第1章 正しい判断
管理局では、判断が遅れることよりも、判断が揺らぐことのほうが罪に近い。
アルトはその教育を、疑いなく受け入れてきた。
評価管制フロアの朝は、いつもより少しだけ忙しい。前日の判断ログが正式に集計され、評価点としてオペレーター個人に還元されるからだ。判断の精度、対応速度、是正率。数字は明確で、言い訳の余地がない。
アルトの端末に、個人評価が表示された。
《評価精度:A》
《対応速度:A》
《是正適合率:A》
いずれも上位区分。
それは彼にとって驚くべき結果ではなかった。規定を守り、余計な感情を挟まず、判断を先延ばしにしない。管理者として、模範的な振る舞いを続けてきた結果だ。
「安定してるな」
背後から声がした。
区域監査官ヴェルナーだ。彼はいつも、評価の集計が出るタイミングでフロアを巡回する。数字を見る目があり、同時に数字以外を切り捨てることにも躊躇がない人物だった。
「ありがとうございます」
アルトは即座に応じる。
余計な説明は不要だ。評価がすべてを語っている。
ヴェルナーはアルトの端末を一瞥し、わずかに口角を上げた。
「評価不能領域の処理、適切だった。拡大兆候なし。是正の必要もなし。いい判断だ」
「規定通りです」
「そうだ。規定通りが一番いい」
その言葉には、安心が含まれていた。
例外が存在しない世界。管理が完全に機能している状態。それが、ヴェルナーの理想だった。
少し離れた席で、再配置判断官のミリアが作業を続けている。彼女は会話に加わらないが、必要とあらば即座に介入する。人員の移動、区域の再編成、切り捨て。彼女の判断は冷静で、感情が入り込む余地はほとんどない。
「再配置案件、三件処理済みです」
ミリアが淡々と報告する。
「迅速だな」
ヴェルナーは満足そうに頷いた。
「救う順番を間違えないことが重要だ。全員を救おうとすれば、全員を失う」
その言葉に、誰も反論しない。
管理局では、それは常識だった。
アルトは、自分の中に違和感が生まれていないことを確認する。
理解できる。納得できる。正しい。
それでいい。
再び、通知が届く。
前日と同じ区域。新たな記録外行動。
「……またか」
小さく呟いたアルトに、ヴェルナーが視線を向ける。
「問題か?」
「いえ。発生頻度が少し上がっていますが、許容範囲内です」
「なら、経過観測だ」
即断だった。
迷いはない。評価不能は、評価不能のままでいい。管理はすべてを把握する必要はない。危険になった時点で、是正すればいい。
アルトはその判断を入力する。
《評価不能領域:経過観測継続》。
端末が応答する。
《是正不要》。
「いい判断だ、アルト」
ヴェルナーはそう言って、その場を離れた。
残されたアルトは、自分の仕事が認められたことに、静かな満足を覚える。
この時点では、彼はまだ知らない。
この「正しい判断」が、誰かにとっては、見捨てられたという意味になることを。
管理は、冷たいわけではない。
ただ、公平なのだ。
そして公平さは、時に残酷になる。
――アルトはまだ、その事実を学ぶ段階にいなかった。
その日以降、アルトの判断は滞りなく評価された。
特別な功績があったわけではない。ただ、間違えなかった。それだけで、管理局では十分だった。
数日後、フロアに新しい配置が行われた。
若手オペレーターのリィンが、アルトの補佐として席を並べることになったのだ。
「よろしくお願いします、アルトさん」
少し緊張した様子で、リィンはそう言った。
まだ現場経験は浅いが、評価は悪くない。むしろ、規定遵守率は高く、模範的な新人として名前が挙がっている。
「よろしく。基本は、ログを読んで判断するだけだ。難しく考えなくていい」
アルトはそう答えた。
それは本心だった。感情を排し、規定を守れば、判断は自ずと正しくなる。自分がそうしてきたように。
リィンは頷き、端末を操作し始める。
「評価不能領域って、やっぱり放置でいいんですよね?」
唐突な質問だった。
だが、アルトは迷わない。
「拡大兆候がなければな。危険は、数値で判断する」
「……ですよね」
その返答に、リィンは安堵したように笑った。
正解を確認できたことに、安心している。アルトはそれを見て、わずかに胸の奥が温かくなるのを感じた。
自分の判断が、誰かの指針になっている。
それは悪い感覚ではない。
その日の午後、倫理監査ユニットΘ07から、定期的な監査通知が入った。
アルトは淡々と対応する。質問に答え、ログを提出し、是正の必要がないことを証明する。
「倫理的問題は見当たりません」
機械的な音声がそう告げる。
ヴェルナーは結果を確認し、満足そうに頷いた。
「やはり問題ない。アルト、お前の判断は安定している」
「ありがとうございます」
そのやり取りを、リィンは少し離れた場所から見ていた。
尊敬と羨望が入り混じった視線。アルトはそれに気づきながらも、意識的に気に留めない。
評価は個人のものではない。
管理の成果だ。
だが、その夜、アルトは一つのログを目にする。
例の区域で、再び記録外行動が検知されていた。頻度は増え、範囲もわずかに広がっている。
「……まだ、誤差の範囲だ」
彼は自分にそう言い聞かせる。
数値は危険を示していない。規定上、介入する理由はない。
それでも、なぜかそのログを閉じる手が、一瞬だけ止まった。
「アルトさん?」
リィンの声で、我に返る。
「何かありましたか?」
「いや、問題ない」
アルトはそう答え、経過観測の処理を入力した。
画面には、いつも通りの表示が浮かぶ。
《是正不要》。
リィンはそれを見て、ほっとしたように息を吐いた。
「やっぱり、正しかったんですね」
「そうだ」
アルトはそう言い切る。
正しい判断は、疑われない。疑われないからこそ、安定する。
その夜、管理局の照明は変わらず一定だった。
外の世界で何が起きているかは、数字が教えてくれる。数字に映らないものは、問題ではない。
――少なくとも、この時点では。
正しさは、こうして複製されていく。
疑問を挟まれないまま、安心という形で広がっていく。
アルトはまだ、自分が“問いを持たない管理者”になりつつあることに、気づいていなかった。
そしてそのことが、後に彼自身を最も苦しめることになる。




