幽霊霊場殺人事件
真夏の夕暮れ、茜色の光が長く影を落とす山奥。蝉の声が降り注ぐ中、古びた寺院「常闇寺」は静かに佇んでいた。そこは古来より、荒ぶる魂を鎮めると同時に、時に人を喰らうとも囁かれる曰く付きの霊場だった。
警視庁捜査一課の刑事、佐藤修一は、境内の苔むした石畳に横たわる白骨死体を見下ろし、額に滲む汗を無骨な手の甲で拭った。数珠のように連なる蝉の声が、死の静寂を一層不気味に際立たせている。長く刑事として修羅場を潜り抜けてきた彼の目にも、この現場は異様な空気を放っていた。
「警部、鑑識からの速報です。被害者は失踪届が出ていた大学生で、死後半年以上経過していると見られます。ここ数年、この寺の周辺で原因不明の失踪が相次いでいる件との関連が濃厚です」
息を切らせて駆け寄ってきた若手刑事、田中洋介が報告する。その声には、現場の雰囲気に呑まれたような微かな震えが混じっていた。
佐藤は鋭い視線を白骨に向けたまま、低く呟いた。「霊場での連続失踪、か。まるで出来の悪い怪談話だな。だが、骨がある以上、現実に人が死んでいる」彼の口調は冷静だったが、その瞳の奥には、常識では測れない何かに対する警戒の色が浮かんでいた。
その時だった。本堂の奥深くから、クスクスと、まるで老婆が喉を鳴らすような、あるいは子供が悪戯を企むような、不気味な含み笑いが響いてきた。それは一瞬で掻き消えたが、二人の刑事の背筋を冷たいものが走り抜けた。
「…今の、聞きましたか?」田中が青ざめた顔で佐藤を見る。
佐藤は懐中電灯のスイッチを入れ、カチリと硬質な音を立てた。「ああ。…行くぞ、田中。ただの空耳か、あるいは歓迎の挨拶か。確かめてやろうじゃないか」
彼は敢えて軽口を叩いたが、神経は研ぎ澄まされていた。この寺には、人間の悪意だけでは説明できない何かが渦巻いている。そんな予感が、ベテラン刑事の勘を刺激していた。
重厚な木の扉を押し開け、本堂に足を踏み入れた瞬間、背後で扉がゴォンッ!と地響きのような音を立てて閉まった。驚いて振り返るが、びくともしない。そして、どこからともなく、古いが威厳のある老僧の声が響き渡った。
「ようこそおいでなされた、俗世の探求者たちよ。この常闇の霊域へ。…だが、覚悟はよろしいかな? ここは、迷い込んだ者を贄として、永劫の静寂を与える場所でもある」
冷や汗が佐藤の背中を伝う。しかし、彼は努めて冷静に状況を分析しようとした。「落ち着け、田中。音響装置か何かだろう。古い寺を利用した手の込んだトリックだ。まずは出口を探す」
そう言って若手刑事を促すが、田中の顔は恐怖で引きつっていた。
「さ、佐藤さん…僕、こういうの本当にダメなんですって…! 子供の頃から、お化け屋敷とか…!」
「馬鹿者! お前は刑事だろうが!」佐藤は一喝したが、内心では自分自身にも言い聞かせていた。超常現象など存在しない。この不可解な状況には、必ず論理的な、人間による説明がつくはずだ。…そう信じたかった。
懐中電灯の頼りない光が、埃っぽく黴臭い本堂の内部を照らし出す。壁一面に並ぶ仏像は、どれも表情が曖昧で、闇の中で蠢いているように見える。その視線が、まるで侵入者を値踏みするように、二人を追ってくるかのようだ。
「佐藤さん、これ…!」田中が床の一点を指さした。そこには、複雑な模様が朱色で描かれていた。
佐藤は屈み込み、ライトで照らしながら観察する。「魔除け…いや、何かを封じ込めるための紋様か? だが、こんなものが本当に…」
言いかけた瞬間、バチン!と音を立てて本堂の全ての灯りが消え、完全な闇が二人を包んだ。
「くそっ、ブレーカーか!?」佐藤が予備のライトを探ろうとした、その時。背後から氷のように冷たい手が、彼の肩にそっと触れた。
「うわっ!」思わず短い悲鳴を上げる。歴戦の刑事にあるまじき反応だった。
直後、再び灯りが点滅し、視界が戻る。背後にいたのは、怯えた顔の田中だった。
