マニュキュアの途中で
花の香りが残っているような春の夜。
伊藤まなは足の爪に、マニュキュアを塗っていた。
色はオレンジ、春の明るさを表したかのようだった。
「ーよし、塗れた」
両足を眺め、満足そうに言うと、後ろから抱きつかれる。
持っていたマニュキュアの瓶を落とし、まなは慌てる。
ー早く拾わなくちゃ!! でも…。
がっしりと捕らえられていて、身動きができない。
まなは何とか首だけ横に向けると、後ろの男性に言う。
「涼太、ちょっと待って。マニュキュアの瓶が…」
「関係ない。俺、待った。すごく待った」
はっきり言われ、髪を口に含まれる。
少し噛まれるような形で、身体が気持ちいいと伝えてくる。
ー全く、涼太ったら。
熱い息を吐きながら、まなは緊張していた。
2人ともまだ20代で、身体は若々しかった。
まるで桜の花びらを思い出させるように、2人の身体が染まっていく。
涼太ー西野涼太とは、付き合って1年、同棲生活を始めたのは、ここ2か月が経った頃だった。
人によっては、早いとか遅いとか、言われるけれど、気にしなかった。
ー人の言うことは、当たりハズレがあるから。
笑いながら流す。
それが1番だった。
「ーまな」
「うん?」
身体の力が緩んだので、顔を向けると、突然、キスされる。
それも深くて長いの。
息が続かず、涼太の腕を叩くと、ようやく解放される。
「まなの唇、蜂蜜が塗られたように、甘い」
「え…。そうなの?」
濡れた唇を気にしながら、まなは身体を回転させられ、慌てる。
「ま、マニュキュア、片付けさせて。その、邪魔になるから」
「駄目。少しも放したくない」
涼太はマニュキュアを拾い上げると、遠くへ捨てる。
「あ」
まなは声を出したが、マニュキュアの瓶と一緒に、冷たく転がるのだった。
ーもう強引なんだから。…でも、そこが良かったりするのよね。
力強く抱きしめられ、まなも恐る恐る、涼太の背中に腕を回す。
涼太は喜んで、頬にキスしてくる。
まるで大事な宝石を前に、口づけするような、そんな優しいキスだった。
「ー一緒に風呂に入る?」
「え…。ち、ちょっと待って」
まなが慌てて、身体を放そうとしたが、涼太に邪魔される。
「今は駄目!! やっとマニュキュアを綺麗に塗ったんだから」
「ちっ。せっかく誘ったのに」
涼太に身体を解放され、まなはほっとしたのも一瞬、淋しさから腕を伸ばす。
「待った!! その…キスくらいならいいんだけど」
「本当に? 嫌じゃないの?」
「嫌なわけ…その、あるわけがないじゃない!!」
一生懸命、想いを伝えると、涼太はにこりと笑い、また抱きしめてくる。
足のマニュキュアは多分、シールのように剥がれているだろうが、この際、もういいやと思うことにする。
オシャレをするよりも、涼太とスキンシップするほうが優先だった。
彼以外、触って欲しくないし、じろじろと見られたくなかった。
涼太の身体に鼻をこすりつけると、男性特有のフェロモンの香りがする。
それは強くて、優しくて、嘘がつけないものだった。
ー嘘は嫌い。すぐにバレるから。
まなは密かに眉根を寄せ、固まる。
この世の中、嘘だらけで、誰を信じていいのか、自分次第だった。
もちろん、涼太も嘘をつくことがあるのだが、元々、素直で明るい性格なので、すぐにバレるのだった。
ー可愛い。
くすりと笑うと、涼太は20代の男性というより、子どものように思えた。
「何? どうして笑ったの?」
「うん? ちょっとね」
「駄目。教えて」
背中に爪を立てられるが、痛みはなく、まなは正直に伝える。
「涼太、可愛いなと思って。大型犬みたい」
「は? 大型犬? 俺が?」
「そう。その通り」
涼太はまなの顔を覗き込んでくると、じっと見つめてくる。
嘘は言っていないので、堂々と視線を返すと、瞼にキスされる。
「まなは正しいことしか言わないからな。俺、馬鹿だけど、それくらいは分かる」
「こら。自分で馬鹿って言わないの!! 自分を傷つけても、自分が痛いだけでしょう!!」
本気で怒ると、涼太がびっくりしたような顔をし、それから満面の笑顔を浮かべてくる。
「まな、大好き」
「ありがとう。全く、もう2度と言わないでね。そうじゃないと、涼太を選んだあたしまで、馬鹿になっちゃう」
「あ、そうか。ごめん」
しゅんとした姿は、まるで大型犬そのもので、まなは優しく涼太の頬に触れる。
「いい? あたしの涼太は強いところもあるけれど、包み込む優しさがあって、嘘をつけない人なの。素直なところが気に入っているんだから、こうしてやる」
涼太の頬を軽くつねると、彼は意味が分かったようで、嬉しそうにうなずいてくる。
単純なところも、涼太のいい点だった。
ーこの人には、あたししかいない。導けるのは、あたしだけだ。
そう決めつけると、興奮を促すように、まなからキスをする。
涼太の唇は熱く、愛が溢れているようだった。
ー一生に一度の恋しか許されないのだとしたら、涼太がいい。
自分でもすごいことを思っているなと気づいたが、涼太への癒やしをやめようとしない。
またキスしようとすると、逆に襲いかかられ、深いキスとなる。
まなが床に倒れても気にせず、ずっと追いかけてくる。
「ちょ…!! 涼太!!」
「うるさい。まながいけない」
涼太は狩人みたいな目つきをすると、そのまままなの身体に触れてくる。
春の夜は穏やかで、2人の息づかいが大きく聞こえる。
「まな、いい?」
「…いい。涼太の好きにして。あたしも、その、頑張るから」
何をとは言わず、2人の身体が重なる。
まなは涼太にされるままじゃなく、髪に触れたり、頬に触れたりする。
「ん…!! その、あの!!」
キスの合間に声を上げると、涼太がしっと人差し指を立ててくる。
「今は俺のまななの。俺しか時間を使っちゃ駄目なの」
「…うん、分かった」
強く抱きしめられ、まなはほうと息を吐き出す。
床の傷みなど、関係なく、涼太の大きな手に操られていく。
ー涼太はあたしのもの。あたしも涼太のもの。これ以上の幸せはないわ。
ちらりとマニュキュアが目に入ったが、床に転んだ姿に何故か、ほっとする。
まなは安心して、涼太の愛情を一心に受けるのだった。




