お泊まりしたい
あれから、2日アルバイトを終わらせて今日は月曜日。授業は1つで2限だけなので、彼と遊びたい。まだ11月で試験もない。今の間しか遊べない。そう思って金曜日にTXTを送ったのだ。結局ソンナことは起こらないと考えて、勝負下着ぐらいで納めている。
「おはよう。今日はよろしくね」
「お、おう。思い人さんには説明したのか?」
まだ、優斗は私の好きな人を知らない。彼の中では、私の体が女になったところで、彼にとってのアニキであるところに変わりはないのだと思う。だって、意識したら彼は距離を取ろうとするだろうから。
「わ、私彼氏いないよ?」
どうしよう。どもっちゃった。なんかこう。言えないよね。面と向かって、好きな人に「好きです、泊めてください」なんて。しかも、付き合えてしまうかもしれないから。ちなみに彼にも彼女はいない。これは知っている。だって、親友だもの。親友も安いかもしれない。運命共同友達?略して運共友?なんか運搬しそう。
「でも、好きな人いるんじゃないの?」
私は思ってしまった。「お前だよ、気づけバカ」と言えたらどれほど楽だろうか。
「いるにはいるんだけど、本人には気づいてもらえていなくて。どうすれば気づいてくれるんだろうね」
胸が痛いよ。だって気付いてほしいのは優斗その人なんだから。気付きなさいよ、バカ。
「誘ってみたりはしたのか?例えば食事とか」
「いきなり2人でいこうっていう女の子って重くないかな?」
泊りに行こうとしている私が言うことではないことは百も承知である。でも、言えないから仕方ないじゃん。だって、友達っていう関係性あるからいけるかなって思うのは当たり前だよね?
「重くはないんじゃないか?ただ、すぐばれるかもしれないぞ。駆け引きしたいなら何人かと行くのがいいと思うぞ」
優斗かわいい。やっぱりいいな。やはり、彼しかいない。
「なるほど。それもいいね。でも、その人がほかの人といるのあんまり見ないんだよね」
嘘は言っていない。彼と一緒にいたのは咲の彼氏である東畑ぐらいである。
「ほんとにそいつでいいのか?もっといい奴いると思うぞ」
確かに優斗の言う通りかもしれない。でも、その人だからいいんだけどね。なんて優斗本人には言えない。
「確かにいい人はいると思う。でも、あなたみたいに私を理解して受け止めてくれる人はあまりいないから」
また、告白みたいなこと言ってしまった。多分気付いてくれないんだろうな。知ってる。男の時も似たようなこと言ったけど気付いてくれなかったし。気付いてても言わないというのもありそうだなぁ。どうしよう。私が好きなのは、あなただよ。優斗。伝えてしまえたらどれだけ楽だろう。でも、まだ言わない。だってこの距離感を手放したくないというのも本音ではある。このドキドキとした胸の痛みを抱えているのも悪くないと思えるのだ。
このドキドキは私の胸をチクチクと刺しながら確かなぬくもりを心に届けているのだ。
「そうか」
彼は、イヤフォンを付けて音楽を聴き始める。いつものことだ。本当は、喋り続けたいけど。多くの場合彼はイヤフォンをしているのだ。なんでこんなに優斗を好きになったんだろう。こんなに気付いてもらえないのに。
そんなことを思いながら、授業を受ける。優斗はいつも遠隔で受けるんだけど、今日はごり押ししてきてもらった。だって待ち合わせ学校でするのって憧れる(あこがれる)よね?