「す、すみません! 暗くて、怖くて、つい佐藤さんに…!」田中が慌てて手を引っ込める。
佐藤は乱れた呼吸を整えながら、内心の動揺を隠して言った。「…ったく、大の大人が情けないぞ。しっかりしろ」
だが、先ほどの感触は、明らかに人間の体温ではなかった。骨張った、それでいて力のこもった冷たい感触。あれは本当に、怯えた田中の手だったのだろうか? 疑念が佐藤の心に深く刻まれた。
本堂の異様な雰囲気に長居は無用と判断し、二人が別の出口を探そうとした矢先、外から甲高い女性の悲鳴が響き渡った。それは、恐怖と苦痛に満ちた、聞く者の心臓を掴むような叫びだった。
「何だ!?」佐藤が叫び、二人は音のした方向へ、寺の裏手へと駆け出した。
そこには、睡蓮が浮かぶ小さな池があった。そして、その畔に、若い女性がうつ伏せに倒れていた。
佐藤が駆け寄り、脈を確認するが、既に生命の反応はなかった。首には、くっきりと索条痕が残っている。顔は苦悶に歪み、青白く変色していた。
「…殺人だ」佐藤は低く唸った。「田中、本署に緊急連絡! 応援と鑑識を!」
田中が慌てて携帯電話を取り出すが、画面には「圏外」の表示が冷たく浮かんでいる。「だ、ダメです! 電波が…!」
佐藤は舌打ちし、周囲を見回した。いつの間にか、濃い霧が立ち込め始め、視界が急速に悪くなっていく。「くそっ、最悪のタイミングで…!」
その時、霧にけぶる池の水面が、不自然に揺らぎ始めた。そして、ゆっくりと何かが浮かび上がってくる。それは、白い死に装束を纏った、長い黒髪の女性の姿だった。
「…ゴ、ゴースト…!?」田中が腰を抜かさんばかりに震える声で叫んだ。
佐藤は目を眇め、その姿を凝視した。確かに、女性が水の上に立っているように見える。霧と相まって、それはおぞましいほど幻想的だった。しかし、佐藤はかぶりを振った。「いや、これも何かの仕掛けだ。霧を利用した投影か何か…よく見ろ、田中!」
佐藤は警戒しながら池に一歩近づき、懐中電灯の光を集中させた。すると、女性の姿は陽炎のように揺らぎ、すぅっと掻き消えた。
「…やはりな。ホログラムか、それに類する映像トリックだろう」佐藤は断定するように言った。「何者かが、この寺全体を巨大な幽霊屋敷に仕立て上げ、我々を混乱させようとしている。目的は…おそらく、我々をここから追い出すか、あるいは…」
そこまで言って、佐藤は言葉を切った。新たな犠牲者が出た以上、目的はもっと悪質なものである可能性が高い。しかし、こんな手の込んだ装置を、誰が、どうやってこの古寺に設置したというのか? そして、一体何のために? 疑問は深まるばかりだった。
二人が呆然と立ち尽くしていると、霧の中からゆっくりと人影が現れた。それは、先ほど本堂で声を聞いた老僧だった。
「おぉ、これはこれは…。お二人とも、ご無事でしたか」老僧は穏やかな、しかしどこか底の知れない笑みを浮かべて言った。「私は、この常闇寺の住職を務めます、玄哉と申します」
佐藤は鋭い視線で老僧を射抜いた。「住職、と仰るか。ここで何が起きているのか、ご存じでしょうな? 先ほどの女性の遺体、そしてこの異常な状況。説明していただきたい」
玄哉は深々とため息をつき、悲しげに目を伏せた。「…お察しの通り、この寺は今、尋常ならざる事態に見舞われております。古来よりこの霊場に封じてきたものが、その力を増し、蠢動し始めているのです。訪れる人々が次々と姿を消すのも、哀れにも命を落とすのも、すべてはその穢れた力の波動に当てられた故…」
田中が震える声で尋ねた。「そ、それじゃあ、本当に呪いとか、悪霊とかが…?」
佐藤は冷静さを保ち、核心を突いた。「その“穢れた力”とやらは、直接、人を殺めることもあるのですか?」
玄哉は重々しく頷いた。「…残念ながら。その力は、人の心の弱さや、生への執着、あるいは死への渇望に感応し、形を成して襲いかかるのです。しかし…それを鎮める方法も、古文書には記されております」
