辺境の「おすそわけ」食堂 ~最強聖女だった私は、追放先の森で魔王軍の胃袋を掴むことにしました~
追放の馬車は、止まらなかった。
揺れるたびに硬い木の床が背中を打ち、リナリアはずっと天井の染みを数えていた。一、二、三。数えることに意味はなかった。ただ、何かを数えていれば、今自分がどこに向かっているのかを考えずに済んだ。
窓の外では、帝都の白い尖塔が遠ざかっていった。
「聖女リナリア。北辺の森への追放を命ずる」
宮廷での出来事は、もはや霧の向こうにあるみたいに曖昧だった。覚えているのは、大神官の乾いた声と、廷臣たちの視線だった。憐れみでも怒りでもない——役目を終えた道具を見るような、あの無関心な目。五年間、その国のために身を捧げてきた。傷ついた兵士たちを癒やし、疫病に倒れた村人たちに手をかざし、戦場に散った魂を見送った。それだけの年月が、一枚の羊皮紙で終わった。
理由は聞かなかった。聞ける立場でないことは、とっくに知っていた。
馬車が最後に揺れたのは、鬱蒼とした森の入り口だった。御者が短く「ここだ」と言い、リナリアは道具箱ひとつぶんの荷物とともに、石畳のない地面に降ろされた。振り返る間もなく、馬車の車輪が砂利を踏む音が遠ざかっていった。
残されたのは、秋の終わりの冷たい風と、木々の梢が揺れるざわめきだけだった。
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琥珀の森、と地元の者たちは呼ぶらしかった。
夕暮れ時になると、理由がわかった。西日が差し込む角度によって、古い広葉樹たちがいっせいに金色に染まる。それはまるで竜の鱗が落ちて積み重なったような、冷たくも荘厳な輝きで、リナリアは思わず足を止めた。
——綺麗だ。
その感想が、自分の中から出てきたことに、少し驚いた。
五年間、美しいものを「美しい」と感じる余裕がなかった。戦場の夕日も、病床の窓から見た朝焼けも、いつも何かの仕事の背景でしかなかった。けれど今、目の前に広がる黄金の森は、ただそれだけのためにそこにあった。リナリアが見ても見なくても、毎日こうして輝いているのだろう。
腹が、鳴った。
現実はあっさりと詩情を塗りつぶした。
リナリアは荷物の中を漁った。硬くなったパンが半かけら。水筒に残った水。それだけだった。大神官の慈悲か嫌がらせかは判断がつかない、最低限の手切れ金が入った小袋もあったが、今すぐ食べられるものではない。
「……焚き火、かな」
声に出したのは、誰かに言うためではなかった。ただ、声が出るということを確かめたかっただけかもしれない。
石を積んで竈を作ることは、意外と体が覚えていた。五年前、聖女になる前の話だ。田舎の村で母と並んで料理を作っていた頃の記憶は、宮廷での記憶よりも鮮明に指先に残っている。落ち葉と乾いた枝を集め、魔力でごく細かく火種を作る。これは「神聖魔法の浪費」と宮廷では眉を顰められた使い方だったが、今は誰も見ていない。
食材は、森の中にあった。
ジャガイモに似た根菜が、木の根の近くにいくつも転がっていた。聖女として各地を巡った経験が、ここでも役立った。毒のある植物の見分け方は、叩き込まれている。リナリアは根菜を三つ拾い、干からびたハーブを少しちぎり、水筒の水で簡単に洗った。
焚き火の赤い光の中で、根菜を灰に埋める。
しばらくして、香りが立ちのぼった。
土の中に閉じ込められていた何かが、熱によって解放されるような、素朴で甘い匂い。焦げた皮のすこしビターな香りと、中から滲む水分が混ざって、夜の森の冷気にゆっくりと溶けていく。
リナリアは焚き火の前にしゃがんで、その匂いを吸い込んだ。
胸の奥が、震えた。
灰から引き上げた根菜は、不格好に焦げていた。宮廷の料理長なら即座に捨てるだろう代物だった。けれどリナリアは両手でそれを持ち、熱さに顔をしかめながら、皮をむいた。中から白い湯気が勢いよく立った。指先が痛い。でも、この熱さが、今は嬉しかった。
一口、食べた。
ほくほくとした食感が舌の上に広がり、甘さと土の風味が後を追った。薄味だった。塩もなく、バターもなく、ただの焼き根菜だった。けれど。
