第二楽章
細く息を吐き出す表情は、憂いを帯びている。
長い睫毛が陰影を落とす整った顔は、普段よりも少しばかり冴えなかった。
けれどその常には見られない少々の陰りが、美貌を際立たせてもいる。
「お姉様…」
その姿を、物陰からそっと、心配そうに見守るいくつかの人影。
「お疲れのご様子ですけど…どうなされたのでしょう…?」
「おいたわしい…早く元気になられるとよいのだけれど…」
ひそひそと囁き合う彼女達は、実は彼の麗人の親衛隊幹部であった。
「…わたくしの思い過しでしょうか…」
ひとりがぽつりと呟いた言に、皆の注意が向いた。
一気に視線を向けられた少女は、躊躇いがちに述べた。
「…もしかしてお姉様、恋をしていらっしゃるのでは…」
乙女達はざわついた。
「そんな…!」
「まあ、わたくしのお姉様が、そのような…!」
「貴女、何を仰っているの!? お姉様は貴女のものではなくってよ!」
「…お姉様が…まあ…」
「ちょっと貴女、しっかりなさって!」
「誰か、SPを…!」
乙女達がきゃあきゃあと騒ぐ中、くらりと意識を失った一人は、駆け付けたSPの人々によって運ばれていった。
衝撃のあまり倒れた少女を心配する言葉を折り混ぜながらも、乙女達の関心はやはり麗しの姫君に戻っていく。
「大丈夫かしら…」
「きっと、お姉様のことがあまりにショックでしたのね」
「わかりますわ、そのお気持ち…」
「ところで、お姉様のことですけれど…」
「最近、ますますお綺麗になられた気が…」
「そういえば…」
「お相手はどこの御方かしら…」
「どなたかが抜け駆けを…?」
「いいえ、親衛隊の規則は皆様ご存じのはず…」
「…まさか、霧崎様…?」
「なんてこと…」
「でも皆さん、お姉様が恋をなさっているなら、応援してさしあげなくては…」
最後の一人の台詞に、動揺しながらも皆頷いた。
そうして、悔し涙にハンカチを濡らしながら、一同で愛しの君を見守り続ける。
陰ながら応援させて頂きます、と各々心の中で誓い合った。
――同時に、相手が彼女達の姫を手荒く扱ったならば、決して許しはしないと決めながら。
彼女達は完全に、相手は同じ学校の者だと認識していた。
……香月は女子校、なのだけれど……。
†月と太陽の狂騒曲†
~The second movement~
「………」
ほう、と宮城浹は息を吐いた。
憂える様もまた麗しいと、その姿を幾人もに見られて逆に感嘆されているとはつゆ知らず、物思いに沈む。
思い描くのは、あの日のこと。
ある朝、いつも通りに学校へ行こうと支度をしていた所、兄がやって来て彼女を呼んだのがすべての発端だった。
「――浹…」
ひどく具合が悪そうな顔色で名前を呼んでくる兄に、慌てて近寄る。
「昴…!どうなさったんですか、何か病気にでも…」
「ん、風邪引いたらしい…」
兄の言葉に、浹は目を見開いた。
「珍しいですね…私は何ともありませんけど…」
不思議なことに、彼らは病気にかかる時はいつも、まるでタイミングを計ったかのように共に寝込むのだった。双子の神秘だろうか。
そうそう病気になったことは無いけれど、数える程の病の体験はいつも、二人一緒。
だから、兄がひとり風邪を引いたということが、浹にはかなりの衝撃だった。
その驚きが冷めやらぬ内に、昴は更に驚愕すべきことを言う。
大丈夫ですか、と問い掛けた妹に、
「いや、ちょっときつい…」
本当に怠そうなので、浹は心配げに昴を見つめた。
「病院に行った方が…それとも、お医者様をお呼びしましょうか…?」
「いや、いい。…学校に行く」
浹は目を剥いた。
こんなに体調が悪そうなのに、一体何を言っているのだ。
「昴、何を…!」
「で、いつもは自分で行ってるけど、今日は浹の車に乗せてもらって一緒に行こうと言いにきたんだが…」
「駄目ですよ…!車で一緒に行く位何でもないですけど、昴は病気なんですから、寝てないと…」
「でも今日、出ないと単位が危うい授業が…」
「そんなもの…!」
一途に心配する妹を見ながら、兄は腹の中である企みを抱いていた。
彼が密かに笑っていることに、忠実な妹は気付かない。
「行かなきゃいけないんだ…」
「昴、お願いですから安静にしていてください。学校には、私がれん、」
連絡をしておきますから、と言うつもりが。
「…え、代わりに行ってくれるのか?」
「…はい?」
目を点にする浹に、昴は嬉しそうに言った。
「そうか、浹が代わりに授業に出てくれるなら、単位も大丈夫だし問題無いな。お前の学校の方は休むことになるのが少し悪いとは思うけど…」