「方法だと?」佐藤が身を乗り出す。
「はい。伝説によれば、『穢れなき正義の魂』を持つ者が、本堂の奥にある『浄めの祭壇』にて真摯なる祈りを捧げれば、荒ぶる力を鎮め、霊場を浄化できると…」
佐藤は眉根を寄せた。「穢れなき、正義の魂…」
玄哉は、じっと二人の刑事を見据えた。「法を司り、悪と対峙するお二人のような方々こそ、その資格をお持ちなのではないでしょうか」
田中は目を輝かせた。「佐藤さん! やってみましょうよ! これで事件が解決するなら…!」
しかし、佐藤は即断しなかった。「待て、田中。話が出来すぎている。まずは状況を整理し、この寺を徹底的に調査する必要がある。あなたの話が真実かどうか、我々自身で見極めさせてもらう」
玄哉は、全てを見透かしたような穏やかな笑みを崩さなかった。「もちろんですとも。ご納得いくまで、どうぞご自由にお調べください。私は、本堂にてお待ちしております」
そう言い残し、老僧は再び霧の中へと静かに消えていった。
「…あの坊主、何か隠しているな」老僧の姿が見えなくなると、佐藤は吐き捨てるように言った。「気を引き締めろ、田中。ここは想像以上に厄介な場所だ」
二人は手分けして、寺の内部を改めて調査し始めた。佐藤は、壁の隠し通路や床下の空洞、不自然な配線など、物理的なトリックの痕跡を探す。しかし、発見されるのは蜘蛛の巣と埃ばかりで、ハイテクな装置が隠されている気配は微塵もなかった。
一方、田中は書庫で古文書を調べていた。「佐藤さん! ちょっとこれを見てください!」
佐藤が駆けつけると、田中は虫食いだらけの古い巻物を広げていた。そこには、この常闇寺の禍々しい縁起が記されていた。
「この寺は、元々は高名な僧侶が開いた修行道場だったようです。ですが、三百年前…当時の住職が、原因不明の狂気に陥り、寺に籠もって修行していた村人たち数十人を惨殺した、と…」
「何だと?」佐藤の表情が険しくなる。
「その後、住職は本堂で自らの喉を掻き切って自害。以来、その怨念が寺に留まり、悪霊を呼び寄せる呪われた霊場になった、と書かれています。犠牲になった村人たちの無念も、ここに渦巻いているとか…」
佐藤は顎に手を当て、深く考え込んだ。「三百年前の大量殺人…。その伝説が、この寺の異常な雰囲気を作り出し、失踪事件と結びつけられている可能性は高いな。だが、それだけでは今の状況は説明がつかん…」
その時、廊下の向こうから、か細い声が聞こえた。「あ、あの…すみません…どなたかいらっしゃいますか…?」
二人が声のした方へ向かうと、そこには旅行者風の若い女性が、不安げな表情で立っていた。年の頃は二十代半ばだろうか。
佐藤は驚き、鋭く問うた。「君は!? なぜこんな場所に民間人がいるんだ!」
女性は怯えたように一歩後ずさり、それから自己紹介した。「な、中島美咲といいます。古寺巡りが好きで、地図を頼りにここまで来たんですけど…急に霧が出てきて、道に迷ってしまって…。それに、さっき、悲鳴のような声も聞こえて…」
田中が心配そうに声をかける。「それは大変でしたね。ここは今、危険な状況なんです。僕たちは警察の者ですが、とりあえず一緒にいた方が安全です」
佐藤は美咲に尋ねた。「一人で来たのか? 他に誰か一緒では?」
美咲は力なく首を振った。「はい、一人旅です…」
佐藤は状況を整理した。「大学生の白骨死体、別の女性の絞殺体、圏外の携帯、怪しげな住職、そして迷い込んだ旅行者…。役者が揃いすぎている気がするが…。とにかく、我々もここから脱出する方法を探しているところだ。一緒に行動しよう」
美咲はこくりと頷いたが、その顔には深い不安の色が浮かんでいた。
三人で本堂へ戻ろうと歩き出した、その刹那――グラグラッ!と、立っていられないほどの激しい揺れが襲った!