「……おいしい」
声が、かすれた。
目の端が、熱くなった。泣くつもりはなかった。でも、涙はリナリアの意志など関係なく頬を伝った。おかしい、と思った。こんなに不格好で、こんなに素朴なものを食べて泣くなんて。でも止められなかった。
——私、まだ、味がするんだ。
五年間、食事は「回復のための燃料」だった。何が美味しいとか美味しくないとか、感じる前にもう次の仕事があった。けれど今、焦げた根菜の甘みは確かに舌の上にある。熱が確かに食道を流れていく。誰かを癒やすためでも、誰かに感謝されるためでもなく、ただ自分が食べたくて食べた一口が、こんなにも胸に沁みるとは思わなかった。
リナリアは泣きながら、不格好な焼き芋を、最後まで食べた。
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翌朝、倒れていたのは、銀の狼だった。
木の根が盛り上がった場所に、横たわっていた。体長は成人男性の身長を超えていて、全身が傷と泥に覆われていた。右の後ろ脚には深い切り傷があり、昨夜からずっと出血しているらしかった。リナリアが近づくと、かすかに唸り声が上がったが、起き上がれる様子はなかった。
「……食材、じゃない、よね。大きすぎるし」
口から出た言葉が自分でも驚きだったが、昨日から何も食べていない自分が、本能的に「食べられるか」を判断してしまったらしかった。失礼極まりない話だった。
リナリアは荷物から包帯代わりの布と、残りわずかな水を取り出した。神聖魔法で傷を癒やすことはできる。でもその前に、汚れを落とさないと感染の元になる。
「痛いかもしれないけど、我慢してね」
返事はなかった。当然だ。でも、声をかけずにはいられなかった。宮廷にいた頃からそうだった。意識のない病人にも、倒れた兵士にも、リナリアは必ず声をかけてから治癒を施した。
傷口を清め、魔力を手のひらに集める。金色に光る魔力が、銀狼の傷に流れ込んでいく。切断された組織が繋がり、血が止まり、炎症が引いていく感触が手のひらに伝わってきた。
それから、昨夜の残り火を掘り起こして、スープを作った。
水を沸かし、昨日の残りの根菜を刻み、チクリとした清涼感のある野生の香草を一撮み加えた。塩の代わりに、岩の表面に吹いた白い鉱物を少し削って入れた。食べられるかどうか、半分賭けだったが、長年の経験がそう告げていた。
煮えるにつれて、香草の爽やかな香りが湯気とともに立ち上った。土の中に眠っていた根菜の甘みが溶け出して、スープはうっすら黄色がかった琥珀色になった。コトコト、コトコトという音が、朝の静かな森に低く響いていた。
銀狼の鼻先が、かすかに動いた。
「起きた? 飲める?」
リナリアが木のボウルをそっと近づけると、銀狼は顔を上げた。金色ではなく、銀に近い灰がかった瞳が、リナリアをじっと見た。警戒心と、それを上回る何かが、その目の中にあった。
長い舌が、ボウルの縁に触れた。
それから、勢いよく飲んだ。
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三日後に、銀狼は青年になった。
厳密に言えば、人の姿を取れる魔獣——守護獣の類だということが、後でわかった。目を覚ました翌朝、リナリアが薪を割って戻ると、ログハウスの前の切り株に、見知らぬ青年が座っていた。
銀白色の短い髪。切れ上がった目。頬に古い傷跡がひとつ。着ているものはリナリアの替えの外套で、袖が短すぎてひどく不格好だった。
「……あなたが、あの狼?」
「そうだ」
短く、低い声だった。
「フェン、と呼べ」
「リナリアです。どうぞよろしく、フェンさん」
「……よろしく、は要らない」
不愛想にもほどがあったが、リナリアは気にしなかった。彼がまだ昨日のスープに半分向いている鼻を、ちゃんと見ていたから。「パンが焼けてるんですけど、食べますか」と聞くと、彼は黙って頷いた。