授業が終わった。と同時に彼は荷物を詰め始める。早いよ。待ってよ。おいて行かれてしまいそうだ。そんな時仲の良かった咲が話しかけてきた。
「もしかして、中津浦君の事好きなの?」
「ちょっと待ってね」
そういって中津浦君に視線を移し、「ちょっと咲さんと話すことあるから適当に外で暇つぶしてて。ごめんね」と言った。
彼が行ってから小声で言った「そう。大好き。でも、協力してくれるの?」と。なんかすごく悩んでいる気がする。彼氏さんと話せばいい気もしてきた。暫くして咲が口を開く。
「私じゃ力になれないかもしれないけど頑張るよ。何かあったら言ってね」
「ありがとう。じゃあ、優斗待ってるから行くね。ありがとう」
そういって教室の外に駆け出す。
「ごめんね。優斗おまたせ。今日どうしようか?」
別に彼は怒った様子もなくイヤフォンで音楽を聴いていた。
「え?とりあえずうちに荷物を置いてから考えよう」
「そうだね」
そういって彼の家に向かう。色の消えていく木枯らしとは対照的に私の世界は色付いてゆく。多くの場合、男の家に泊まるなんて危ないからやめなさいと言われる。実際そうであろう。だが、私は元男でしかも優斗のことをかなり詳細に知っている。さらに言えば彼が私を裏切ることはほぼないと考えている。だって彼、友達少ないんだもの。
スキップをしそうになったけど抑えた。ルンルンランランする気持ちが激しい。あ、下着足りるかしら。足りたら問題ないね。タオルも持って来たし。シャンプーとリンス、ボディーソープは彼に借りるしかない。そうして5分ぐらい歩いたら優斗の家に着いた。
荷物をおいて仕分けする。そしていつもの最小単位セットを作る。最小単位セットとはスマホ、財布、エコバック、家の鍵のセットである。これを黒いショルダーバックに詰める。やってからマズいと思った。というのも胸の真ん中に紐が食い込んでいるのである。いわゆるパイスラッシュと呼ばれるものであろう。
「優斗に見せるのはいいんだけど、パイスラッシュって危ないかな?」
「いいんじゃないか?何かあったらすぐ逃げろ」
やっぱり優斗はかっこいい。
「カラオケ行こうよ」
私が提案した。単純に彼の歌声が聞きたいだけである。
「いいよ」
もちろん歩きで向かう。徒歩30分くらい。でも彼と歩いているとそんなのすぐ近くに感じられる。だって、彼の話面白いんだもの。
「雨降って水ヴァッサーってなったらどうしよう。晴れているから心配いらない。私は元気。It’s fine. I’m fine.なんちゃって」
最速親父ギャグを連発しながら歩く。どうしよう。普段の癖が出てしまうよ。こんな女の子じゃ好きになってくれないかもしれない。
「どういうこと?」
優斗困ってそうな顔しているんだが。最速親父ギャグ頭面倒くさい。
「水ってドイツ語でヴァッサーっていうんだよ。晴れている、私は元気っていうギャグは英語で同じ単語使うから」
「なるほど。アニキのギャグって頭使うんだよな」
「それが私にとって面白いの」
「ねぇ、何歌うか決めてる?」
沈黙に耐えきれず私が言った。その言葉を聞いた彼は音楽を聴いているイヤフォンを外してくれた。
「そ、そうだね。サカサカズの水平線でも歌おうかな」
彼が言った。彼の水平線の歌声は私が好きなものの一つだ。いつか許可とって彼の声目覚ましにしよう。それぐらい彼の声が好きなのだ。別にイケボではないけど。私にとってはイケボだ。私は彼になにができるかな。彼が喜んでくれるならなんだってできそうだよ。
「どうした?ニマニマして」
そんな私の様子を訝しんだのか彼が言った。
「あなたの水平線聞けるのが楽しみだから。それと一緒にデュエットするのが楽しみだから」
「お、おう。ありがとう。アニキは何歌うんだ?」
「そうね。私はフレイバー&おわりのいい加減にして、あなたかな」
「アニキがよく歌っていた曲だな」
「そうだよ」
どうしよう。彼が私をアニキと見なしていることは知っている。でも、本当は輝奈子としての私も愛してほしい。両方を受け入れたうえで好きになってくれないだろうか。やっぱり過去の私には勝てないのかなと胸が痛くなった。
そうして2人で話しながら歩いていると、あっという間にカラオケに着いた。
いつも通り学生証を示す。そして、アプリの画面とクーポンを示す。今日も私が名前を書く。それを見た優斗が「アニキの字と似ているな」と言った。どういうことだろう。昔の私の字はお世辞にもきれいとは言えない。その言葉の真意を知りたくて「それってほめているの?」と言った。
