一発目の化学の授業にて
朝8時。
本日3度目のアラームが鳴った。
やばい、8時だ。ぶわっと体を起こす。
今日は朝8時45分から1限目の化学がある。
ねぼけなまこでカーテンを開ける。
今日も気持ちのいい透き通った春の青空が、山なみの上に広がっている。
すがすがしい朝。ゆっくり過ごしたいが、そうもいかない。
若干寝坊なのである。
若干ではないな。完全なる寝坊。
ここから大学まで、5分もあればギリギリ間に合うけれど、最初の授業で寝坊はよくない。できるだけ避けたい。8時半にはここを出る予定であったが、間に合うかどうかである。
とりあえず寝巻姿のまま、昨晩机に置いていた食パンを袋から取り出してトースターに入れ、そのまま台所で顔を洗う。
お湯が出るまで待てないので、水だ。
冷たいが、寝坊が原因。我慢するしかない。
寝巻から着替え終わると同時に、トースターが「チン」と音を鳴らした。
しかし、焼き色のやの字もない。温かくもない。
なんで!!!
コンセントが刺さっていなかった………。
節電のためにと、普段全然使っていないから抜いていたままだった……。
タイムロス。いままで変に急いでいたのがバカみたいだ。
なんやかんやで八時半。
パンに何もつけずに食べたから、あまりおいしくないし、水で押し込んでも、口の中はパッサパサ。こんなことはもうごめんだ。
「ちょっと遅れる」とLIНEをし、返信を待つ余裕もなく階段を駆け上る。
のんびりした春の陽気に照らされた中、他の学生も足を動かすスピードが速い。
教室の前で、小城君は待っていた。ギアをもうひとつ上げる。
「すまん……寝坊した。」
「ギリギリセーフ。まだ8時37分だから、8分も余裕あるぞ。」
小城君はケラケラと笑っている。やはり1時間に1本の電車に合わせて生活している人は強い……のかもしれない。
広い教室は、この前のガイダンスと同じ教室だ。既に化学の先生は教壇のところで作業をしている。といっても、白衣を着て実験の準備をしているわけではない。水色のワイシャツに身を通し、パソコンとケーブルをつなげている。
小城くんと同じ電車で来た人も多いのか、後ろの席と通路側はほとんど埋まっていて、前のほうに少し空席があるくらいだ。1週間しか経っていないのに、交友関係はいろんなところで出来上がっており、ざわざわしている。
「前でいい?」
「おうよ」
そんな空気を後ろに、我々はずこずこと階段を下る。前から二列目、ほぼ先生の目の前だ。一番前に等しいけど、そこしか空いていないから、仕方がない。最前列には、やはりいかにも真面目そうな人が座っている。ガイダンスのときと同じ人のような気もするが。
長机の端に我々は陣取ったが、机の反対側のほうを見てみると、見おぼえのあるブラウンヘアの美少女がいた。
タチヤーナさん、と思われる人だ。というか学内でこの特徴的な美少女、タチヤーナさん以外知らない。
チラチラと様子をうかがっていると、彼女も僕の目線を感じたのか、こちら側に振り向いた。
知っている顔。タチヤーナさんだ。
当然のことだが、目が合ってしまう。
「あっ」
「どうも」
とっさに軽く挨拶した。ただ会釈しただけ。タチヤーナさんはすぐさま向き直り、真っ直ぐ黒板のほうを見つめる。
これ以上話すほどまだ仲良くなってはいないし、なんなら先週顔を合わせたばかりだし……。これくらいの最低限のコミュニケーションができるだけでも十分だろう。だって、この前の帰宅時に話したのが最初だからだ。
そう思って小城君のほうを見れば、僕とタチヤーナさんをチラチラと見比べていた。
「え、ちょっ、あ、え、どういうこと????」
声は抑えつつ、面白いくらい動揺を隠していない。
そりゃそうだろう。僕だって、こんな美少女―タチヤーナさん―と顔見知りになるとは、先週までは思ってもいなかった。
「なん、で……」
弱った声で説明を求めてきた。まあ説明したところでなんだが。
「まあまあ、あとで説明するって。もう授業はじまるぞ」
「あ、本当だ。」
そう言って彼は自分のスマホをちらりと見て、時間をチェックした。この教室の時計は前にないからよくわからなくなる。まったく不便だ。
先生は自身の身に着けているちょっと高そうな腕時計を見つめると、マイクをポンポンっとたたいた
「時間になりましたので、授業のほう始めさせていただきます。――」
90分。
意外と長く感じた。朝イチの授業は眠くなる。
何度かウトウトしてしまったが、そのたびにコーヒーを飲んで眠気をそらす。
昨日買ったペットボトルの残りだけれども、もう空になってしまった。次の授業までにコーヒー買わないと、次の授業が持たない気がする。
しかし、眠くなった理由はそれだけでない。
ほとんど、高校で勉強してきたところだからである。
ついこの前まで一生懸命受験勉強で問題を解いてきた自分にとって、あまりにも簡単だった。K殻、L殻、M殻、…。といった電子配置なんて、基礎の基礎である。
大学の化学って、こんなもんなの?
正直、そう思ってしまった。
「簡単だったな。」そう言おうと小城君のほうを見ると、机からゆっくりと顔を上げながらふわぁとあくびをした。
「すまん寝てた。」
「おいおい…」
そもそも授業を半分聞いていなかったらしい。どうやら快適な睡眠だったようで。
おかしい、僕は眠くても起きてたのに。
「いやー、資料見たらいけるかなーと。」
「あー……、わかるかも。」
「まじ?いけるなら寝ててよかったわ。」
寝ていいわけではないが……。まあ気持ちはわかる。
「てか、2限って何時からだっけ?」
そう言われてふと周りをみてみると、みんな席を立ち、教室から出て行っていた。なんなら、先生はもういない。タチヤーナさんもいない。
「10分後だった気がする…?」
そう言いながらスマホで時間割を確認する。うん、10分後だ。3分くらいだべっていたから、あまり時間がない。といっても、教室は隣だが…
「25分から。あ、でも隣の教室だ。」
「そうだったな。とりあえず急ぐべー」
筆箱とノートを雑にカバンに放り込むと、我々は教室を後にした。
数週間後、寝ていた人と「簡単だ」とたかをくくっていた人が、「sp2混成軌道」でつまずくことになるが……それはまた別の話である。