後でわかったことだが、フェンはかつて魔王軍の将だった。西方の戦線で帝国の討伐隊と戦い、深傷を負って退いたところで、仲間に置き去りにされていた。半死半生で北を目指したのは、かつてこの森に身を隠したことがあったからだという。
「だから、私の敵、なんですね」
夕食の後、焚き火の前でリナリアが言うと、フェンは少しの間黙った。
「……そうだった、のかもしれない。今は、違う」
「どうして?」
「貴様のスープが、うまかった」
リナリアは笑った。声に出して笑うのが、久しぶりに感じた。
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森に居着いて二週間が経つ頃、ベルが現れた。
ある朝、蜂蜜を探しに行ったリナリアが、木のうろの中で眠っているところを発見した。手のひらに載るほどの小さな体に、透明な羽が四枚。尖った耳と、蜂蜜色の髪。妖精だった。
「む……なに、デカい人間」
起こしてしまったらしかった。
「ごめんなさい。蜂蜜を探していたんです」
「わたしの巣の蜂蜜に手を出したら、呪うからね」
「……蜂蜜、もらう代わりに何かお礼ができますか」
「なにかって——」
その時、風が向きを変えた。
ログハウスの方から流れてきた匂いに、ベルの小さな鼻がひくりと動いた。フェンが朝から焚き火の番をしながら、リナリアに言われた通りに煮詰めていたジャムの匂いだった。森の実と蜂蜜を合わせて、ゆっくり炊いた、甘く芳醇な香り。砂糖が焦げる寸前の、琥珀のような金色の匂い。
「……なに、あの匂い」
「ジャムです。パンに塗って食べると美味しいんですよ」
ベルの表情が、みるみる変わった。
「……蜂蜜、あげる」
決断が早かった。
それからベルはリナリアの食堂の——まだ食堂とは言えない小屋の——常連になった。毒舌は変わらなかったが、甘いものを目の前に出された時だけ、小さな顔がへにゃりと緩んだ。コンポートの鍋の縁に腰掛けて、甘い湯気をめいっぱい吸い込む姿は、どんなに憎まれ口をきいていても愛らしかった。
「フェン、ベルちゃんを追いかけないでね」
「……追いかけてない。視線を向けているだけだ」
「それを追いかけるって言うんです」
「うるさい」
「うるさいのはそっちだ銀狼」
「ベルちゃんはフェンさんのこと、怖くないんですか」
ベルはジャムパンから顔を上げ、一瞬フェンを見た。
「こいつは——まあ、においが怖くないから」
「においが?」
「怒ってる生き物は、きつい匂いがするの。血と、錆と、熱い金属みたいな。でもこいつは今、そんな匂いがしない」
フェンは黙っていた。耳が、少し赤かった。
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問題が起きたのは、三週間目の夜だった。
森の外れに、三つの人影が現れた。
リナリアには気配でわかった。魔族の気配——人間とは微妙に違う、夜の空気に馴染むような魔力の揺らめき。フェンはすでに気づいていて、リナリアの前に立っていた。銀狼の姿ではなく人の姿のまま、右手に魔力を集めていた。
「待って」
リナリアは彼の腕を掴んだ。
「……何をする」
「見てください。あの子たち、ふらふらしてる」
三人の魔族は、確かに足元が覚束なかった。一番小さい者は、木の幹に手をついてやっと立っていた。服はボロボロで、体のどこかに傷を負っているらしく、黒い滲みが布に滲んでいた。
「飢えてるんだと思う」
「……奴らはフェンを狙ってきた刺客だ」
「でも今は、腹が空いて動けない刺客です」
沈黙が落ちた。
「……正気か」
「聖女の勘です」
リナリアは三人に向かって声をかけた。手は上げて、武器がないことを示しながら。
「そこにいるかた! ご飯、食べますか!」
三人が固まった。
いちばん大柄な者——角を持つ、成人の魔族——がゆっくりとリナリアを見た。何かを警戒する目だった。罠だと思っているのだろう。当然かもしれない。
「毒は入ってないです。さっき作ったシチューが残ってて、もうじき傷むんです。食べてくれる人がいれば助かります」
嘘ではなかった。多めに作ったのは、フェンの食欲を見越してのことだったが、今夜のフェンは珍しくあまり食べなかった。
