暗い夢に沈む ―ソフィー―
「お帰りなさい、レイモンド。エレンには会えた?」
「ああ。会えたけど、彼女、まだ体調がすぐれないらしくてとっとと帰ったよ」
「それは……残念だったわね」
エレンは帰ったのね。よかった。
安堵したのを悟られたのかもしれない。彼の声が鋭くなる。
「……お前、彼女に何か言ってないだろうな?」
「私が? いいえ、何も言っていないわ」
答えながら目が勝手に彼の手の行方を探る。
拳は握られていないだろうか。振り上げられる予見はないだろうかと。
無意識に身構えてお腹に力を入れてしまう。手が汗ばんで震え始め、鼓動が早くなり、息が浅くしかできなくなる。
あの全てを失った日、弟を抱えてこのお屋敷を訪れた瞬間から彼の婚約者となった今に至るまで、私が気を抜ける瞬間はただの一度もなかった。
侍女、執事、使用人、料理番、馬丁――このお屋敷に仕える全ての人間が彼に忠誠を捧げ、常に私に目を光らせている。私の行状は彼らによって探られ、レイモンドが望めば細大漏らさずすべて報告される。部屋に鍵をかけることは許されず、常に誰かの監視の下にある。
この状態は彼と結婚して私が彼の妻として存在するようになったとしても、生涯変わらないとはっきり言える。そして、彼の元に弟がいる限り、私は決して逃げられない。
いっそのこと死ねたら楽かしら。
何度も考えた。そしていつもこう思う。
私が死んだら、エレンだけは泣いてくれるといいのに。
茶器がテーブルに置かれた音に我に返る。
危なかった。
もし一言でも今のことを口にしていたら、たとえここにいなかったとしてもすぐに彼に届けられ、私はまた折檻を受けていたに決まっている。
冬ではないから、火掻き棒を押し付けられることはないと思う。
それに最近はエレンに近づこうとしていることもあり、念のためあまりあの社交倶楽部には出入りしていないようだから、私に試したくなるような新しい道具も見つけていないはず。
今までの仕打ちを思い出す。
エレンとの時間が楽しくて帰る時間を3分過ぎてしまい、罰として腐ったものを口にするよう命じられたのはいつのことだっただろう。何度も謝って、もう無理だと訴えても口の中につめ込まれ、えづいたのを更に食べさせられ嗤われた。あのあと胃がおかしくなって水も口にできず倒れてしまった。でも思い出せないほど前のことではないから、もうしばらくは行われないと思う。
今すぐとなると壁にかかっている枝鞭か、杖か。法律書で殴られたときはひと月以上、体を屈めることができなかった。
そういえば、しばらく梳き具を見ていないから、そっちもあるのかもしれない。
カーダーの傷は1つ1つは小さいけれど、えぐるように叩きつけられたときが一番つらかった。肉が細かに裂けるから、どうしても治りが遅くなる。
体に押し当てられるほうがまだましだった。ぷつぷつと血がにじんでいくのを、隙間なく判を押すように模様を刻まれていって、しかも彼は途中で飽きたから。
「本当に何も言っていないだろうな」
彼がタイをほどき、床に落とす。それを私は使用人のように拾い、彼の好みの通りに違えることなくたたんだ。上着を受け取り、安楽椅子に座る彼の足元に跪き、丁寧に靴を脱がせる。
「ええ。誰にも何も言っていないわ」
恥ずかしくて惨めで、誰にも言えなかった。誰かに言えば、もっとひどい目に遭わされることも分かっていたから。
それになにより、
「まぁ、いい。君の言うことを信じる人間などいやしないさ」
そう。彼の言う通り。
頭をおかしくして無理心中した家の娘の言うことなど、誰が信じるというの。
彼は社交界では紳士の仮面をかぶっている。もしもの時には口裏を合わせてくれる、同じような趣味のお仲間もいる。
使用人たちも黙っている限りそうそうないほどの給金を受け取れるのだから、口を閉ざし続けることが分かっている。
私はただ落ちていくだけ。今はひたすら、この底知れぬ深い穴の奥底にたどり着くことを願うのみ。
でも、いつだってこれ以上悪いことは起こらないと言い聞かせてきたその上を、彼は笑いながら超えて来た。
「来い」
後頭部を掴まれ、体を引き寄せられる。
強張る唇を割って、ぬめりを帯びたものが侵入してくる。お酒と煙草の匂い、薄汚れた彼の味がする。
乱暴に衣服が引き下ろされ、肌がわずかに開いた窓からの外気にさらされる。命じられるままに足を開く。
私はいつもの呪文を唱えて心を閉ざす。
平気。もう慣れている。
これからしばらくの間、私の心は幼い頃に戻る。
あの、彼女と出会った時の私に。
彼女と出会ってから、私の人生は少しだけ明るくなった。彼女がいるかもしれないと思ったら、お茶会に参加するのも怖くなくなった。
エレンディール・キングストン。
美しくてしなやかで、高潔で、私なんかとは違う正真正銘本物のお嬢様。
彼女は私の宝石。私の光。
心が彼女を求めて叫ぶ。
助けて、エレン――あの時みたいに、私を助けて。