「かわいい字だなと思って」
確かに今日名前を書いたらいつもより少し丸みを帯びたかわいらしい字になった気がする。字を褒められたことで少し頬が紅潮する。校長先生、頬を紅潮させてギャグ絶好調。私の脳内ギャグも絶好調。
「そ、そうかな。ありがとう」
にっこりと凄くかわいい笑顔を咲かせてみた。ドキッとして恋に落ちてくれていいんだよ。優斗の少し照れたような表情が新鮮で笑顔がこぼれてしまった。
イチャイチャしてしまった。ごめんね、店員さん。でもまだ付き合ってないから。複雑な事情があるんだ。許してね。心の中で爆速言い訳タイムを繰り広げる。
いつもなら炭酸を飲むところだけど今日はウーロン茶にしておく。だって、太るんだもの。さっそく曲を入れる。いつも通りLowB から HiAまで出るパウダースノーを歌ってみた。めっちゃ余裕で出た。ただしオク上だった。いつもなら原曲キーで出ていたのにという心もあるけど女の子らしい可愛い声になったということにしておこう。
「アニキ、また声高くなったね」
「忘れているかもしれないけど、性別変わっているのよ」
ちょっとくらい意識してほしいな。でもこの距離も守りたいという気持ちもある。欲張りだな、私。でも、そのくらい求めていいよね?だって、今まで頑張ってきたんだから。これからも頑張り続けるんだから。
「アニキはどっちで扱ってほしいんだ?」
「どうなのかな。女の子として扱ってほしいけど、今の距離もいいなって」
「めんどくさいやつだな」
あきれたような、諦めたような表情で優斗が言った。私、決めたの。何も諦めない。絶対優斗の彼女になるんだから。
「ごめんね。私、欲張りなの。何も諦めないから覚悟してよね」
口に出ちゃったけど、まぁ、いいよね。だって、優斗が好きなんだから。
「そうか。今日ホラーでも見る?」
優斗が「罰ゲームだぞ、この野郎」みたいな顔で言った。負けたままでは悔しいので「いいよ。寝れなくなったら責任取ってよね」と返す。とびっきりのブリっ子スマイルで。
凄く残念な人を見るような表情で見られている気がする。私、残念美少女じゃないもん。
「次デュエットしようよ。下の音でないかもしれないし」
そう言って私はフレイバー&おわりの「いい加減にして、あなた」を入れる。いつもより楽に高音が出る。
優斗は現状をどう思っているのだろう。声が変わったことで急に私を女として意識してくれているのかな。歌詞が刺さりすぎて涙が溢れそうになる。アフロにはならない。また、親父ギャグみたいなことが頭を支配して笑い涙に変わりそうになる。
「声震えてるけどどうした?」
「歌詞が刺さっちゃって。涙が溢れそうになったの」
「そうか」
優斗が「絶対違うだろ。なんか親父ギャグでも浮かんだんだろ?」という顔をしている。確かに浮かんだんだけど。
楽しい時間はあっという間に過ぎて、夜の7時になった。ちょうど夜ご飯の時間だなと思った時、優斗が「夜どうする?」と口を開いた。
「そうだなぁ。どうする?スーパーで買う?」
私はリードすることがとても苦手である。だから決めてもらえるのはとてもありがたい。
「そうするか」
優斗の一声でスーパーに向かうことになった。単純にお菓子も買うだろうし、飲むものも足りなくなるだろうという読みである。で、「選ばれたのは緑茶ではなくジャスミン茶と玄米茶でした」なんてキャッチフレーズを頭の中に描きながらお茶と芋けんぴを買う。細長いほうの芋けんぴを。あと、お酒とカツオのたたき。お酒って言っても15度のお酒なんて買っていない。せいぜい3%を2缶である。父上と飲んでいた時は2人で日本酒6合開けたこともあるけど、そんなことはしない。可愛くないし。
買い物を終え、店の外に出る。
「今日も寒いね」そう切り出すと彼は言った。「それな」と。会話終わっちゃったよ。少しだけ大胆になってしまおう。彼の手を握り、私は口を開く。「これで少しあったかいね」と。
彼の照れた顔にすこし微笑みながら歩く。ホラーを見るのは怖いけど、優斗とだったら乗り越えられそうな気がする。優斗も酒を買っていた。彼の酔った姿を見たいと思ったけど、どちらも酔うまで飲まないことを思い出してしまった。酒ラブストーリー崩壊。こうなったら、本気で演技するから見ておけよ。覚悟しろ。
「今日お酒飲めるの楽しみ」
凄くワクワクした顔をしてしまった。なんていってくれるのかな。優斗はやっぱりイヤフォンをしていた。でも片耳のイヤフォンは外していた。