長い沈黙の後、小さい魔族が一歩前に出た。
「……食べる」
後ろの二人が慌てて引き止めようとしたが、小さい魔族は首を振った。「もう動けない」と、小さな声で言った。「このまま倒れるくらいなら」という続きは、声に出なかったが伝わった。
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食卓に、四人と一妖精と一銀獣が並んだ。
シチューは豆と根菜と、フェンが狩ってきた兎の肉で作った。長時間煮込んだ豆がとろりと溶けて、肉の旨味と混ざり合い、仕上げに加えた野生の香草が爽やかな後味を添えていた。リナリアが神聖魔法で温度を一定に保ちながら煮込んだそれは、普通の竈で作るよりもずっと深い味がした。
大柄な魔族が、最初の一口を飲んだ瞬間に、目を見開いた。
何かが、彼の喉を通った。食べ物だけじゃない何かが。それがわかったのは、彼の目の端が、わずかに光ったからだった。
「……うまい」
囁くような声だった。
隣の中背の魔族も、スプーンを持つ手が震えていた。力が入らないのか、感情なのか、リナリアには判断できなかった。でも、彼が何度もゆっくりとシチューを口に運ぶ様子を見ていると、胸の奥がじんわりと温かくなった。
小さい魔族——後でグレイという名だとわかった——は、一口食べて、しばらく動かなかった。
「……ねえ」とグレイが言った。「なんでこんなに、あったかいの」
「シチューだから?」
「そうじゃなくて」
グレイは小さな手でスプーンを握り直した。
「なんか、む——胸が、あったかい」
リナリアは答えに詰まった。うまく言葉にできなかった。でも、黙っていたフェンが、珍しくぼそりと口を開いた。
「……誰かが、自分のために作ったものを食う時は、そういうもんだ」
全員が、フェンを見た。
フェンは視線を避けるように少し顔を背け、シチューを一口飲んだ。
「——おかわりだ」
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それから、森の食堂は増えていった。
増えた、というのは正確ではない。気がついたら、ログハウスの周りに人の気配が増えていた、という方が近い。グレイたちが毎日来るようになり、グレイたちを追ってきた別の魔族が来て、「ここで何をしている」と聞いたら「飯を食っている」と答えが返ってきて、その者もまた来るようになった。
ある日の昼下がり、リナリアが長い台を外に出して「もう室内では全員入らないから」と宣言した時、集まっていた者たちを数えたら十二人いた。
「多すぎる……」
「俺が追い出す」
「だめです。みんなパンを焼く手伝いをしてくれてるんだから」
実際、グレイたちは自然と手伝いを始めていた。大柄なダルグは薪割りが得意で、中背のモシュは意外にも畑仕事のセンスがあって、グレイは小さな体を活かして高い棚の上のものを取るのが上手だった。
料理の匂いというのは、不思議な力がある。
剣の構えで向き合っていた相手が、シチューの鍋を囲むと、少しずつほぐれていく。戦い方しか知らなかった者たちが、パンの生地を一緒に捏ねると、笑い方を思い出す。ダルグは最初、笑い方がわからなくて、表情が引きつっていた。でも三日目に、ベルがジャムに溺れかけて引き上げられる場面を見て、堰を切ったように笑い出した。その笑い声が大きすぎて、フェンが眉間に皺を寄せた。
リナリアは、その光景を見ながら、初めて「楽しい」という感情を思い出した気がした。
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秋が深まる頃、焦がしバターのクッキーを焼いた。
バターを鍋で溶かし、泡が消えて黄金色になる寸前まで熱する。その瞬間の香りは——一度嗅いだら忘れられない類のものだった。焦げた乳の香りと、ナッツに似た芳醇な甘さが混ざり合い、森の冷たい空気の中をゆっくりと広がっていく。
フェンが、物陰から気配を消してこちらを伺っているのに気づいたのは、最初の一枚を天板から外した時だった。