「じ、地震!?」田中が叫び、壁に手をつく。
しかし、佐藤は直感的に違うと感じた。「いや、これは地震の揺れ方じゃない…何か、空間そのものが歪むような…!」
揺れが収まった時、三人は息を呑んだ。目の前にあったはずの廊下の壁が、陽炎のように揺らめきながら…消えたのだ。そして、その向こうには、信じ難い光景が広がっていた。
紫色の不気味な光を放つ空。重力に逆らうように浮遊する巨大な岩塊。そして、遥か彼方には、天を突くような歪んだ黒い塔。現実とはかけ離れた、悪夢のような異世界が、彼らの目の前に出現していた。
「…な、何なんだ…これは…!?」佐藤ですら、言葉を失い、呆然と立ち尽くす。
美咲は震える声で呟いた。「これが…常闇寺の…本当の姿…?」
田中は尻もちをつき、完全にパニック状態だった。「うそだろ…冗談じゃないぞ…! まさか、本当に…別世界に…!?」
佐藤は奥歯を噛み締め、無理やり冷静さを取り戻そうと深呼吸した。「…落ち着け! いいか、これも何かの幻覚だ! 集団催眠か、あるいは…さっきの有毒ガスの可能性もある! 我々はまだ、現実の世界にいるはずだ!」
しかし、頬を撫でる奇妙な風、足元のフワフワとした感触、そして鼻をつく硫黄のような異臭は、あまりにもリアルだった。
「…とにかく、あの塔を目指すしかない」佐藤は、遥か彼方の黒い塔を指さした。「あそこが、この異常事態の中心である可能性が高い。何か手がかりがあるはずだ」
三人は、雲の上を歩くような、頼りない地面を踏みしめながら、慎重に歩を進めた。周囲には、半透明の体を持つ鳥のような生き物や、無数の赤い目が蠢く獣のような影が徘徊している。それらは、敵意を見せるでもなく、ただ異世界の風景の一部として存在していた。
「…これが、玄哉さんの言っていた『穢れた力の波動』が生み出したもの…?」田中が震えながら呟く。
佐藤は答えなかった。認めたくはなかったが、これが単なる幻覚やトリックだとは、もはや考えられなくなっていた。
その時、美咲が息を呑んで前方を指さした。「あ…あれ…!」
彼女の指の先、少し開けた場所に、白い衣を纏った人影がふわりと浮かんでいた。それは、先ほど池で見た、死に装束の女性の姿に酷似していた。
「…池で死んでいた女性か…? いや、違う…!」佐藤は目を凝らす。
白装束の女性は、ゆっくりと三人の方を振り返った。その顔立ちは池の女性と似ていたが、表情には深い悲しみと、そして救いを求めるような切実さが浮かんでいた。
「…たす…けて…」掠れた、しかし確かに聞こえる声が、三人の耳に届いた。
田中が思わず一歩前に出ようとする。「どうしたんですか!? 何かできることがあれば…!」
しかし、佐藤が鋭くその腕を掴んで引き止めた。「待て、田中! 油断するな! これも罠かもしれん!」
佐藤の言葉が合図だったかのように、白装束の女性の姿がぐにゃりと歪み始めた。美しい顔は裂け、手足は禍々しい鉤爪へと変貌していく。そして、見る間に醜悪な異形の魔物へと姿を変えたのだ!
