バイト
今日やっと書類が出来上がって、国民健康保険証を作ることができるようになったので本人確認書類を持って年金事務所に向かう。勤務先から手続きしてそこから年金事務所にもっていって手続きするように書いてあったが、アルバイトでもできるのかしら。
市役所に着いた。私はすごく緊張した震えた声で「すみません。つい先日突然性別が変わってしまって、保険証発行しなおしの手続きをしたいのですが」と声を掛けた。出てきたのはきれいなお姉さんだった。
「健康保険証の発行ですね?」
「はい」
緊張で声が震える。どうしよう。めっちゃ緊張する。
「性別が急に変わったというようなことは前例がないのでどうするか悩みどころですが、退職に伴って新たに国民健康保険に入るのと同様の手続きで行いたいと考えております。上長に聞いてまいりますので少々お待ちください」
そういってお姉さんは駆け足でどこかに向かっていった。取り残された気持ちになった。そういえば、マイネヌマーカード持ってくれば話が早かったかもしれない。
そう思ってマイネヌマー窓口に聞いてみることにした。
「もし、性別が変わってもマイネヌマーを使って保険証を作るといった手続きは可能でしょうか?」
「そうですね。すぐ聞いてまいります」
悪いことをしてしまったかもしれない。30秒ほどでスタッフさんは帰ってきた。
「昨今、性的マイノリティーへの配慮から改名法に基づいてマイネヌマーを用いた本人確認書類の発行も許可されております。いかがいたしましょうか?」
どうしよう。悩むなぁ。そう思いながらいると、先ほどのお姉さんが帰ってきた。
「お待たせいたしました。先ほどの手続きで問題ないようなのでそちらで進めさせていただこうと思いますが、いかがされますか?」
「そうですね。先ほどマイネヌマーカードの窓口の方で改名法に基づいたマイネヌマーを用いて本人確認書類を作る手続きもできるという風に聞いたのですが、どちらが進めやすいでしょうか?」
「そうですね。マイネヌマーの方が早いかと存じます。早めの手続きをご所望でしょうか?」
「はい。できるだけ早く手続きをしたいと考えております。学生証や免許証など本人確認書類が必要になると思いますので、その時のためにできれば1週間以内ぐらいで手続きを済ませたいと考えております」
「かしこまりました。それでは、マイネヌマーの方で進めさせていただきます。本日マイネヌマーカードはお持ちでしょうか?」
「すみません。今日は持ってきていないので、明日持ってきます。本日はありがとうございました」
そういって私は市役所を出た。気付くともう12時だった。昼休憩前だったかと思うと少し申し訳ない気持ちになった。
あてもなく駅前を自転車で移動し、駐輪場に止めてからうどんを食べる。今日の気分はカレーうどん。美味しかった。17時からアルバイトがあるため、今日は白いYシャツの上にセーターを着て、その上に黒いコートを着て、黒いズボンをはいている。
せっかくなのでダメもとで大学の学生支援課に向かう。今日も風が気持ちよい。ただ、寒い。手が凍りそうだなぁと感じながら自転車を飛ばす。風になびく髪がきれいだろうなぁと自己肯定感を上げている。
自転車15分ほどで大学に着いた。2階のエスカレーターを上ってすぐに学生支援のお姉さんに声を掛けた。
「夜桜魔沙斗です。性別と名前が変わったため、学生証の再発行をお願いします」
「伊佐先生から話は聞いております。魔沙斗さん名義の学生証は持っていますか?」
「はい」
そういって学生証を差し出す。
「学籍番号はわかりますか?」
「はい」
そういって学籍番号を彼女に伝える。どうやら一致したようだ。
「学生証発行には証明写真が必要ですので撮って持ってきてもらえば手続きできるので撮ってきてください」
ということで、私はすぐ近くのスーパーにある証明写真機に向かう。今日の恰好あまりかわいくできていない気がするけど仕方がない。早く学生証作らないと出席ができなくなるからね。
証明写真機に入り、椅子の高さを合わせる。前の顔では湧かなかったピースしたくなる衝動を抑えながら、とびっきりのスマイルで証明写真を撮る。こんなにスマイルいらないな。よし、にっこり。
「私の写真かわいい。最高。私って最高」
うれしすぎて独り言が出てしまった。でも幸せなんだから仕方ない。
学生支援課に戻って仮学生証を発行してもらった。本学生証は明日になるらしい。明日は金曜日だ。明日もバイトあるし、明後日もバイトがある。がんばろう。
