オイシイ予定ですね、とも言えずそのままその日の直行許可を貰って電話を切った。

どちらにしても、ゴネるような事態にならなかったのは良かった。


次の日出社すると、机には今月号の「植物学問」が載っていた。

実際には来週店頭に出るのだが、いつの間にか届いていたらしい。

慌てて中をぱらぱらとめくっていくと、自分の記事が、町井先生の記事が、カラーで掲載されていた。

あの無垢な笑顔が、眩しい。

やっぱりこれは恋?

いやなんて下らない。こんな笑顔、今時の営業マンなんか誰だってできる。

そう言い聞かせて、他の記事にも目を通す。

「卯木ぃぃぃぃ!!」

上司の怒鳴り声が聞こえる。

あまりいい気はしなかった。というか、よくなんかない。完全に怒鳴っている。

「お前こらァ、医食同源のページに先生の名前が入ってねぇぞコラァ!!」

慌てて後ろのページを見る。

すると、本当に入っていなかった。記事は綺麗に入っているのに、監修店舗まで入っているのに、先生の名前が入っていなかった。

「…すいません」

ミスだった。全部できた状態で引き継いだと思っていたので、あまりしっかり目を通さなかったのだ。

「今からアポ取って謝ってこい!詫びの菓子忘れるなよ!」

「すいません!」

慌てて資料を探す。

ファイルには取材場所と人物について等、様々な情報が書かれていた。

「健康料理教室 花葉」

「教室長 町井 幸子」

「連絡、取材可能曜日 平日水曜日 時間は連絡してみないと不明 番号は○○○…」

丁度水曜日だ、というのは幸か不幸か。

…ついでに、町井という名字が引っかかるのは胸の奥にしまっておくことにする。

出版社の電話から、掛けてみる。

「はい、健康料理教室 はなは の町井でございます」

女性の声だ。しかも、とても上品だ。

「もしもし、私源氏出版の植物学問でライターをしております、卯木椿と申します」

「うき…さん?…あら、ご担当は坂出さんではなかったからしら」

「ご挨拶が遅れ申し訳ございません、坂出は先月いっぱいで退社しておりまして…」

「あら、そうでしたの」

「あの、よろしければご挨拶にお邪魔したいのですが、突然で申し訳ないです、その…」

「いいですわよ、もしよろしければ午前はどうですか?」

しっかりした貴婦人だ。椿の焦ったしどろもどろな会話を巧くリードしてくれる。

「はい!大丈夫です!お時間はいかがでしょうか?」

「そうですね…10時頃でお願いできますか?」

「分かりました!宜しくお願い致します」

椿は急いで鞄を持ち、立ち上がった。

「行ってきます!」


近くの菓子屋で、ショートケーキを選ぼうと思って迷った。

―相手は健康に気を使う人間だとすれば、何か健康的な菓子の方が良さそうだ。

気は進まなかったが、にんじんのシュークリームとかいう、生地がオレンジ色の菓子を選んでみた。

彼女は健康オタクで料理下手の母がおり、何かとこういった「野菜を練りこんだ何か」を食べさせられたりしており、雑穀米なんか最悪の5本指に入る。

このシュークリームがおいしいことを祈ると同時に、苦い思い出に顔が引きつらないように、と願った。


午前10時少し前。

町井の表札。小さな二階建ての、比較的新しい家だ。

「ごめんください、源氏出版の卯木です」

夫人は早くに出てきた。

「お待ちしておりました」

「いつもお世話になっております」

深く頭を下げる。

「いえ、こちらこそ。立ち話も何ですから、中へどうぞ」


夫人は優雅だった。

ストレートロングのつやつやとした髪。

ナチュラルな化粧。

紅茶を入れる指の動きも、まるで人形を見ているようだ。

先程渡したシュークリームは、アンティークのような花模様の皿に載せられて出てきた。

「どうぞ」

「あっす、すみませんありがとうございます」

小さく会釈し、紅茶を一口飲む。

「わ、素敵な味!こちらは…?」

「お恥ずかしながら、実は私が色々な茶葉を合わせて作ってみたんです。健康に良いものを美味しく頂くって、素敵でしょう?」

「そうですね、とても美味しいです」

うちの母とは才能が違う。というか次元が違う。これが本物の健康志向主義者であるべきだ。

「あ、申し遅れておりました」

鞄から名刺を出す。

「改めまして、源氏出版でこの度町井様の担当になりました、卯木椿と申します」

「あ、じゃあわたくしも…」

夫人は名刺を机に置き、小さな棚から名刺入れを出す。

「私は健康料理教室の花葉はなはを経営しております、町井幸子と申します」

「わぁ…素敵なお名前の教室ですね」

椿は率直な感想を述べた。

「ありがとうございます、といっても娘の名前から取っているのですよ」

「そうなんですか」

「はい、上の子がはな。これから生まれる子が葉子、の予定なんです」

夫人はやや照れながらお腹をさすった。

「そうなんですか、おめでとうございます」

「ありがとうございます。まだ分かったばかりだから、少しお料理教室をお休みしながらなんです」

椿は、家庭の温かみを感じていた。こんな優雅な母だったら、もっと私もお嬢様っぽい感じに育ったのかもしれない。

いや、家族の話をしに来たんじゃなかった…

