助けはない ―ソフィー―
「彼女と仲たがいしたの。だから、あなたもエレンにはもう会わないほうがいいと思うわ」
最近、エレンのところに行かないのを問われての返答だった。
返した瞬間、床にたたきつけられた。
遅れて、衝撃が体を襲う。
起き上がることはできなかった。頭を抑えつけられていたから。
ぐりぐりと後頭部を靴で踏まれ、床に埋められていくような感覚を覚える。
「い、痛いわ、レイモンド、やめて!」
当然ながら、やむことはない。
額が割れるように痛い。
今まで彼が表に見える場所に手を出さなかったのは他の人に、特にエレンに気づかれないようにするためだった。その彼がためらいもなく頭を踏みつけてきた。
もう容赦はしないのかもしれない。
これから自分の身に起こるであろうことを想像して恐怖が襲う。
「お願い、やめて、っ……や、やめてください! エレンのこと以外なら、何でも言うことを聞きますから!! どうか、お願いします!!」
悲鳴を懇願に代える。それでも、手加減がされることはなかった。
もしかしたら本当に死んでしまうかもしれない。
心のどこかであれほど望んでいたというのに、いざそれを目の前にすると恐怖と混乱が募った。
そこへ、何の予告もなしに扉が開いて、人が入ってきた。
彼女は新しくやってきたばかりの使用人だった。
先日、街中で荷役労働者による暴動があり、結構な数の使用人が帰宅中に巻き込まれて働けなくなっていた。その代わりに雇われた人。
手にははたきが握られていて、掃除をするつもりだったのが見てわかる。
彼女は目の前の光景に明らかに驚いていた。
私が彼から蹴られている光景に遭遇しても、何も見ていないかのように振舞う無関心な人たちとは違う、まだ、レイモンドに染まっていない人。
もしかしてという期待を込めて彼女を見つめる。
「何をしている。この部屋は使用中だ」
「で、ですが……」
彼女はちらりと私に目をやる。
助けて、動かしにくい口で必死に訴える。黙らせるために彼の足に力が入って、あとはくぐもった呻きにしかならなかった。
彼女の瞳が揺れ、動揺しているのが見て取れた。
レイモンドはそんな彼女を見てため息をつくと、私を置いて衣装棚から何かを取り出した。
蝋燭の明かりにきらりと光っているのは装身具だった。小さな宝石のついた。
それを彼女の手に押し込める。
「君は確か、母親が病気だったね。これで滋養のあるものでも食べさせてやりなさい」
「あの……」
「君は何も見ていない。いいね?」
使用人は手の中の宝石を見つめるとしばしの迷いの後、うなずいた。
そうして、
「失礼いたしました」
何もなかったかのように去っていく。床にはいつくばっている私には見向きもせず。まるで決められた一連の儀式のように誰もかれもが同じ反応だった。
涙で視界がにじみ、扉が完全に閉められる前に先に瞼を閉じた。
ああ、やっぱりこの世界で信じられるのはエレンだけなのね。
私の傷を見て、自分に起こったことのように怒ってくれた。エレンはいつだってそうだった。
初めて会った時、たとえ枝だったとしても彼女に王家よりも尊重されて、まるで自分が物語のお姫様になったように感じた。初めてだった。それまで誰かにとっての特別になったことなどなかったから。
それからは、彼女に会うといつも今から人生が始まるように思えた。今までが悪い夢でやっと目覚めることができたかのように。
この惨めな世界で彼女だけが確かな存在だった。
エレン、会いたい。あなたに会いたい。
でも分かってる。
親切に伸ばしてくれた手を拒絶したのは私の方。言葉もなく立ち尽くす彼女の姿が頭から離れない。
彼女は傷ついた顔をしていた。
あれ以来、彼女からの連絡はすべて無視した。やがて誘いも来なくなった。
離れても耐えられる。そう思っていた。
「俺がいいというまで声は出すなよ」
彼が腰の革ベルトを引き抜き、鞭のように振り上げるのが視界の隅に映る。
風を切る音が私にふってくる。何度も、何度も。
切に願う。
エレン、せめて死ぬ前にもう一度だけあなたに会いたい。