「グオオオォォォォッ!!」
耳をつんざくような咆哮と共に、魔物が三人に向かって突進してくる!
「危ない!! 逃げろ!!」佐藤が叫び、三人は反射的に背を向けて走り出した。背後から、地面を揺るがすような魔物の足音と、荒々しい息遣いが迫ってくる。
「はぁ…っ、はぁ…っ!」息も絶え絶えになりながら、三人は巨大な岩の陰に転がり込むようにして身を隠した。
「…い、今のは…一体…」田中が肩で息をしながら震える声で言った。
美咲は顔面蒼白で、唇を噛み締めている。「…悪夢よ…こんなの、絶対に悪夢だわ…」
佐藤は冷静さを装いながらも、激しく打つ心臓を抑えきれなかった。「…くそっ…どうすれば、元の世界に…いや、まずはあの塔へ行くしかない…!」
その時、遠くに見える黒い塔の頂から、一条の青白い光が放たれた。それは、まるで灯台の光のように、暗い異世界の中で三人を導くかのように見えた。
「…あの光…」佐藤が呟く。「やはり、あの塔に何かある…」
美咲が不安げに尋ねた。「でも…あんな恐ろしい化け物がいるのに…無事に行けるんでしょうか…?」
佐藤は厳しい表情で二人を見た。「他に道はない。ここにいても、いずれ見つかるだけだ。行くぞ」
覚悟を決めた三人は、再び塔に向かって慎重に歩き始めた。異形の生き物の影に怯えながらも、互いを励まし合い、一歩ずつ進んでいく。
やがて、巨大な黒い塔の入り口に辿り着いた。そこには、まるで彼らを待ち受けていたかのように、見覚えのある人物が静かに立っていた。
「…玄哉住職!?」田中が驚きの声を上げる。
老僧は、異世界に似つかわしくないほど穏やかな笑みを浮かべていた。「よくぞ参られた。この『常闇の塔』へ」
佐藤は警戒心を解かずに詰問した。「あなたは何者なんだ!? この異世界のことも、全て知っていたのか!?」
玄哉は深いため息をつき、その表情に初めて深い苦悩の色を滲ませた。「…私は、この世界の番人…とでも申しましょうか。三百年の長きにわたり、この霊場と、ここに迷い込んだ魂たちを見守ってきました」
「三百年…だと?」佐藤が眉をひそめる。「まさか…あなたは、あの古文書にあった…!」
玄哉はゆっくりと頷いた。「…左様。私が、三百年前、村人たちを手にかけ、この寺で自害した住職…玄哉本人です」
衝撃の告白に、三人は言葉を失った。目の前にいるのは、三百年前の大量殺人者の亡霊だというのか。
「…しかし」玄哉は続けた。「古文書に記されたことは、真実の全てではありません。あれは、私の本意ではなかったのです」
「どういう意味だ」佐藤が鋭く問い返す。
玄哉は、遠い過去を思い出すように語り始めた。「三百年前、この地を恐ろしい疫病が襲いました。治療法もなく、人々は苦しみ、次々と命を落としていった。特に、寺に籠もり、私を頼ってきた村人たちの苦しみは、筆舌に尽くしがたいものでした。私は…彼らの魂の安寧を願い、これ以上の苦しみを長引かせぬよう…私の手で、安楽の死を与えたのです」
「安楽死…」美咲が息を呑む。
「しかし、その行いを知った他の村人たちは、私を狂人、殺人者と罵り、糾弾しました。弁明も聞き入れられず、追い詰められた私は…自ら命を絶つ道を選びました」玄哉の目には、深い後悔と悲しみの色が浮かんでいた。「以来、私の魂はこの地に縛られ、死者の魂が集うこの異世界…『常世の狭間』を形作り、管理する存在となったのです」
田中が尋ねた。「では、あの池の女性の遺体は…? あなたが殺したのでは?」
玄哉は悲痛な面持ちで首を振った。「いいえ。あの方は、現世での苦しみから逃れるため、自ら死を選ぼうとこの寺を訪れたのです。私はこの世界から、彼女の魂に語りかけ、止めようとしましたが…間に合わなかった。私の力が弱まり、現世への干渉が難しくなっていたのです」
