裁判最終日 後編 ―エレン―
「“亡き方を悪く言うのは忍びない”。確かにその通りです。ですが、それならば夫人も同然のはず。そして、思い出してください、原告の傷を! 証言してきた方々の涙を! 昨日までの証拠を! ソフィー嬢が父親の親族に虐待を受けていたとなれば、父親も同じような人間であったと推測されるのではないでしょうか。こちらをご覧ください!」
あたくしはグラスゴーが出した紙束を受け取り、掲げる。彼に集めてもらった陳述書だ。
「こちらは、レイモンド氏のお屋敷で働いていた使用人の証言を集めたものです――いいえ、被告はお立ちにならないで結構ですわ。今の使用人ではありませんもの。もっと、ずっと前の、貴方のお父様がご存命だった時の人たちですわ」
あたくしは書かれている文章を大きく声を張り、読み上げる。
「ここにはこうあります。“命じられたとおりに窓を開けると、書類が1枚落ちた。それだけで肉が裂けるほどに鞭で叩かれ、長い間寝台から起き上がるのさえ苦労した。それを怠慢だと責められ、給金もなく追い出された”――ダンブリッジ卿はこのような人物の血を分けた兄弟、己の妻に剣を振り上げるような人間です。想像してみてください。家にいても心は休まらず、いつその拳が愛する子どもに向くかもしれないと怯え続ける恐怖を。もし、そのような男から夫人が逃げようとしていたのだとしたら?」
言葉が行き渡るようにしばし待つ。そして、
「紳士の恰好ならば装飾品も限られます。耳飾りや首飾りはしていなかったでしょう。たとえば、妃殿下が唯一身に着けていた指輪を万が一のための支度金として――ああ、レイモンド氏なら、一番その気持ちがお分りになるのでは? 確か、実家が貧しい使用人のために装身具を渡したと仰っていましたわね。そうですわ、貧しき者には施しを授ける。貴族の義務。貴族なら、誰でも行うことです。そして全てをいつくしむ我らが偉大なる王家の方であらせられるなら、なおのことでしょう!」
「異議あり!!」
抗議したレイモンドの声には苛立ちが含まれており、言葉も威嚇めいていた。
「憶測にすぎない!! 強引な解釈にもほどがある!! 出鱈目を言うな!!」
「ええ。長々と述べましたが、その全ては憶測にすぎない。証拠はありません。認めます。――ですが、証拠がないのはそちらも同じはず。王弟殿下が夫人と通じていたという証拠はどこにあるのですか? どうか陪審の皆さま、今一度、己の心に問いかけてください。明らかにされた事実のみに目を向けてください。動かせぬ証拠、それは夫人がこの指輪を持っていたというその一点のみです。誰がどのような意図を持って渡したのか、真実を述べることができる方々はもういらっしゃらないのです」
証明する術がないのは互いも同じ。
ならば、この法廷にいる人間を味方につけた方が勝ちなのだ。
残された点と点を憶測の線で繋ぎ、それが相反する2つの出来事として提示されたとき、傷を負わされた少女と沢山の人間を虐げてきた者、どちらの言い分を人は信じるだろうか。
権力とお金、それはこの世で最も力を持つ。しかし、時に物事というのは力だけでは解決しない。その場の空気を支配したものこそが勝つのだ。
あたくしは息つく間もなく陪審員席に向かって続ける。
「確かにアンナ夫人はただ一度、自宅に帰らなかったことがあります。それは原告も認めます」
グラスゴーから次の資料を受け取り、提出する。
「オーガスタ妃殿下がお体の調子を崩された日のことです。城は騒然となり、勤め人は城に留め置かれました。こちらに門を早々に閉じたとの守衛の記録がございます。ちょうど帰ろうとした夫人も同じだったのです。なぜ帰れなかったかとの夫の問い詰めを濁すのも当然のことです。まだ周囲には公にされていない王妃様のご容体をどうして話せましょうか。いかがですか、証人?」
あたくしが答えを求めるように話を振ると、彼女は自らの言葉で正しいのだと添える。
「当然です。話すことは決して許されません」
「夫人はただ侍女として当たり前の務めを、主人への行うべき奉仕をはたしていたに過ぎないのです。何の誹りを受けるいわれもないのに、男子を生み立派に務めを果たしたというのに、疑った夫によりお腹を痛めて産んだ夫の子を不義扱いされる夫人の悔しさを、お集りのご婦人方ならばお分かりになるはずです!」
ひそやかな、けれど確かな賛同の呟きがあちらこちらから落ちる。
証人すらあたくしの言葉にわずかにうつむき拳を握りしめた。
彼女には子どもがいないのは調査済みだ。もし男子が生まれていたら、男子が生まれてもそれを疑われたら、どれ程の屈辱であるか想像したのだろう。
彼女はもともとアンナ夫人に思うところがあったのではない。たんにあたくしを通じて叔母に小さな傷を負わせてやりたかっただけ。娘にも等しい愛おしい存在のオーガスタ妃を裏切る行為で後釜に座った、卑しい女に少しでも、と。
