―第三章 おなじひと―
午後二時。
二度目の研究所だ。
迷わず受付に向かうと、既に先生は待ってくれていた。
「卯木さん!こんにちは」
「町井先生、お世話様です」
深々と頭を下げる。
「あ、そんなに堅苦しくしないで下さい。気軽に話してもらっていいですから」
椿が頭を上げると、町井の童顔の笑顔があった。
「同じ出身なんだし、さ」
「あ、はい。ありがとうございます」
また、深く頭を下げる。
そして頭を上げると、二人でくすくすと小さく笑った。
受付で氏名を記入し、同じ温室への道を二人で歩く。
「卯木さんは雑穀お好きですか?」
「あっ…ええと…」
椿は戸惑った。
実は健康オタクの母が作った雑穀米が恐ろしく不味く、もう数年は嫌いなものとして名前の挙がる物だった。
「すみません、雑穀米は苦手です」
正直に答えた。雑穀自体は前回の取材で興味を引く存在になったが、やはり味覚の拒絶だけは記憶に強く刻まれている。
「奇遇だね、俺もダメだもん雑穀米」
「えっ」
「嫁さんが子供のためにとか言って作るんだけど、無理。離乳食からこだわらないとダメだとか言って、ちょっとこじつけかなと思うんだよね」
その道のスペシャリストが堂々と雑穀米の拒否を話している。
椿は戸惑いと、別のことに気付く。
「お子さんいらっしゃるんですね」
「うん、10ヶ月でね。俺お風呂とか入れるんだけど可愛いんだ。こないだ髪切って帰ったら泣かれてさ…ビックリしたのはいいとして、泣かなくても…」
「ふふ、楽しそうなご家庭ですね」
「あ、まあ楽しいです。その雑穀米さえ出てこなければ」
穏やかな空気だった。
権威ある先生でも嫌いな物はあって、それがその辺の若い記者と同じ、嫌いなもの。
椿は、何か今までの緊張がほぐれたと思った。
同じ人間なんだと思った事が、きっとそうさせたのだろう。
「雑穀」と書かれた温室に到着した。
相変わらずではあったが、机の上に地元の名産煎餅があるのに目が行った。
が、それが目的ではないのですぐに話を切り出す。
「すみません、実は一つお願いがあるのですが」
「ん?何?」
どう言おうか今更迷ったが、正直に言う事にした。
「実は今回の記事、カラーで町井先生の研究中のお写真も掲載することになって……その、本日数枚撮らせて頂けないでしょうか?」
またも深く頭を下げる。
「頭、下げないで下さい。勿論いいですから」
頭を上げると、やはり町井は微笑んでくれている。
「煎餅食べてる所以外でお願いしますね」
「はい、勿論です」
記事の訂正の前に、さっさと撮ってしまおうという事で、早速カメラを手にする。
「あれ、今日は一眼レフ?」
「はい、カラーの特集記事なので社から良いカメラを持ってきました」
「なんだか恥ずかしいなぁ…」
町井は照れたように腕を組み、苦笑した。
カシャッ!