「そうか。俺もアニキにホラー見せるの楽しみ」
優斗が意地悪そうな顔で言ってきた。優斗はたまにこういう悪戯っぽい顔をする。彼のこの顔がなんだかんだ言って好きである。凍えるような寒さで口から白い煙が出る。
もうすぐ着くなぁ。楽しい。でも、ちょっとホラーは怖い。感情移入しちゃったり、入り込みすぎたりしてしまうのだ。
優斗の家に着いた。手洗い、うがいをした後、優斗はポップコーンを準備している。私は楽な格好で見れるといいなと思って、「お風呂入ってからがいいな。途中で寝ちゃったときにくさいとか言われたくないし」と言った。
優斗はポップコーンの火を止めて「それなら、風呂貯めるわ。ちょっと待ちな」と言った。私は、申し訳なくなって「シャワーでいいよ」と言った。それでも、彼は「それでは寒かろう」と言って風呂をために行ってくれた。言わなきゃよかったかな。
優斗が部屋に戻ってきた。優斗が「30分くらいかかるからなんかアニメでも見るか?」と言った。それを聞いて、私は、最近流行っている薬屋が王宮で活躍するアニメを提案した。相変わらず主人公である薬師のネコさんが可愛い。あの冷めた対応も可愛いと思う。
「アニキってこういうアニメ好きだよな」と優斗が話しかけてきた。私は「そうだね。大好き」と答えておいた。お風呂どうしよう。どっちから入るか聞いた方がいいかもしれない。
少し間をおいて私から「お風呂どっちから入る?」と聞いた。優斗は「先、入りな」と言った。私は「ならそうさせてもらうわ」という。優斗は「これがシャンプーで、こっちがボディーソープ」と説明をしてくれる。脱衣所はわかった。ちょうどアニメが終わったので、下着とタオルを持って、風呂に入ろうと下着を脱ぐ。そして叫んだ。
「きゃー」
「どうした?」
すぐ飛んで来てくれる優斗イケメン。こんな状況でなければ。
「血がついてた。きっとそういうことだと思う」
「よくわからんけど、女性用のなんかあるんだろ?風呂入る前に取ってきたら?」
「そうする」
私は月のもの用のいろいろを詰めて脱衣所におく。そして、爆速で言い訳をする。
「わかってたつもりだったよ。でも今日来ると思わなくてびっくりしただけだから」
「そうか」
「短いよ、返答」
「こんなもんだろ?俺にはわからんから何も言えん。困ったら言えよ。何もできんかもしれんけど」
「ありがと」
さて、シャンプーをして、体を洗い、メイクを落として、クレンジングをして、洗顔をした。お湯には浸かれないみたいだ。さすがに血が下着についてたから何が起きたかはわかっている。湯船に浸かれない。そして洗濯どうしよう。
「そろそろか?」
優斗の声が聞こえた。そんなに長風呂していただろうか?
「もうちょっと待って。すぐ服着るから」
そういって、髪を乾かすためにタオルでしっかり拭く。ここで、パジャマを忘れたことに気付いた。
「ごめん。パジャマそっちにある。取って」と優斗に声を掛ける。確かに下着とタオルしか持ってきていなかった。かばんには入っているのでそれを取ってもらおうというわけだ。
「ごめん、どこ?」と優斗から返事が返ってくる。めんどくさくなってしまった。私は、かなり雑なところがある。で、面倒だと思った私は下着のまま風呂を出てパジャマを探す。優斗の前じゃなかったらこうはならなかっただろう。母親以外私の下着姿を見たことないと思う。信頼している優斗だからこそ、こうなったのだ。
優斗は照れていた、私も少し恥ずかしかった。わざとではなかったから。完全におうちモードというか油断していた。ホラーが苦手すぎて、それを見るということだけで頭がいっぱいだった。決して私がばかなわけではない。ポンなだけだ。
「えっと、パジャマあったか?ないなら、とりあえず俺の服でも着るか?」という優斗の言葉を聞きながらカバンを探す。「あるとは思うんだよね」と優斗に返す。入っているのは知っている。入れたから。どこに入れたかがわからないだけだ。
「冷えるだろとりあえずこれ着ろよ」そう言って優斗は私にスウェットの上下を渡してきた。男の子用だから少しばかりぶかぶかだった。
「ぶかぶかだな。輪ゴムでも入れる?」
いくら私が痩せているとはいえさすがに輪ゴムは無理であろう。幸い、パジャマに紐がついていたのでズボンの紐をキュっと締める。なんか、彼シャツしてるみたいで幸せだ。大好きな彼に包まれている気がするから。
それから、5分やっとパジャマを見つけられた。ピンク色のふわふわしたフリースの上下。昔の私なら絶対に着ない色である。せっかく見つけられたからそれに着替えようとする。