「バイト頑張ってくるね」
「がんばれ」
彼にTXTを送るとすぐ帰ってきた。バイト始まりには見えないこともあるけど、これが私の活力剤だ。本当は、もっと自分に自信を持ちたい。ああ、一人暮らししたいなぁ。
「よし、頑張るか」
私は自らに喝を入れると、働き始めた。さっそくサービスカウンターに浅井さんがいたので事情の説明をしておく。
「おはようございます。夜桜です。保険証を作るために健康保険資格喪失証明書が必要なのでお願いします」
「了解。店長にゆうたらわかるけん、店長か副店長に言ってみて」
「わかりました」
「手続き色々大変かもしれんけど頑張りよ」
浅井さんの言葉にかなり救われた。いつも通りレジをチェックしてレジノートを見る。新しいキャンペーンが始まるとレジノートに書かれている。
「ありがとうございます。で、今日は83号ね。特に気を付けなければならない情報もなしっと」
今日のレジは、83号だった。いつもの人が多いレジだ。前後のレジには同じ時間に入っている名古さんと熱海さんがいた。名古さんは同じ心理学科の後輩で3年生だ。84号でレジをしている。82号が熱海さんだ。
「いらっしゃいませ、カードお持ちでしょうか?」
いつもとは違うので少し低めで太い声をイメージして声を出す。やりすぎると女の子らしさがなくなる気がしたので、はきはきとアナウンサーみたいな声をイメージして出している。
男だったころはmid2F当たりの声がいらっしゃいませの最高音だった。言い換えれば、「せ」が普通のファの音だった。男性の地声の最高音の平均の1音下である。カラオケみたいな発声で「いらっしゃいませ」という癖があったのだ。
「はい」
そういってカードを受け取る。握力は変わっていないがめっちゃ綺麗な手だな。最初のお客さんはおばあさんだった。
「綺麗なお嬢さんね」
「恐れ入ります。お買い物袋ございますか?」
「はい」
いい年の取り方をした寛容なおばあさんみたいだ。残念ながらこの世界には、優しい人ばかりではない。
「ピーマン、玉ねぎ3点、にんじん3点、ジャガイモも3点、とたまごと、牛肉」
読み上げから少し間を開けて、値段とレジを告げる。セミセルフのレジなのだ。
「1931円のお買い上げで、会計機3番でお支払いお願いします」
お客様が会計機に立つのを見計らって頭を下げながら、「ありがとうございます。またお越しくださいませ」とあいさつをする。
次のお客様もご案内する。
「タナトス、6ミリのソフトカートンで」
男性のお客様だった。えーと、タナトスの6ミリのソフトだから、一番短い煙草を手に取る。真ん中ぐらいのやつがボックスで、一番長いのがロングだ。
「こちらのカートンで、お間違いないですか?」
「おう。お嬢さん煙草に詳しいのかい?」
好奇心をはらんだ目で彼は言った。
「いいえ。アルバイトでお客様のように銘柄でおっしゃる方も多いので覚えているだけでございます」
「そうか。お嬢さんが持つと、たばこの箱がでかく見えるな」
「そうですか?ありがとうございます。7291円で、3番の会計機でお支払いお願いします」
煙草だけだとすると高く思えるけど、ほかにも商品をお買い求めだったのだ。会話することに夢中で読み上げ忘れたけど、機械も読んでいるし、いいよね。
「いらっしゃいませ。あ、お疲れ様」
よく来る同じ心理学科の背の高い男の子が来た。彼女さんとも仲良かったんだよね、私。彼女さんは元気かしら。
「お疲れ様、って、だ、だれ?あ、夜桜か。妹さん?」
名前を見てわかったのだろうが、でも最初は双子を疑うかもしれないよね。
そりゃそうだろうな。そう思うよね。私もそう思うもの。
「本人だよ。体が女の子になってて、で、あの、うん」
「そうか、頑張れよ」
「ありがとうございます。またお越し下さいませ」
普段通り返す。
8時ぐらいには客足も落ち着き、暇になってきた。広告も裏返して次の日以降の広告に変える。そして、1人ずつ順番に水分補給に行く。その間にレジのゴミを片づけたり、ポイント県やギフト券を数えたりする。
9時ぐらいになり、従業員さんがレジ締めをしている間にレジを移り、喋る。本当はよくないことだとわかっているがとても暇なのだ。
「明日の安売り何かおいしそうなもんある?」
「肉うまそうっすね」
「そうだね。私もお肉大好き」
「意外と食べるんですね。って誰ですか?」