佐藤は冷静に情報を整理しようと努めた。「…だが、なぜ我々を、この『常世の狭間』に引き入れた? あなたの目的は何だ?」
玄哉は真剣な眼差しで三人を見据えた。「…あなた方の助けが必要なのです。近年、この世界に溜まった負の感情…怨念や未練が、私の制御できる範囲を超えて増大し、『闇』と化して魂たちを脅かし始めている。先ほどの魔物も、その闇が生み出したもの。このままでは、この世界も、そして現世にも悪影響が及びかねません」
「我々に、何ができるというんだ」佐藤が問う。
「あなた方の持つ『正義の心』、そして『生への意志』こそが、この世界の淀んだ空気を浄化する力となるのです」玄哉は答えた。「特に、佐藤殿のような、幾多の困難を乗り越えてきた強い魂と、中島殿のような、穢れを知らぬ純粋な魂。そして、田中殿の持つ、未来への希望。その三つの力が合わされば…」
佐藤は考え込んだ。荒唐無稽な話だ。しかし、この異常な状況、そして目の前の玄哉の切実な表情は、嘘とは思えなかった。それに、このままでは元の世界に戻れない可能性が高い。
「…協力するとしよう」佐藤は決断した。「具体的に、何をすればいい?」
玄哉は塔の頂上を指さした。「あそこにある『浄めの祭壇』にて、三人揃って、心の底から世界の浄化と魂の安寧を願ってください。そうすれば、あなた方の魂の光が、この世界を覆う闇を祓うはずです」
美咲が不安そうに呟いた。「本当に…そんなことで…?」
「容易なことではありません」玄哉は厳しい表情で言った。「祈りの間、闇は必ずや抵抗し、あなた方の心の弱さに付け込もうとするでしょう。恐ろしい幻影を見せ、絶望させようとするはずです。強い意志と、互いを信じる心がなければ、闇に呑まれてしまうやもしれません」
佐藤は田中と美咲の顔を見た。二人とも恐怖と不安を隠せないでいたが、その瞳の奥には、微かな決意の光が灯っていた。
「…よし、やろう」佐藤は力強く頷いた。「我々がここに来たのは、偶然ではないのかもしれない」
三人は、玄哉に導かれ、塔の内部にある螺旋階段を登り始めた。階段の途中、何度も禍々しい囁き声が聞こえ、過去のトラウマや後悔を抉るような幻影が現れた。佐藤には殉職した同僚の姿が、田中には捜査ミスで取り逃がした犯人の嘲笑が、美咲には孤独だった幼い頃の記憶が見えた。しかし、三人は互いに声を掛け合い、励まし合いながら、なんとかそれを振り払い、上へ、上へと進んだ。
ついに塔の頂上、吹きさらしの広間に辿り着くと、中央には月光を受けて淡く光る、古びた石造りの祭壇があった。
「…ここで、祈るんですね」田中が息を整えながら言った。
三人は祭壇を囲むように立ち、そっと目を閉じた。佐藤は法と正義への信念を、田中は未来と希望を、美咲は生命の尊さと魂の救済を、それぞれの心の中で強く念じ、祈り始めた。
その瞬間、凄まじい突風が吹き荒れ、空が掻き曇り、雷鳴のような絶叫が響き渡った!
「集中しろ! 負けるな!」佐藤が叫ぶ!
闇の力が、黒い霧となって三人に襲いかかる。それは物理的な力ではなく、精神を直接蝕むような冷たい絶望感だった。
『無駄だ』『お前たちに何ができる』『諦めろ』『苦しみから解放してやろう』
甘く、しかし抗いがたい囁きが、脳内に直接響いてくる。
田中が膝をつきそうになる。「う…あ…もう…だめだ…頭が…」
美咲も顔を歪め、涙を流している。「怖い…苦しい…もう、いや…」
佐藤も、自らの心の奥底に潜む無力感や虚無感に苛まれ、意識が遠のきそうになる。これが、闇の力か…!