「トイレで着替えてきたら?」
確かに下着の女をもう一度見るのは毒かもしれない。でも、彼の服を汚したくないし。その意図を彼に伝えると、「扉あるだろ。そっち側なら見えないから」と言われた。さっきばっちりみられているんだけどね。可愛い、サイズのあったパジャマに着替えた。
その姿を優斗に見せると「さっきのも可愛かったけど、そっちも似合ってる」と言ってくれた。さっきのってどれだろう。下着かな?だとしたら「変態」というべきかもしれないがそうじゃないなら彼シャツみたいになってたあの服もいいな。
そんなことを考えながら優斗に「ドライヤー借りていい?」と聞く。髪は割と乾いていたけど乾ききってはいなかったから。「いいよ。洗面台にある」と言ってきた。ありがたい。
「ありがとう。ごめん。あの服濡れているかも」と私が言うと「洗濯かごにぶち込んどいて」と言われた。どこまでも彼らしい。思い出した。これからホラーを見るのだ。怖い。
今日見るのは周りの人がゾンビになってしまうというホラーだ。かなり有名な映画でシリーズ化もされている。少し部屋も暗くなっている。
最初に、未知のウイルスによって人がゾンビになるといったニュースから始まった。その未知のウイルスというのが私たちの頃に蔓延したウイルスの話と重なるようで心が痛い。
かっこいいダンディーな俳優が言った。「It is nothing to do with us. Don’t worry(俺らには関係ないさ。心配するな」と。そんなわけないだろと私はツッコミを入れる。
「それな。特に俺らの時、遠隔授業になったもんな。そのウイルスのせいで」と優斗が同調する。私たちの世代からすると、「いつこうなってもおかしくない」という危機感がより恐怖を煽る。30分ぐらい経つと、いきなり主人公たちのすぐそばにまで危機が迫っていた。銃が有るからまだましではあるもののどんどん追い詰められていく。こんな速度でゾンビになってしまうんだと思うとどんどん怖くなる。知らないうちに彼の服の袖を握りしめていた。
「アニキどうした?袖掴んで。見るのやめとく?」
「大丈夫」
とは言ったものの声が震えてしまう。
「明らかに声震えているけど。ごめん。トイレ行ってくるわ」
1人にしないでよ。怖い。と言えたらよかったけど、それは無理だよね。彼の家の構造上トイレにいると音が凄く聞こえてしまう。こんなことに安心感を覚えるのは変態かもしれないけど、彼がそこにいるのだと感じられるだけで少し怖さは和らいだ。
まあ、映像も止めているからだけど。彼が戻ってきた。さっそく映像が流れだす。また、映画の世界に入り込む。もし彼がゾンビになったらどうしよう。優斗はゾンビにならないよね?
「飲まないの?」
優斗が聞いてきた。飲めないよ。トイレいけなくなるかもしれないのに。
「しょうがないなぁ。飲むよ。でも、トイレいけなくなったらついて来てくれるよね?」
明らかに私の声が震えている。ビブラート上手いなぁ。って笑えたらいいのに。どうしよう。これは卑怯かな。でも、私は彼と一緒にいたいんだもの。仕方ないよね?
「なんでだよ。さすがにそれは」
なんで引いているのだろう。ああ、そういうことか。彼も知っているのね。でも、恥ずかしいという心より「怖いからついて来て」と言いたくなってしまう心の方が強い。
とりあえず一口だけ梅のサワーを飲む。美味しい。でも、お手洗い行きたくなったらどうしよう。何とかなるかな。そんなことを考えている間にクライマックスが来た。私はマックスで泣きそうになっていた。クライマックスだけに。
主人公がゾンビになり、意識を失う寸前のシーンになった。大写しになる主人公。主人公は言った。「後で必ず追いつく。息子を頼んだ。家族そろって生き残ろう」と。
主人公の奥さんは「でも」と口を開く。それを遮り主人公は言った。「これを俺だと思って持っていけ」と。主人公が手渡したのは有名なメーカーの腕時計。彼は、ネックレスをしている。
彼の顔色がだんだんと悪くなる。「噛まれると感染してしまうとわかっているだろう。息子を連れて逃げてくれ」主人公はそう言って反対側に走っていく。その背中は悲しさを物語っている。主人公の心中も奥さんの心もわかってとても胸が痛い。
「ママ、パパはなんで走っていったの?」
これまで口を開かなかった主人公の幼い息子が涙をボロボロと流しながら言った。痛いよ。めちゃくちゃに感情移入してしまってこれまで以上に泣きそうだ。
