バイト
今日もまたバイトがある、なんだかんだで、もう1週間が過ぎ、この性別になって2週間目のアルバイトだ。ああ、どうしようかな。私には本音と逆を本音と思わせてしまう悪癖がある。なぜそうなるのか。簡単な事である。親に遠慮してしまって、「親の思っている通りにしなければならない」と思ってしまうからだ。こんな面倒な性格やめてしまえたら楽なのに。
ウチのパワーバランスはおかしいかもしれない。母親の発言力が強く、それ以外はあまり主張しないからだ。ああ、だるい。このまま何もかも親に決められてしまうのだろうか。受験も頑張ってきた。サークルも頑張ってきた。
今日は授業がないので、いつも通り白いYシャツに黒ズボン、紺のTシャツを着て外に出かける。今日はどこに行こうか。吉野川沿いを自転車で駆けるのもいいけど、違うところも行ってみたい。
それよりもしなければならないことを思い出した。内定先への報告である。まずは、県内有数の福祉法人健泰会に電話を掛ける。私は緊張した声で「もしもし、夜桜です。採用担当の方はいらっしゃいますか?」と電話を掛ける。
「はい、もしもし。採用担当の王手です。夜桜さん?」採用担当者が出てくれた。とりあえずは性別が変わったことを報告しなければならない。だから私は、「はい。夜桜です。性別が変わったのですが,いかがいたしましょうか?」と問いかける。
「では、証明書などありますか?」私は採用担当者に対して思ってしまった。どうやって証明しよう。あ、そうだ。改名法がある。改名法では、性別が変わったことによる内定取り消しは違法と定義されており、本人確認書類と携帯番号などによって確認する方法があるのだ。
「そうですね。今かけている電話番号が夜桜魔沙斗さんと一致していたらもともと本人なので、保険証の写しとかで証明しますか?」と私は手続きの話を続ける。
「現在確認取れたので大丈夫です」と採用担当の王手さんが言ってくれた。これで一安心だ。あとは、もう一方の正社員を派遣する会社であるサターンの採用担当角飛車さんに電話をかけて同じような手続きを踏む。
そろそろ、どちらの会社に行くのかを決めなければならない。明らかに会社選びの軸を間違えている。後輩には業界を絞れとアドヴァイスを送ろう。しかも、健泰会とサターンでは会社の規模も違う。初任給は似たようなものである。どちらも実家から通える範囲のはずだし。
親の期待に添うべきか、自分の意思を貫くか。結婚はどうするのか。県内に残って介護をするのなら、健泰会の方が知識面で役に立つ。ただ、セクハラなどに会わないか、優斗についていけるのかという問題もある。寿退社するならどこに行っても変わらない可能性もある。私は優斗と結婚したい。
でも、きっと母上は私と博文が結婚する方が都合よさそうだし、健泰会に行った方が安心はできるだろう。一体、私の人生って誰のものなのだろうか。私って何なのだろうか。死のうかな。本当にわかってもらえない。
外にいても気が晴れない。何をしても面白くない。博文はいい友人だが結婚するのは違う。ただ、個人の感情なんてくだらない、取るに足りないものであって、特に私の意見なんて重視する価値もないものだから従うべきなのだろう。傀儡になればいいんだ。私なんて最初から存在しないから。もう何もわからない。わかりたくもない。いなくなれば価値がわかるのだろうか。優斗以外わかってくれない。
もうしんどい。やめてしまいたい。
「何のために生きているのかわからなくなっちゃった」私の吐き出した、その独り言は冬の寒空のかなたに吹き飛んだ。まぁ、わかってはいる。生きているから死ぬということも。生まれたから生きているということも。目的なんて後からいくらでも作ることができることを。
大学に戻り、ハローワークの方に就職相談をする。曰く、「何もわかってくれない親にどう伝えればいい」と。チューターにも同じ質問をしてみよう。
ハローワークの人は「ゆっくり話あえばいいと思う」とアドヴァイスをくれた。確かにその通りだが、親と意見が正反対だし、わかってもらおうにも表出する表情も声のトーンも本音と真逆のことを強化することになってしまうからわかってもらえない。
