(5)
開校以来の伝統行事たるこの競技は、年に一度の、両校の誇りをかけた聖戦、とも言える。
同じ時刻に、両校の生徒会長が壇上に上がった。
そうして、白線の前で構える生徒と、彼ら彼女らを応援し、期待の目で見守る人々へ激励の言葉を贈る。
今回は香月が勝てるよう祈っていますと告げた『月姫』に対し、連覇を達成しようと鼓舞する『陽王』――灯陽の生徒会長――そのどちらにも互いの生徒達は奮起し、盛り上がりを見せた。
そして鳴らされる、スタートの合図。
選手達が走り出した。
同時に、数多くの生徒達が何故か同じくスタート地点に並び、爛々と目を輝かせている。あたかも獲物を狩る獣のように。
そう、緋桜祭・蒼牙祭における合同対抗競技、『借り物競走』は、別名を『狩り者競争』――鬼ごっこ、とも言う。
両校から選出される選手は、各学年の各クラスから一名ずつ。十クラスずつあるので、三十人だ。
互いの学校に潜入する際、大半の生徒達は、自校に侵入してきた相手校の生徒を捕獲することができる。妨害工作である。
流石に男女では体力や力の違いを考慮して、生徒会役員と体育祭実行委員以外の、香月では全校生徒の三分の二、灯陽では三分の一が鬼として参加できることになっていた。
借り物競走には一時間の時間制限がある。その間は借りるものを両校の出口に設置されている審査場まで持ち込まない限り、相手校から出てはいけないことになっている為、選手達は借りるものを探しつつ、鬼から逃げ回らなくてはならない。しかも、鬼は選手を捕まえた人数分だけ点数が入るので、鬼達も必死になって選手を探すのだから大変だ。
校内の大半がその鬼ごっこの舞台であり、審査場のある正門近くの半径十メートルは鬼が捕まえることのできない安全区域となっているが、借りる物を得たとしてもそのセーフティ・ゾーンまで辿り着く前に鬼に捕まればアウトである。
狩る時に相手に怪我をさせてはいけないという決まりもあり、万が一の何か不祥事があってはいけないからと、不測の事態にも備えて、各々の学校で体育祭実行委員も警備として見回りをしているから、今までに問題が起こったことはないが。
かなり厳しい競技であるので、参加したがる人間は少ない。だが必ずクラスで一人は生贄が必要なので、和葉のクラスでは皆がほっとしたものだった。
「……行ったか…」
選手たちがスタートし、各々の借り物が書かれたくじを引いて相手校へ向かってから五分後、鬼達もまた狩りを開始した。
くじに書かれていた内容に動揺しつつ、いきなり鬼に見つかりそうになって、慌てて木の上に隠れていた和葉は、香月の女生徒達が下を走り去っていくのを見送って、ほっと安堵の息を吐いた。
次いで、自分のくじを見て頭を抱える。借りる物は必ず相手の学校に存在するものに限られているのだが、それを見つけるのもまた一苦労なのだ。まるで宝探しである。和葉が引いたのは――何と驚くべきことに、『灯陽の校章が入ったハンカチ』だったのだ。
つくづく運が良いのか悪いのか。
他の一般生徒には、相手校で自校の校章が入ったハンカチなんてどうやって見つけるのかと困らせる内容だろうが、和葉はこの借り物の在り処がもうわかっている。まさか昴の陰謀かとちらりと考えたが、流石にそこまで出来ないだろう、と自身の考えを打ち消した。
問題は。
「……うじゃうじゃいるのに、どうやって屋上まで行けば…」
はー、と溜息をつきかけて、ふと、右手に持った袋の存在を思い出した。
事前に認可を得ていれば、危険物等以外ならば少々の道具の持ちこみは許可されている。和葉は何も準備していなかったが、校舎を出る際に、昴に「差し入れだ」とさして大きくはない布袋を渡されたのだった。
何なのだろう、と開けて見てみれば。
「………げえ……」
心底嫌そうな声だった。
「………」
「おや、星華の君。俺に何か用?」
にやにやと人を食ったような笑みを浮かべる天敵を睨みつけるようにして、礼芽は無言で応えた。わかっているくせに聞くな、と言いたげな顔で。
昴は軽く笑う。
「なーんてな。コイツが目当てだろ?」
所謂、瓶底眼鏡――漫画等で良く見るようなぐるぐる渦巻きのそれではないものの、厚いレンズに太い黒のフレームのデザイン性皆無な眼鏡。
生徒会役員や体育祭実行委員でも、時にはクラスでこの競技に出場しなければならない。生徒会長だけは参加することができないのだが、毎年一人は生徒会からも選手として借り物競走には出場していた。今年は運の悪いことに、霧崎礼芽はそれにあたってしまったのだった。
実は彼女は、くじ運が無い。
『瓶底眼鏡』とでかでかと書かれた紙を握り潰して、思わず投げ捨てそうになったのは、今時瓶底と呼ばれるような眼鏡を掛けている人物が、目の前の人間しか思い至らなかったからである。例え度が入っていなくても、瓶底は瓶底。
そこは灯陽の校舎の一角で、たまたま他に人はいなかった。が、昴は鬼の一人でもあるので、礼芽を捕まえようと思えば捕まえられる。
しかし彼は、彼女を捕まえようという気は毛頭ないらしい。
「貸してもいいけど? ――ただし」
眼鏡を外し、浹とよく似た顔で、悪戯っ子のように昴は笑う。
「ひとつ、今度手伝ってもらいたいことがあるんだけどね」
楽しそうに言われて、礼芽は無表情だった顔の眉間に皺を刻んだ。
「……誰も疑わないのも、どうかと思う」
ぼそりと小さな声でぼやきつつ、和葉は香月の校舎内をてくてく歩いていた。