タイミングがおかしいが、名古さんも気づいたようだ。
「私、女の子になってしまったの」
「ああ。そうなんですね。浅井さんが言っていたのは本当だったんですね」
「うん。そうだよ」
それから、しばらく経って帰る時間になった。
「よかったら、一緒に帰りませんか?送りますよ、危ないですし」
「大丈夫。私一人で帰れるから」
「そうですか。お疲れ様です」
「お疲れ」
感じる風が冷たくなってきた。寒いなぁ。彼のぬくもりが欲しいとも思うが、彼も今日はアルバイトがあるはずだ。いつも応援してくれているから彼にTXTを送る。 「バイト頑張れ。いつもありがとう」と。
彼から返信が来た。曰く、「お疲れ様。こちらこそ」と。胸が高鳴ってしまって声にならない声を上げそうになる。彼にとって私が原動力になれていたらいいなと期待しながら、ごはんを食べる。今日はハンバーグだった。
「そろそろ、慣れてきた?大変でしょう?」
そう聞いてきたのは母親だった。いつも大体月末は機嫌が悪かった。私もそうなるのかな?でも妹はそこまで機嫌が変わらないから、個人差の大きいものなのだろうと推察している。
「ほぼ使い勝手変わっていない。今のところ楽しいことしかないし」
それでも知識として女性には月に1回確実に頭痛や体の重さや痛みを感じる日が来ることを知っている。それがいつになるか、どれほどの痛みか怯えながら今の体を満喫している。
「あ、そういえば明日市役所行ってマイネヌマーカードを用いた保険証の手続きしようと思うんだけどどうかな?」
「マイネヌマーカードなくしたら大ごとだから、別の方の手続きにしなさい」
「わかった。明日もバイト直接行くから」
「ハイハイ」
手続きめんどくさい。本当は家族に丸投げしたい気持ちもあるけど自分でしなければ覚えられないから、手続きを頑張っている。明日は保険証作って、免許証を更新して、年金の名義変更は父親について来てもらって明後日しよう。土曜日だから公的機関が閉まっているのかな?父上に聞かないとどこまで手続きできているかわからない。
今日も手続きとアルバイトで疲れたなぁ。お疲れ様、私。今こうして疲れて眠ろうとしている間、優斗は働いているんだなぁ。そう考えると自分のしていることが小さく思えて、少し落ち込んだ。最近腰痛に悩んでないけどそれも女子化したおかげだろうか。そんな物語聞いたことがないけど。
最近は美容によくないからという理由でできるだけ食べる量を前の半分くらいにしながら、23時までには寝られるように努力している。それでも、24時にはなるけど。アルバイトがあるから。
せっかくTSしたけどいつまで続いてくれるのだろう。手続きのやり直しが面倒だから、あとこの体大好きだからこのままがいい。過去の自分否定しすぎといわれるかもしれないが、そうではない。昔も好きだったけど、今の方が好き。それだけさ。強くなれる理由ってきっと恋だから。
今日夢に神と名乗るものが来た。その神が私に問いかける。
「その体はどう?」
「最高です。このままがいいです。返却は致しません。ご了承ください」
めちゃくちゃ早口でまくし立てている。きっと夢をつかさどる神と共に私の運命を実験しているのかもしれない。そうだとするなら、この体の良さを思いっきりプロデュースしてこの体のままいられるようにしておきたい。断じて手続きが面倒というわけではない。
「たぶん、思っていることは全部本音だと思うから、その体のまま一生生きればいいよ」
神って心読めるんかい。まあ、読んでもらえるなら楽でいいわ。
「本当に面倒くさがりなんだね」
「うるさい。違うからいらない手間を省きたいだけだから」
でもこの体にしてくれた神様には少し、いやとても感謝している。この体のおかげで自分を好きになれたから。
「その体はご褒美だよ。いつも自分磨きをしてなりたい自分になれるように自己演出もして、不用意に嘘をつかずに正直で誠実に生きている。そのご褒美だよ。なりたい自分になれた?」
もちろん。なれたに決まっている。だって、私のなりたい私はこれだから。この体こそ私の理想だ。使い勝手があまり変わらない背丈、軽くなった体重、アレルギーも腰痛もない体。血圧とか血糖値とか尿酸値とかはどうなのだろう。
「正常なはずだよ。血圧計は大学にもあるはずだから測れるはずだよ」
神のこの言葉に私は安堵した。
よかった。高血圧が原因で早死になんて嫌だから。私は彼と添い遂げるんだから。決意を新たに深い眠りに包まれる。おやすみ、私。