どうしようか。とりあえずチューターの伊佐先生のところに言って話を聞いてもらおう。伊佐先生は心理学の先生なのできっとわかってもらえるだろう。私は、25号館から9号館への移動の間に考えを整理する。
私自身のやりたいことは決まっている。だが、親と意見が反対である。声のトーンや表情では読み取ってもらえない。逆になるのは遠慮しているから。では、なぜ遠慮してしまうのだろうか。育ててもらったからであろう。それだけでなく2回も大学に行かせてもらったというのもあるだろう。私は親にどうなってもらいたいのだろう。
考えてみると「別にどうでもいい」という答えになる気がする。おそらく諦めてしまっているのだろう。「どう頑張っても説得できる気がしないから」と。伊佐先生は「大きい会社は安定していて親御さんも安心するのではないか」とアドヴァイスをくれた。確かにその通りではある。だが、私は一生介護をして生きるのだろうか。でも、介護の方が将来優斗の役に立てるかもしれない。その視点で考えるなら、介護の方に行ってもいいかもしれない。よし、行く仕事は介護にしよう。社会福祉士を取った後で辞めればいい話かもしれない。児童指導員任用資格も持っているし、何かに生きるかもしれない。
考えに整理がついたので、ジャスミン茶を飲みながら動画を見て、わかめうどんを食べる。やっぱり出汁が効いている。さて、アルバイトに向かおうか。
アルバイト先に着き、いつも通り浅井さんと話す。
「おはようございます」と私が言うと浅井さんは「おはようございます。体調悪いの?」と聞いてきた。私は体調が悪いわけではないので「大丈夫です」と答えておいた。そして、いつも通り商品登録を行っていく。2時間が経ち、7時になった頃鼻をつたっていく違和感に気が付いた。
でも、お客様の商品登録をしなければと考えていた私は白いマスクが赤く染まっていくのを気にもせず、商品登録をしていた。ちょうど隣のレジに来た名古さんが「マスクが血に染まってますよ」と言ってきた。わかってはいた。でも、サボりだと思われたくなかった。
従業員の浅井さんが「レジ入っておくからマスク変えてきていいよ」と言ってくれたので、マスクを変えてくるために従業員用の休憩室に向かう。少しばかり頭痛もある。血が足りなくなっているのかもしれない。
あと、3時間だから頑張ろう。私はレジに戻り、浅井さんに「ありがとうございます。レジ代わります」と言う。浅井さんとレジを代わると名古さんから「大丈夫ですか?」と聞かれた。私は、「大丈夫。ごめんね。レジ混まなかった?」と返事した。名古さんは「混みましたけど大丈夫ですよ。鼻血、止まったみたいですね。よかったです」と言った。その表情を見て「忙しいのに鼻血でレジ抜けやがって」という言葉を言いたかったのだろうと思った。
名古さんも大人だなと感じた。ああ、またお客様が来た。レジを通していく。そこからルーチンワークを行って、蛍が鳴って帰る。帰ってもわかってもらえないのだろうと思いながら、自転車で家に帰る。やっぱり健泰会に就職することにしよう。エージェントの方には悪いし、本当にしたいこととは違うけど将来役に立つからね。だって、優斗には母親がいないし、おばあちゃんの介護が直近の課題になると思うから。
家に帰り、「やっぱり健泰会にする」と母親に伝えた。そうすると母親はかなり満足げな顔で「だから言ったでしょ。あなたにぴったりなのよ」と言ってきた。私は「あなたが言ったからそうするわけではないけどね」と言いたい気持ちを抑えて、「ありがとう。やっぱり、お母さんは何でも知っているね」と言っておいた。
また満足げな顔をしている。腹が立って来た。でも、それをおくびにも出さないようにしながら私は風呂に入る。何度も考えて何度も思う。母上は何もわかっていない。私の性格の何を見てるのだろう。全てが本音だと思っているのだろうか。まあ、ほぼ9割以上本音の中で、わずか1割の建前を見抜くのは不可能かもしれない。
面倒だ。