ただ、それだけなのだ。
彼女がもうレイモンドの味方をすることはないだろう。
「それだけを見てください! アンナ夫人は貞淑な妻であり、ただ無体な夫によって命を奪い取られた悲しき女性であるということを!」
あたくしはレイモンドを指さす。
「同じようにソフィー嬢を虐待した、あの冷酷な、被告の血に連なる、非道な夫によって!!!」
言うと同時に大きく動き、ケープマントを劇的に翻らせる。
視覚的効果を馬鹿にしてはいけない。人は時に、暗闇に差す一条の光に、荒れ野に咲く一輪の花に、神を見るからだ。
弁護士は宗教家に似ていると思う。
人は、正義は存在するのだと、正しき神はいつだって我らを見ていらっしゃるのだと信じたい。
そういう人たちのために弁護士もまた証明するのだ。
善が勝ち、悪は果つるのだと。神はいるのだ、と。
まるで一連の事件の、何もかもの犯人がそこにいるかのように法廷中の視線が彼に集まり、レイモンドが気色ばむ。
「ふ、ふざけるな! 貞淑だと?! 伯父を裏切り、うちの家系にクソみたいな汚れた血を加えようとした売女だぞ!!」
レイモンドは爆発したように怒鳴り、その所為で法廷が一瞬にして静まり返った。
「――今、何と仰って?」
あたくしはことさらに声をあげる。
「貴方、“汚れた”と仰ったわね? 確か、弟君に流れているのは王家の血だと主張なさっていましたわ。それを汚れたなどと仰るおつもりですの?! おお、なんて恐ろしいことでしょう!!」
「ち、ちがうっ」
レイモンドが自分の失言に気づき青ざめる。
「この国で最も重い罪を知っていて?」
以前、そう訊ねたとき、ソフィーは首をかしげてこう答えた。
「殺人、でしょう?」
「違うわ、不敬罪よ」
そう。王族に対する名誉棄損はこの国でなによりも重い。現在では半ば形骸化してはいるものの、かつて玉座が血で争われた際、権力の強化と他者の権力の剥奪を目的として重罰化されたままであり、身分を問わず恩赦のない終身刑、最悪は死罪と決まっている。
内内の話し合いの場でなら、この程度は流されレイモンドも罪に問われることはなかっただろう。そもそもが婚外子などという外聞を憚る話なのだ。でも表の場では、誰も聞かなかったことにはできない。
小心者で用心深いレイモンドのことだ。こちらから誘導すれば、警戒して口を堅くすることは分かっていた。
だから、彼からこの問題を始めるよう、誘った。
ソフィーの裁判自体がこの瞬間のためだった。
今までの証言も尋問も何もかもが、この男に、サロンや屋敷などではなく公の場で言い逃れのできない罪を犯させるための。
あたくしには斬れないものを国という拳で叩き潰してもらうために。
すでにこの男の名誉は地に落ちている。
それでも少女を虐げた程度では後見人の解除と賠償金で終わってしまうことは分かっている。社会正義は時に権力に屈するから。
あたくしが被害に遭っているわけではなく、あくまでもこの法廷はソフィーとレイモンドのものだった。ソフィーとこの男なら男の方がどうしても上回ってしまう。
だからこそ、引きずり出さねばならない。誰もが膝を折るしかない人物を。
散々寝台の上で聞いていた。当時はそれがソフィーの家族のことだとは分からなかっただけで、彼がどれほど自分たちの血に誇りを持ち、そこに持ち込まれたダンブリッジとは異なる血を疎み、こき下ろしていたか覚えている。
“彼の中には他人にはわからない物事の境界線があって、わずかでもそれをかすめると不満を行動に表さずにはいられないの”
ソフィーの言葉だ。
あたくしも今なら分かる。彼は自分は欺瞞だらけの癖に、他人の嘘やごまかしを許せない。矜持の高さゆえに屈辱に黙っていられないのだ。
だから、追い詰めればいつか踏み外すと思っていた。ソフィーの弟の後見人として王室に繋がろうとするその魂胆に敬意など微塵もあろうはずがない。
彼が失言を認めれば不敬罪に当たり、失言ではないと言いはればソフィーたちを利用して王家を騙ろうとしたことになる。どちらにしろ、レイモンドはもう終わりだ。
この裁判を何人が傍聴していることか。彼の不恭を喜んで大勢の人間が証言してくれることだろう。おそらく、目の前の元侍女長も証人になってくれるはず。
残る一生を冷たく湿った檻の中で過ごすのか、呼吸をすることもかなわなくなるのか、どちらになるかは分からないけれど、次の裁判が終わったとき2度と陽の目を見ることはない事だけは断言できる。
ソフィーを守り、ソフィーのために夫人の名誉を守り、証言してくれた人たちのために、そしてこれ以上被害を出さないために、レイモンドを社会的に抹殺する。目的は果たせた。
あたくしは告げる。
「質問は、以上です」