「す、昴?」
「え?行ってくれるんだろ?…それとも」
明るい笑顔が曇った。
「やっぱり気が変わったのか…?」
「…っ」
捨てられた子犬のような目で寂しそうに昴が呟く。
妹は、兄のこの表情に弱かった……。
「い、いいえ。私にできることならなんでも…」
つい、そう答えてしまったのが運の尽き。
いつもは瞬時に回転する頭が回っていないまま返事をしてしまった為に、あらよあらよという間に、ウィッグを被せられ、昴の制服を着せられ、眼鏡を渡された。
いつも眼鏡を掛け、長めの前髪で隠して俯きがちにしているから、顔を見られる心配は無い。十センチも違わないから、身長は底の高い靴を履いていけばいいし――不思議なことに、ズボンさえ履いていれば厚底とはわかり辛い靴、所謂シークレットブーツ的なものが何故か家にあり、教室も靴で入って大丈夫だと言われた――体型もあまり変わらないから、口数少なく寡黙にしていれば、相手が誰か区別できなくともばれることは無い、と兄は断言した。
ただ話す時、口調は真似るように、だそうだ。
授業は午前中だけでいいから、と今一納得いかないまま送り出された浹は、他にどうしようもなく、兄の学校へと向かったのだった。
そこでは全く疑われなかった。
兄が人に埋もれるように過ごしていたためだろう。
どうして目立たないようにしているのかと尋ねると、人に過度に期待されるのが煩わしいから、とのこと。
いかにも面倒臭がりの兄が考えそうなことだ。
少し考えれば、彼女を自分に仕立て上げる際、あれほどてきぱきと動いていたのだから、嘘をついていることにも気付きそうなものだったが、余程昴のことがショックだったのだろう。
結果的に兄の病気は仮病だったとわかり、浹は少し腹を立てたのだが。
――彼女は人生最大の困惑に襲われていたので、すぐに苛立ちはおさまったのである。
兄の友人、都築和葉に対して、これまで感じたことのない、不可解な感情を抱いていたから――。
「……浹」
ちいさな、けれど澄んだ声が耳に届いた。
名を呼ばれて顔をあげると、そこには見慣れた姿がある。
「…礼芽…」
淡い栗色の長い髪が、ふわふわと背中に掛かっていた。
浹を見つめる瞳は琥珀色で、静かな光を湛えている。
「…どうかした?」
美しい顔立ちの少女だが、表情に乏しいせいか、近寄りがたい雰囲気があった。
その為によく敬遠されがちな彼女だが、裏での人気は高い。
浹に問い掛ける顔もまた、色が無かった。
けれど、彼女と付き合いの長い浹は、その目に心配そうな翳りがあるのを見つける。
「い、いいえ…礼芽が心配するようなことは…」
「…私、信頼無い?」
「そんなことは――」
「じゃあ話して」
真っすぐな視線に射られて、浹は降参した。
「…わかりました。取り敢えず、場所を変えませんか…?」
「…ん。なら、私の家に来るといい」
こくんと頷いて言う友人に、浹は少し目を見張った。
「でも、授業が――」
「いい。たまには休んでも罰はあたらない」
「……わかりました」
この間も休んでしまったがいいか、と諦め。
先程からこの言葉しか口にしていないと思いつつ、浹は友人に従ったのだった。
都内の一等地にそびえ立つ、白亜の洋館。
その一室に、二人の少女は居た。
円形の優美なテーブルを挟んで、猫足のソファに向かい合って腰掛けた姿で、陶器のカップに注がれた香り立つ紅茶を口に運ぶのは、栗色の髪の少女――霧崎礼芽。
浹は、琥珀色の液体の表面を、じっと見つめていた。
たった今、前日の出来事を話したばかりだった。
すると友人は何も言わず、無言で紅茶に口をつけたのだ。
不機嫌そうな雰囲気が伝わってくる。
カチャリ、とカップをソーサーに置く音を聞いて、浹は顔を上げた。
「…つまり」
温度の無い声音が耳朶を打つ。
「…昴のせいで、そんな奇妙な状況が出来上がったと」
浹ははっと気付いた。
兄と友人が、険悪ではないが仲が良いわけではないということを、すっかり忘れていたのだ――。
「あ、あの、礼芽…」
「――わかった」
「え?」
「昴が蒔いた種だ、あいつに解決させる」
「でも、礼芽――」
「……浹は心配しなくていい」
「あや、」
止めようと口を開いたが、透明で澄んだ友の瞳を見て、言葉が喉の奥で留まって出なくなった。
「………」
黙り込んだ浹に、礼芽の眼差しが和らぐ。
「…喧嘩はしない、大丈夫」
そう言って、再び礼芽は紅茶を飲んだ。
友人と兄に一抹の不安を覚えながらも、浹は漸く紅茶に手を伸ばしたのだった。