「あ、あのそれで本日は…」

「そうでしたわね、坂出さんは如何なさったの?」

前任の坂出は、実は退社していた。フリーライターで食っていく!とか言って現実的じゃない人だと思って送り出したのが懐かしい。

「坂出は個人でライターの仕事をするそうで、突然退社しました」

「あら…まぁ」

「出版業界は縮小傾向なので難しい判断だったとは思いますが、本人なりに書きたい何かがあったのかもしれません」

「そうでしたか」

「何分急な退社でしたので、ご挨拶が遅れ申し訳ございません」

「いえ、お構いにならないで。私も妊娠のことで手いっぱいだったのできっと会えなかったでしょうから」

とてもいい人だ…。肩の力が抜け、本題を切り出しやすくて助かる。

「あの、実はそれともう一つお話がありまして」

「はい?」

まだ店頭に出ていない「植物学問」の最新号を机に出す。そして、肝心のページを開く。

「大変申し訳ございません、私の不手際で監修の店名までは入っているのですが、大事な先生のお名前が抜けてしまいました」

椿は立ち上がった。

「大変、大変申し訳ございません、私のミスなんです…」

頭を下げる。息が荒くなる。緊張の汗がどっと噴き出る。

人はいい。でも、物凄く怒るかもしれない。人間のギャップのようなものに一人、怯えていた。

「卯木さん、そんな、お座りになって」

「すみません」

椿の体は頭を下げたまま、固まっていた。

「あの、店名が入っていますし、大丈夫ですよ、お茶の続きを致しましょう、ね」

夫人は椿の肩にそっと手を置いた。

「あ…」

「ね?このシュークリームも気になっていたの。早く食べましょう」


シュークリームを食べ終えた頃には、すっかり打ち解けていた。

「にんじんのシュークリームなんて、素敵な発想だわ」

「私もいろいろ迷ったんですが、色もきれいで何より野菜が入っている点で気になったので」

「これ、子供でも食べられるかしら」

「どうでしょう…あ、箱にお店のカードが入っていたと思うのでご確認なさってもいいかと思います」

「あ、そういえばありましたね」

「よかったら、次回の原稿を直接貰いに来ますので、確認してお持ちしますか?」

「あら!素敵、助かるわ」

「じゃあ、次回の原稿は…あ、いつもデータですよね。メモリ一つお貸しします」

そういうと、椿は鞄から小さな赤いUSBメモリを一つ出した。

「町井先生専用、ということで」

「ええ、ありがとうございます」

夫人は子供のように微笑んだ。

「私達、お友達みたいね」

「そうですか?そんな、嬉しいです」

「良かったらゆきこ、って呼んで。教室でもないのに先生だなんて気恥かしいわ」

「じゃ、そうしますね、ゆきこさん」

「よろしくね、つばきさん」

柔和で淡い空気が広がる。

「あ、名刺の電話番号なんですけど会社の番号でないので、よかったら何かあればこちらに」

「ありがとう、あとでメッセージを入れておきますね」

二人でくすくすと笑う。


ポッポッ ポッポッ …


鳩時計が鳴る。

「あらもう11時だわ」

「すみません、長居してしまいました」

「いえいえ、お構いなく」

そうだ、とふと思い出した事を椿は尋ねた。

「そういえば今回雑誌で「町井直季先生」を特集させていただいたんですが、同じ名字なのでもしかして、なんて思ってて…」

椿はぱらぱらとページをめくった。

「あら、直季はうちの夫なんですよ。特集なんてあったんですか?あらあら…」

ページを見るなり、夫人はニコニコと満面の笑みでページを読む。


やはり、胸の奥の何かは正しかった。

奇遇すぎる。

違う、私は敵ではない。

ただの取材相手、ただそれだけだ。


「ご存じなかったんですか?」

単純に驚いた。会話がないんだろうか。

「ええ、仕事の話はあまりしないので…でも折角同じ雑誌の取材なら、直季も教えてくれればよかったのに」

「そうですね、奥様の…いや、ゆきこさんの連載がある雑誌ですしね、知ってたなら言ってくれればよかったですよね」

余計な会話がない、という事だろうか。

「本当よ、もう。帰ったらわたくしが教えておきますわ」

「よろしくお願いします」

落ち着け。ただの、今日出来た友達だ。

「あ、町井先生…旦那さんの記事なんですが、内部で盛り上がっていて次回も取材させて頂くことになっていたので」

「そうなの!嬉しいわ」

「いい記事になるように頑張ります」

記者としての取材だ。何もない。



手を振って町井家を出た。

車を走らせ、コンビニで水分を買ってすぐに車に戻る。

「あり得ない」

「あり得ない、あたし家族取材してんの?」

「町井先生…あなたは何を考えて私に接してるの?」

「何なの」

「何なのよ…!分かんないわよ!」



椿は迷走していた。

自分の気持ちが分からない。

町井直季の気持ちが分からない。

幸子夫人は素敵すぎる人間だ。



全ては明日の取材で分かる。

椿は、取材を終えたタイミングで聞き出そうと、決心していた。

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