「フェンさん、今日は匂いにつられてくるの早いですね」
「……匂いにつられてきたわけじゃない」
「じゃあなんで」
「見回りだ」
「見回りの経路が、たまたま台所の真ん前を通るんですか」
沈黙。
リナリアはクッキーを皿に盛り、フェンの隣に座った。一枚取って、差し出した。フェンは一瞬だけ躊躇した後、受け取った。
「食べてみてください。今日は砂糖を少し控えて、岩塩を一粒のせたんです」
フェンが口に入れた瞬間、わずかに目が細くなった。
「……甘すぎない」
「そう思って。フェンさん、甘すぎるの得意じゃないでしょう」
「……気づいていたのか」
「毎日一緒にいれば、わかります」
フェンはクッキーを持ったまま、少しの間黙っていた。彼の耳が、人の姿の時にはないはずなのに、なぜかそわそわと動いているように見えた——これはリナリアの幻視かもしれなかったが、幻視とは思えなかった。
「リナリア」
「はい」
「お前は——料理をしている時、楽しそうだ」
「……はい」
「帝都にいた頃も?」
リナリアは少し考えた。
「いいえ。あの頃は、誰かのために何かをすることが、自分の存在意義だと思ってました。役に立たなければ、いなくてもいい、って。だから料理も、魔法も、全部——誰かのための道具でした」
「今は、違うか」
「今は」とリナリアは言って、自分でも一枚クッキーを口に入れた。「美味しいと感じる自分のために、作ってます。それでも、誰かが美味しいって言ってくれたら、二重に嬉しいです。だから——前とは、全然違う」
焦がしバターの香りが、まだ空気の中に漂っていた。秋の光が木の葉を透かして、二人の間に斑模様の影を作っていた。
フェンが、静かに言った。
「……もう一枚、もらえるか」
「どうぞ」
「貴様の料理は——まだ、食い足りない」
リナリアは、なぜかその言葉が、どんな言葉よりも温かく胸に届いた気がして、前を向いたまま目を細めた。
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問題が来たのは、木の葉が半分落ちた頃だった。
帝国軍の先遣隊が、森の境界に現れた。
「聖女リナリアの身柄を拘束し、帝都に連行する」
白い軍馬に跨った騎士が、森の入り口で宣言した。彼の声は訓練された抑揚のない声で、リナリアにはそれが五年前の宮廷の空気をそのまま持ち込んできたように感じた。役割だけがあって、人がいない声。
フェンが前に出た。
「退け」
「そこをどけ。お前の相手をする時間はない」
「退けと言っている」
剣が抜かれた。フェンの右手に魔力が集まった。周囲の木々が揺れた。
「待って」
リナリアは、二人の間に出た。
「リナリア」
「大丈夫です」
彼女は騎士を見た。大神官に言われた通りに動いているだけの、若い騎士だった。瞳に、躊躇があった。
「あなたたちは、私を帝都に連れて帰れば、それで仕事が終わるんですよね」
「……そうだ」
「私が行かなければ?」
「力ずくで連行する」
リナリアは頷いた。それからゆっくりと目を閉じた。
手のひらを広げた。指先から、金色の光が漏れ出した。聖女の魔力——帝国が手放したくないと思っているもの。その魔力を、今から全力で使う。ただし。
使い方が、違う。
「これは——神聖魔法の特殊応用です。名前はまだありません」
魔力が光の糸になって、空気の中を広がり始めた。
それは、匂いだった。
焦がしバターの香り。スープが煮える時の、玉ねぎの甘い匂い。焼きたてのパンが冷める時の、「天使の拍手」と呼ばれる音と一緒に漂う、小麦と酵母の複雑な芳香。雨上がりの土の匂いと、摘みたての香草の清涼感。ゆっくりと熟成された肉から滲む、脂の甘さ。
それだけじゃなかった。
その匂いに乗って、記憶が来た。
どこかの家の台所。母親の後ろ姿。友人と囲んだ小さな食卓。祭りの夜に屋台で食べたもの。怪我をした夜に誰かが作ってくれた温かいもの。——人が生きてきた中で、「温かくされた」記憶のすべてに繋がる匂いが、森を包んだ。
騎士の手から、剣がゆっくりと下がった。
