(2)
「――浹様、お客様です」
生徒会役員の一人のその呼びかけに、浹は書類に判を押していた手を止めた。
多忙な浹に代わり、副会長によってきっちりとまとめられてはいるものの、どうしても生徒会長にしか処理が許されていない仕事がこの所溜まっていたので、少しばかり空き時間ができていた今、盛り上がりを見せる競技を本部席から観戦しつつ本来の業務をこなしていた所だったのだ。
「どちら様かしら?」
振り返った彼女の目に映ったのは、小さなレディだった。
「ごきげんよう、あまねお姉さま」
見た目五歳程の幼い少女は、しかしきっちりと優雅な挨拶を取って見せた。
「まあ…凪月さん」
その少女の名は、桜路凪月と言った。
さらさらと背に流れるような黒髪に珀色の大きな瞳の、将来をとても楽しみにできる実に整った顔立ちをしている。
にこっと微笑んだ凪月は、とことこと浹の元までやってくると、一通の封筒を差し出した。
何かしら、と首を傾げる浹に、凪月は悪戯っぽく微笑み、見てのお楽しみと答える。
「おひとりでごらんになってね、私からのおくりものです」と楽しげに語ると、お姉さまの演舞、楽しみにしてますとだけ言い置いて、あっと言う間に観覧席の方へ行ってしまった。
あの少女とは、家族ぐるみで仲が良い。香月は同じ系列で少し離れた地に幼稚舎も経営している。あの幼い少女は裕福な家の子どもで、その幼稚舎に通っているために、割合簡単に緋桜祭の招待券を手に入れることができたのだろう。
来ているとは知らなかった。
期待されるのは何だかくすぐったい、そう思いながら、役員がいない隙を見て、封を切り――中から出てきた数枚の写真に、目を見張った。
『どうだ、惚れ直したか?』と茶化すようなメモ書きが添えてある。見間違えようもなく、その字は双子の兄のものだった。
どうやら凪月はあの兄から招待券を得て、代わりにメッセンジャーの真似ごとをさせられたらしい。
灯陽の競技の様子は、とある事情から逐一こちらまで入ってくるようになっている。
つい三十分程前の出来事だったはずだが――。
「あの人は何やってるんですか……」
三枚の写真は全て、一人の人物に焦点が当てられている。
聞いていた、最初の競技で運動部と張り合い、一人の運動部員と同着で一位を取ったのだと。
ゴールテープを切った瞬間の零れるような笑顔、仲間にいじられ拗ねたようにしている顔、おそらくカメラに気付いたのだろう、こちらを向いて、怒っている表情。
そのどれも、映っているのは、彼女が初めて恋をした相手……都築和葉だった。
ある意味隠し撮りということはわかっているけれど、後ろめたさを感じつつ、つい浹はそれを宝物にしようと決めてしまった。
(ごめんなさい、和葉さん。もう二度とこんなことしないように言っておきますから……)
好きな人の写真を一枚くらい、欲しかったのだ。
本来ならば処分してしかるべきだろうが、昴は浹にそんなことができないと踏んでの行動だったに違いない。
家に帰ったらしっかりお灸を据えておかなければ、と浹は兄への仕返しを誓ったのだった。
「……昴兄」
まだ変声期前の少年の声。
口元に笑みを浮かべながら振り向いた昴は、予想通りの人物を認めて軽く手をあげた。
「お疲れ、匠。首尾は上々かな?」
「……凪月はもう届けた」
そう言いながら、小学生低学年位のその少年は、呆れを滲ませた声で昴に言う。
「……あんまりいじると、また霧咲さんに怒られるよ」
「大丈夫大丈夫。浹の嫌がることはしてないだろ?」
「……浹姉も可哀そうに…」
はあ、と嘆息する少年の名は桜路匠といい、浹に昴からの手紙を渡した少女の兄だ。こちらもまた、まっすぐな黒髪に黒い瞳と非常に整った顔立ちをしている。周りの女子が放っておかないだろう。ちなみに彼は小学三年生、家の方針で近くの公立小学校に通っている。
やれやれと言いたげな態度で、昴の手に何かを渡す。
それを見て笑うと、昴は礼を述べて匠を解放した。
そしてその後、嬉々として和葉に近づくと、こう囁いたのだった。
三種目以上一位を取ったら、いいものをやるよ、と――。
それにつられたわけではないが、続く二つの競技でも一位に輝いてしまった和葉は、にやにや笑う昴から、嫌な予感を感じつつも、一通の封筒をもらう。
そして、少女のように可愛らしい顔立ちの少年は、中を改めた瞬間、真っ赤になってその場から走り去ったのだった。
中身が何であったかは、言うまでもない。