「…諦めるな!!」佐藤は最後の力を振り絞って叫んだ。「我々は、生きてここから帰るんだ! そして、この悲劇を終わらせる! 光を思い出せ! 正義を! 希望を! 互いを信じろ!」
佐藤の魂からの叫びが、二人の心に届いた。田中は歯を食いしばり、美咲は涙を拭って顔を上げた。三人の心が、再び一つになる。
それぞれの胸の内で、最も強く、最も純粋な願いが輝きを放つ。
――その時だった。
祭壇から、眩いばかりの黄金色の光が迸り、巨大な光の柱となって天を突いた! 光は暖かく、力強く、周囲の闇を、まるで朝日の前の夜霧のように掻き消していく。
「……!」
目を開けると、そこは元の常闇寺の本堂だった。夕暮れの最後の光が、障子を通して穏やかに差し込んでいる。蝉の声は、いつの間にか止んでいた。
「…も、戻った…?」田中が呆然と呟き、自分の体を確認するように触れている。
美咲は、その場にへなへなと座り込み、深い安堵の息をついた。「…夢じゃ、なかったのね…でも、終わった…」
佐藤は、まだ警戒を解かずに周囲を見回していた。「…本当に、終わったのか…?」
すると、彼らの目の前に、すぅっと玄哉の姿が現れた。しかし、その姿は以前のような老僧ではなく、精気に満ちた壮年の僧侶の姿だった。纏う空気も、もはや陰鬱なものではなく、清浄で穏やかだった。
「…感謝いたします」玄哉は、深々と三人に頭を下げた。「あなた方の勇気と清らかな魂のおかげで、三百年にわたる私の怨念も、この地に溜まった穢れも、ようやく浄化されました。そして、私も…」
言葉の途中で、玄哉の姿がゆっくりと透き通り始める。その表情は、満ち足りた、安らかな笑みを浮かべていた。
「私も…これで、ようやく…真の安らぎを得て、旅立つことができそうです。…本当に、ありがとう…」
そう言い残し、玄哉の姿は光の粒子となって完全に消え去った。後には、清められたような静寂だけが残された。
三人は、言葉もなく、しばらくその場に立ち尽くしていた。
数日後、常闇寺で発見された二つの遺体と、過去の連続失踪事件について、警察の公式見解が発表された。寺の地下から特殊な地質条件により自然発生した有毒ガスが漏れ出し、それを吸った被害者たちが幻覚症状を起こし、事故や錯乱状態に陥ったものと断定された。圏外だった通信状況も、ガスによる一時的な電波障害と説明された。
もちろん、佐藤、田中、そして美咲は、その裏にあった真実を知っていた。だが、それを語ることはなかった。常識を超えた出来事は、彼ら三人の胸の内にだけ、深く刻まれた。
事件後、中島美咲は、今回の体験を通して人の魂の在り方や救済について深く考えさせられたと言い、仏門に入る決意を固めたという。いつか、玄哉のような苦しみを抱える魂を導けるようになりたい、と。
田中洋介は、この事件を機に、未解決事件や超常現象が絡むとされる事案を専門に扱う部署への異動を強く希望した。「科学では解明できないことが、この世にはまだあるのかもしれない。それを無視していては、本当の真実には辿り着けない気がするんです」と、彼は佐藤に語った。
そして、佐藤修一は――表向きは何も変わらず、冷静沈着なベテラン刑事として、次なる事件を追っていた。ただ、時折、非番の日に一人で常闇寺跡を訪れ、線香を手向ける姿が見られるようになったという。
「…オカルトや幽霊なんぞ、今でも信じてはいないさ」
誰もいない本堂跡で、彼は誰に言うともなく呟く。
「だがな…人の想いというやつは、時として、我々の想像を超える力を生み出すのかもしれん」
その口元には、以前にはなかった、ほんのかすかな、苦笑ともつかない複雑な笑みが浮かんでいた。