後方の兵士たちが、止まった。
誰かが、小さく息をついた。
涙を流している者がいた。どうして泣いているのかも、自分でわかっていないような泣き方だった。ただ、胸の中の何かが溢れて、出てきてしまったような。
「……帰りなさい」
リナリアは静かに言った。
「あなたたちには、帰る場所があるでしょう。温かいものが待っている場所が。私は——ここにいます。この森が、今の私の帰る場所だから」
長い沈黙の後、先頭の騎士が馬首を返した。
言葉はなかった。でも、それが答えだった。
馬の蹄の音が遠ざかっていく中、リナリアは魔力を解いた。膝が笑って、その場にへたり込んだ。
「リナリア」
フェンの手が、背中を支えた。
「……疲れました」
「わかってる」
「でも、できました」
「ああ」
彼の手の温度が、背中から伝わってきた。人の手の温かさだった。魔族の、かつての将の、今は銀狼の、フェンの手の温かさ。
「……帰ろう」
短い言葉が、どこよりも安心できる声で届いた。
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その夜、リナリアは皆に声をかけた。
「今夜、宴をしましょう」
森に長い机を出した。ダルグたちが寄せ集めの椅子を並べた。ベルが木の実で作った飾りを枝から吊るした。フェンは何も言わなかったが、いつの間にか上等の蜂蜜酒の入った壺を見つけてきていた。どこから調達したのかは聞かなかった。
リナリアは一晩かけて料理を作った。
根菜と豆のシチュー。森の香草で仕上げたローストした肉。木の実と蜂蜜のパン。焦がしバターのクッキー。そして最後に——今夜のための、特別なデザートを。
それは、森の実を集めて作ったタルトだった。
酸味の強い赤い実と、甘みの濃い青い実を組み合わせて、蜂蜜と一緒に煮詰めたものを、小麦粉とバターで作った台に流し込んで焼いた。シンプルな作りだったが、焼き上がりに甘い香りが漂った時、外で待っていた全員が鼻を上げた。
「リナリア、まだ?」とグレイが覗き込んだ。
「もう少し」
「それ、なんの匂い」
「今夜のデザートです。焦げてないか見ててくれる?」
グレイが真剣な顔で竈の番をし始めた。
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夜の森に、長机を囲んで人が集まった。
人間が一人、魔族が七人、守護獣が一頭(人の姿)、妖精が一匹。あと、どこから来たのかわからない白いウサギが一羽、机の下に潜り込んでいた。
乾杯の音頭は、誰が取るわけでもなく、ダルグが「食うか」と言ったのを合図に始まった。
スープが注がれた。パンが破られた。肉の焼けた香りが、夜気の中を流れた。声が上がり、笑いが起き、誰かが何かをこぼして隣の者に怒られた。
リナリアは、食卓を端から眺めた。
ここにいる誰も、最初は「共に食事をする仲間」ではなかった。追放された聖女と、傷ついた将と、毒舌の妖精と、刺客として来た魔族たちと。何かがひとつ違えば、剣を向け合っていたかもしれない。でも今ここで、みんなが同じ鍋のスープを飲んでいる。
胸の奥にあった空虚な穴が——長い間、空いたままだった穴が、少し埋まった気がした。
「……なに笑ってる」
フェンが隣に来て、低く言った。
「なんでもないです」
「顔に出てる」
「嬉しいんです。それだけです」
フェンはしばらく黙ったあと、グラスをリナリアの方に傾けた。蜂蜜酒が揺れた。
「……飲め」
「ありがとうございます」
二人でグラスを傾けた。蜂蜜と花の香りが鼻に抜けた。甘すぎず、少しだけ苦くて、後味に温かみがあった。
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デザートを出したのは、夜が更けた頃だった。
タルトを切り分けて、皿に盛る。赤と青の実が宝石みたいに光った。ベルが「わあ」と言って、翅をばたばたさせた。グレイが一番に手を伸ばし、一口食べて目を丸くした。
「あまい。でも、酸っぱい」
「一緒に食べると、どっちも美味しくなるんです」
