【証拠はいらない】帰りを待つ犬
相談者は、四十代の女性だった。
足元に、小さな犬を連れている。
椅子に座ってからも、犬はずっとドアの方を見ていた。
「……この子が、待ってるんです」
それが最初の言葉だった。
「誰を」
「主人を」
少し間が空く。
「去年、亡くなって」
犬の頭を撫でる。
「それから、毎日」
「玄関で待つんです」
静かな声だった。
「散歩に行っても」
「帰り道になると、必ず立ち止まって」
喉が詰まる。
「帰ってくると思ってるみたいで」
犬は、ただ静かに座っている。
「もう帰ってこないのに」
沈黙。
「分かってほしいんです」
「もういないって」
俺は、犬を見る。
耳が動いた。
「分かってるよ」
彼女が顔を上げる。
「え……?」
「いないことくらい」
少し間を置く。
「でも、待ちたいだけだ」
沈黙。
「人間はな」
「理由をつけて、納得しようとする」
犬は、静かにドアを見ている。
「でもこいつは」
「好きな相手が帰るのを、待ってるだけだ」
彼女は、何も言えなかった。
「……かわいそうで」
「そうか?」
少しだけ笑う。
「好きな相手を、好きなままでいるだけだ」
沈黙。
帰ってこない人を、
それでも待っている。
理屈じゃなく、
気持ちのままで。
それでも、生きていけるなら。
犬は、何も知らない顔で尻尾を振った。
俺は、しゃがんで頭を軽く撫でる。
「……な?」
犬は、もう一度、小さく尻尾を振った。
だから――
もう、証拠はいらない。