この子はパパを知らないまま育ってしまうかもしれない。思い出したときは、このひどい有様を思い出してしまうかもしれない。主人公の息子を思う母の気持ちになり、気づいた時には頬から涙が流れていた。
「アニキって泣けたんだな」
「余計な事言うな、バカ野郎」
涙で声が震えている。ホラーの怖さで泣くのもありそうだが、息子が感じているであろう母親のぬくもりや母や息子の底知ぬ覚悟が見て取れてさらに泣きそうになった。気付くと彼の袖につかまっているだけに留まらず、ほぼ抱き着くようにみていた。
ふと横を見ると優斗と目が合った。
「ごめん。抱き着いてたんだね」
「今更かよ。30分ぐらい抱き着いてたよ」
優斗のイジワル。言ってくれたら離れたのに。でも、言ってくれないところが彼なりの優しさなのだろうと思う。きっと怖がっている私を見て胸ぐらい貸してやるという気持ちになったのだろう。
申し訳なさと「もういいや」とあきらめた感情とこのままいたいと思う気持ちがせめぎ合って変な感じだ。
映画に向き直ると、主人公の奥さんはどんどんと遠くへと走っているはずだった。しかし、一向に先は見えない。赤黒く垂れこめた空が広がっている。今外に出たらこの世界もこうなっているのではないかと思ってしまう。
ついに最終局面かもしれない。あるゾンビが主人公の奥さんと子供に近づいて来る。そこには見慣れたネックレスをしたゾンビの姿があった。
「あなた、来てくれたのね」
主人公の奥さんであるメアリーが言葉をかける。しかし、そのゾンビは意に介した様子もない。もう記憶を失ってしまっているのだとメアリーは悟った。
覚悟を決めたようにメアリーは小銃の照準を夫の額に向ける。たくさんの思い出がメアリーの中を駆け巡り、照準が定まらない。一緒に食べたご飯。結婚しようとプロポーズされたあのフレンチの店、幼いころ一緒に駆け回ったあの原っぱ。全てがよみがえってくる。
しかし、覚悟を決めなければならない。私たちが生きていくのは「過去」ではない。「未来」なのだ。息子の為を思い、走りながら一瞬で照準を合わせる。
「さようなら、あなた。最高に楽しい思い出をありがとう。また、あの晴れ渡る大空の下で会いましょう」
一発の銃弾が主人公の頭を貫く。その散り際の表情は少しだけ微笑んだように見えた。映画の中で時は流れ、20年後の世界で主人公の息子は父親が死んだのと同じ年になっていた。
「ほら行くぞ、バカ親父。お前の嫁さん今日も笑ってるよ」
そういって、息子は父親がつけていたのとまったく同じ腕時計を付けて晴れた大空の下を駆け抜けていく。
その画面を見てまた私はもらい泣きする。
「大きくなったなぁ。父ちゃん嬉しいぞ」
「えっ?アニキ父親側で見てたの?」
声漏れてたの?私は、「声出てたなら言ってよ。優斗、そういうとこだぞ」と言いたくなった。確かに母親が主人公だった気がする。でも、最後の思い出にと腕時計を差し出したり、奥さんに打たれるときに微笑んだり、本当に優しかった主人公のことを優斗と重ねてしまって、心が痛かった。
「なんか、重なっちゃって。もし優斗がゾンビになっても同じようにしてくれそうだなって」
なんか恥ずかしいこと言ったかもしれない。なんか指がじわーんってする。打った時の手の感覚が少し残っている気がする。
「どうだろうな。わからんけど」
「そっか」
なんか言葉が溢れすぎて逆に何も言えなかった。トイレに行きたくなって立ち上がろうとした。でも、足に力が入らない。なんでだろう。しがみついてたはずなのに手も力が入らない。
「トイレ行きたいんだけど、立てない」
「ほら、つかまりな」
優しく手を出してくれる優斗。
「掴まれない。どこにも力が入らない」
私の言葉に少しあきれたような表情をしながら「仕方ねぇな。ほれ、おんぶ」と私を背負ってトイレまで連れて行ってくれた。漏らさなくてよかった。それだけを感じていた。
これ座れるけど、立てるかな?立てなくなったら、その時はなんとかしよう。数分後立ち上がれた。歩き方がぎこちなくなったけど。
「ふわああぁ。眠たいけど怖くて寝れない。手、繋いでてよ」
我ながらめちゃくちゃ厚かましいこと言っている気がする。でも、仕方ないじゃん。眠れないんだもの。
「しょうがねぇな、ほれ」
優斗の手を私の手が握りしめている。骨ばった大きな手に包まれる安心感ってすごい。そうして、彼の手を握り、もたれかかったところから記憶がブラックアウトした。