「あっ!」
「今の感じでいいんです、先生の気さくでさっぱりしたその笑顔を伝えたいので」
ニコニコと椿はしてやったり、な顔を見せる。
「卯木さんは巧いですねー、おみそれしました」
三十分程、数枚研究姿を撮っただろうか。
椿は「発芽試験を見つめる姿で」とか、「データ取ってるようにメモ取りながら」「もっと表情を引き締めて」と、幾つも指示を出しながら写真を撮っていった。
「こうやって雑誌って作られているんですね…まさかポーズを取ることになるとは…」
町井は椅子に座って、感心したような気恥かしいような、困った表情をしていた。
「まぁ、まさか研究時間にべったり張り付くわけにもいきませんし…そもそもカメラがいると、逆に意識した表情になりがちなんです」
カメラをしまいながら、椿は唯一上司がまともだと感じた受け売りを伝えた。
「なるほど。いや、こっちが勉強になりました」
感心したように、率直な感想を言った町井。
「さ、次は記事見ましょう」
「え?もう次?」
「大丈夫です、ポーズを取る必要はないんですから」
微笑む椿。今日は彼女が主導権を握っているようだ。
「…お茶飲みながらでいいよね?」
「はい、そうですね」
ガサガサと鞄から書類を出す。カラーに装丁し直した記事だ。
その間に、町井はお茶と煎餅を用意する。
あっという間に机いっぱいに物が並べられた。
お茶、煎餅、布巾(といっても研究用の専門紙を濡らしただけ)、カラーの記事とモノクロの記事。
まだ校正中なので汚してもいい、ということでとりあえずお茶と記事を全部並べた。
「ま、とりあえず煎餅食べましょう」
「わぁ…このお煎餅!懐かしい…」
椿の故郷の煎餅だ。町井は西側の出身だが、目の前にあるのは東側の名産品だ。
「友達に電話したら、丁度駅で東側の名産品店やってたみたいですぐ買えたんだ」
「そうだったんですか!何だかすみません、ありがとうございます」
「いや、俺も食べたかったし、丁度良かったよ」
二人でお茶と煎餅を楽しむ。
「ありがとうございますホントに、おいしいです」
「俺も、久々に食べると美味しいね」
「今度美味しいお菓子、買ってお邪魔しますね。いつも手ぶらですみません」
「ホント?楽しみだねー」
やわらかい空気がこの場を包む。
まるで友人のように。
ピッピッ
町井の時計が鳴る。
「あ、三時か」
「あっ、気が付かなくて済みません、お時間大丈夫ですか?」
椿は慌てて布巾で指を拭き、ペンと記事を持つ。
「大丈夫、あと一時間は時間取れるから」
「校正やりましょう。時間には余裕を持たないと」
「…卯木さんはしっかりしてますね」
「いえ、時間に厳しく動いてるだけです」
そしてまた椿のペースで、時間は動き出した。
四時まで残り十五分という所で、校正は終了した。
「ありがとうございました」
「いえ、俺も納得いく感じになって良かったです」
二人は達成感で微笑み合った。
「あの、最後に、よろしければ次号でも何かお話を掲載できればと思っておりまして」
椿は丁重な言い回しで、上司のお願いを話す。
「いいですよ」
「えぇ!?いいんですか!」
町井の即答に、椿は大きな声で驚いてしまった。
「いいですよ勿論。但し、なんですけど」
町井は人差し指を差し出した。
「雑穀米嫌いなことは書かない」
「勿論です。人じゃなく、雑穀の栽培を載せる雑誌ですから」
「人柄とか、家族のことは書かない」
「それも勿論です。小さい雑誌ですが、ご家族のプライバシーの観点からもそういった取材は致しません」
「あと、俺との会話はタメ語でいいから」
「え?」
椿は目を丸くした。
「同郷だし、煎餅美味しいし、雑穀米嫌いだし」
「えー…と…」
「ま、何かと共通点が多いってことで、気兼ねなく話したいって意味で」
「あ、は、はい」
「…卯木さん、わかった?」
「は、はぁ…」
「わかった?」
町井の押し問答は、まるで駄々っ子だ。
椿は驚き、気持ちが押される。
「はい」
「はいじゃなくて」
「はいじゃない………じゃあ、うん?」
「そう」
町井は笑顔を見せ、満足したようだ。
「今度は別の施設でやってる大麦の話なんてどうかな?」
「…うん、じゃ、あの、次は携帯に連絡ください、取材で出てる日もあるので」
「了解、施設と俺の都合が合う時連絡入れるね」
「…はい」
椿は困惑していた。
何でこんなに顔が赤いのか分からないからだ。
元の受付までは他愛もない雑談をして戻ったが、あまり顔を上げられなかった。
「では、連絡……待ってます」
「はい、早めに連絡できるようにします」
ニコニコと、何か満足げな笑顔で手を振る町井。
小さなお辞儀をして、椿は帰って行った。