彼が歩いているのを、香月の生徒達は目で追いつつも、追いかけはしない。あんな可愛い人いたかしら、という呟きを聞いた時は死にたくなった。
そう、昴から貰ったのは灯陽のジャージと色違いのそれ、香月の白い体操着だった。プラス、いつぞや被った覚えのあるかつら。
――何故今日は二度も女装せねばならぬのかと憤慨したが、背に腹はかえられない。
貴重品はまとめて管理され、大事なものや機械等がある部屋には施錠がされているが、それ以外の教室等は探し物をしたり隠れ場所にしてよいことになっている。
どこかに仲間が隠れているのだろうか、もう何人も捕まってしまったか――見られる度に冷や汗をかきつつ、平静を装って和葉は香月を歩いていく。
屋上に向かう際は、人の目がないか、とても目を配った。こんな時に普段行かない場所へ向かっているのが見られれば、変装している敵ですと言っているようなものだ。
「…ちょっとあなた」
突然声を掛けられると共に肩をぽんと叩かれて、和葉は飛びあがった。
「は、はい!」
振り返った先にいたのは、一人の女子生徒だった。もしやばれたのかと血の気が引く思いで見れば、相手は不思議そうにこう告げた。
「あちらの方は灯陽生は誰も見当たらなかったわよ。もしかして、忘れ物でも?」
「は、い。実は……」
「腕章かしら? 早く皆と合流しないと駄目よ。一人ではもし灯陽生と遭遇しても対処しづらいでしょうから。私ももう行くから、急いで忘れ物を取ってくるようにね」
「はい……」
そう言うと、女子生徒は笑顔で手を振って去っていった。
二年か三年なのだろう。どう考えても下級生に対する扱いだったので、自分は一年生と思われているに違いない。
男とばれなくてよかったが、和葉の心中は物凄く複雑だった。
「…どうせ、女顔で童顔だよ…」
彼は私服で中学生と間違われたことが何度もあった。
外見は結構コンプレックスである。宝の持ち腐れと身内は言うが、男らしさに憧れるのは年頃の少年として仕方ないだろう。
先程よりも肩を落として、とぼとぼと屋上へ向かった。
もしかしたら回収されているのでは、とひやひやしたが、あの日彼が括りつけた位置にハンカチは結びつけられたまま。
浹は回収しなかったようだ。ほっとした。
結び目を解いて、ハンカチを手にした所で、ふと灯陽の屋上に目が行った。
誰かいる。
目を凝らせば、人影が二つあるのが見えた。
何やら言い合いをしているようにも見えるが、確か一人は灯陽の生徒会のメンバーではなかっただろうか……。
相手は見覚えがない。二人で屋上の見回りに来て、何か口論になったのかな、と思いつつ、灯陽では皆が喧嘩しながらも仲が良いので、特に気にもせずに、和葉はその場を去ることにした。
ふと、ポケットに手を突っ込むと、何か入っていることに気付く。
取り出したものは、白い布に金色の糸で「KATSUKI」と刺繍が施された腕章と、数字が書かれた小さなメモ、そして一本の鍵。
先程出会った女子生徒が腕章が何とか言っていたが、これのことか。そう言えば、すっかり忘れていたが、灯陽でも鬼役は腕章を腕につけている。あちらは「TOUYOU」と刺繍された黒字に銀の腕章だが。
今までつけてなくてよくばれなかったなーと思いつつ――それ程彼が少女にしか見えないという証でもある――、今更ながら腕章を装着する。
メモの数字はこの間とは違うが、フェンスの鍵の番号だろう。定期的に変更しているようだ。
階段を駆け下り、辺りの様子を伺いながらドアから出る。
ジャージをまた着替えなければ戻れない。
荷物は先程登った木の上に置いてきたので、そこまで戻るのに非常に気を遣った。
自分のジャージに手を通すと、やっと人心地つく。制服でないだけましだが、女装はやっぱり気が重かったのだ。
かつらを外して、袋の中にジャージと共に突っ込む。
順調にこのまま正門まで行けるだろうか、と辺りを伺いながら木から下りた所――死角となっていた建物の陰から、香月の生徒が数人やってきた。
両者、一瞬固まる。
「ひ、標的はっけーん!!」
元気よく叫んだのは、少々背の低い、茶色の髪を左右で結んだ少女。
「浹様のためにも、捕まえるぞー!」
突進するように少女が走り出すと、他の生徒達も駆け出した。
まずい、と和葉も全力で逃走する。流石にそうそう物事はうまくいかないらしい。最後の最後でこれだ。
浹のため、と言っているからには、恐らく噂の親衛隊の人間なのだろう。
彼女達は心酔している浹にこの競技の勝利を捧げようと必死だと聞いた覚えがある。
向こうは死に物狂いとも言える勢いだ。こちらも死ぬ気で逃げなければ危うい。
俊足と言われていようと、乙女たちのパワーを振り切るには徒競争以上の気力が要った。
しかも、何と正門付近では当然のように別の女子生徒の集団が待ち構えている。
囲まれる、と焦った和葉は、思い切って跳躍すると、手近にあった木の枝にぶら下がり、その勢いのままぐるりと回って木の上に飛び乗った。
そして、隣接した塀に飛び移ると、そのまま道路にジャンプする。
軽い足音を立てて着陸した後、和葉は一目散に審査場へ駆け込んだ。
唖然として一連の様子を見ていた少女達は、嘘のようなその光景から、思わず呟いたのだった。
「……猿…?」
和葉は審査も通り、大きな得点を上げることとなったが、後日、『障害物競争で猿のような小柄な少年がいた』という香月の噂を耳にして、「猿じゃねえ!」とご立腹することになる。
体育祭が、終わらない…。汗
久しぶりですみません…!