ダルグが一口食べて、何も言わなかった。でも、二口目を自分で取りに来た。モシュは「うまいな」と短く言って、空になった皿をフェンの方に向け、フェンは「要らん」と言いながら受け取った。
夜の森に、甘い香りが漂っていた。
木々の間から星が見えた。遠くで、夜行性の鳥が鳴いた。焚き火が静かに揺れて、長机の上に暖かい色を落とした。
リナリアは、ふと思った。
追放される前、自分が夢見ていた「幸せ」は——もっと遠くにある何かだと思っていた。誰かに認められること。「聖女様」と呼ばれ続けること。役に立ち続けること。でも本当に欲しかったものは、たぶんずっと、こういうことだったのかもしれない。
名前を呼んでくれる誰かがいること。
一緒に同じものを食べること。
「おいしい」という顔を、隣で見ること。
「リナリア」
フェンが呼んだ。
「はい?」
「タルト、もう一切れある」
「ありますよ。でも最後の一切れです」
「食え」
「フェンさんが食べてください」
「お前が作ったんだろう」
「みんなのために作りました」
「お前もみんなのうちだ」
短い言葉が、胸に落ちた。
みんなのうち、に自分も入っていいのだ、と——そんな当たり前のことを、今日まで誰も言ってくれなかった。
リナリアは、最後の一切れを半分に切って、フェンの皿に半分乗せた。
「一緒に食べましょう」
フェンは小さく、ほとんど聞こえないくらいの声で「ああ」と言った。
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夜が深まるにつれて、宴はゆるやかに静かになっていった。
グレイが椅子の上で丸くなって眠り始め、ダルグがその上に外套をかけた。ベルは蜂蜜酒のグラスの縁に腰かけて、小さな鼻歌を歌っていた。
リナリアは最後に竈の火を落とす前に、一人で台所の前に立った。
使い終わった鍋と、パンを焼いたパン石と、タルトを作った型。焦げたバターの跡がついた小鍋。全部、今日一日の痕跡だった。
窓の外には、琥珀の森の夜が広がっていた。昼間の金色とは違う、深い藍と銀の森。木々の間から、今日の宴の余韻みたいに、かすかな焼き菓子の甘い匂いがまだ漂っていた。
——私は今、ここにいる。
追放された先で、こんなに温かい夜を迎えるとは思わなかった。
聖女だった頃は、自分の価値は「何ができるか」にしかないと思っていた。でも今は違う。自分のために作った焼き芋に泣いた日から、ここまで来た。まだ全部はわからない。でも、今夜の宴の笑い声と、みんなの「おいしい」という顔と、フェンの「お前もみんなのうちだ」という言葉が、胸の奥の空虚な場所にじんわりと溶け込んでいく。
リナリアは深呼吸をした。
森の夜の空気は、冷たくて澄んでいた。その中に、遠く、かすかに——焦がしバターと蜂蜜の甘さが、まだ漂っていた。
明日も、きっと誰かが来る。
その時のために、パン生地を捏ねよう。スープの材料を確かめよう。もし余裕があれば、グレイが好きな甘いコンポートも作ろう。フェンには岩塩のクッキーを。ベルには一番小さなタルトレットを。ダルグとモシュのためには、腹持ちのいい豆のシチューを。
料理することが、今は自分のために嬉しい。
そしてそれが誰かに届く時、二重に嬉しい。
その両方が、自分の中に同時にある——それだけで、十分だと思った。
夜の森に、甘い香りが溶けていった。
リナリアは窓を閉め、暖炉の前に戻った。
そこには、毛布を被って半分眠りかけているフェンと、グラスにしがみついて眠るベルと、寝かせてもらった椅子の上のグレイがいた。当分帰る気がない者たちが、思い思いの場所で目を閉じていた。
追放先の、小さな食堂の夜は——こうして、また静かに更けていった。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
この物語が、少しでも楽しさや何か小さな余韻として心に残っていれば、とても嬉しいです。
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