僕らだけの夏をつくろう
朝。
いつまでもベッドのなかでぐだぐだしていると、階段をかつかつ駆け上がる足音が聞こえた。母親の足音は、いつもせかせかしている。
「弘樹。電話が来てるわよ。倉持さんていう女の子」
母親は、両腕に洗濯物をできる限りめいっぱい抱えている。
「ああ。ありがとう」
ぼけっとする頭のまま、上体を起こし、伸びをする。
「ねえ、あなた、本当に勉強しなくても大丈夫なのよね?」
母親は心配というよりも、憤りに似た声を出した。
「大丈夫だよ。どうして?」
「だって、他のお母さんたちと話していると、やっぱりみんな夏期講習に行ってるみたいだし。それに、あなたのこと少し話したら、そのままじゃまずいんじゃないのかって、みんなに口を揃えて言われてしまうし」
小さくため息をつきながら、でもあなたは大丈夫よね、と母親は付け足した。
大丈夫よね、というのは、つまり、僕にいい高校や大学に行ってほしいし、お堅い弁護士になってほしいということである。期待通りに育ってくれるわよね、と。
「大丈夫だよ。いままでだってずっと、母さんの理想でいただろう?」
僕がそういうと、
「そうよね。弘樹は良い子だもんね。お母さんは信じてるからね」
と、母親は大きな洗濯物をもう一度抱え直して、僕の部屋から出ていった。
信じている。
さっき言われた母親の言葉の意味を考える。
信じている。一体僕のなにを信じているのだろう。
僕は母親が思っているような、良い子ではない気がする。
良い子。
母親のいう良い子の定義が、僕にはよくわからない。
パジャマのままリビングまで足を運び、電話台の上に無造作に放られた受話器を手に持った。夏の日差しはうるさいくらい、部屋中を明るく照らしている。
「もしもし? さっちゃん。どうしたの?」
「ヒーロー、夏休み初っ端から申し訳ないんだけど、あたしとしたことが熱出ちゃったのよ。久しぶりに風邪ひくと、こんなに辛いんだってことを痛感してるわ。で、あなたも青も暇なんだろうし、あたしが治るまで、青と2人で夏を楽しんでくれない?」
電話越しで咳き込んでいるさっちゃんは、確かに具合が悪そうだった。声に張りがないし、かすれている。必死で話している感じがした。
「わかった。ゆっくり休んで早く元気になってね」
「ありがとう。あたしがいなくても楽しくできそう?」
「さっちゃんがいないと、楽しさ半減するかもしれないな・・・・・・」
「なかなか口が上手くなってきたわね。さすがヒーロー」
よくわからないが、僕が気を利かせたおかげで、さっちゃんは嬉しそうな声をしていた。
受話器を置き、青に電話をかける。
青に電話して少し話したあと、とりあえず昼過ぎに校門前で落ち合おうということになった。
夏休み2日目の予定は、隣町までラムネを飲みにいくためのチャリの旅だったが、僕と青は早速時間を持て余すことになった。
***
約束通り、昼過ぎに待ち合わせの校門前に向かうと、青はもうすでに到着していた。昨日と同じような服装で、ブルーのジーンズに白いTシャツを着ている。
校門の垣根に植えられた木々の日陰の下で、ひっそりと僕を待っていた。
「あおー!」
青の姿を見つけるなり、僕は陽気に声かける。
青は、俯いていた視線を移し、僕を見ると手を上げて微笑んだ。
「ヒーロー! 遅いぞ!」
「え? でも、僕なりには結構早めに来たんだけどなあ」
腕時計を見ると、正午を指していた。
「とにかく遅れたことには変わりない。俺の方が2分早かったんだから」
と、青はいい、それにしても、と僕を見ながら複雑そうな声を出した。
「なんで、お前の服装はそんなに堅苦しいんだ? もっとおじさんになってからでもできるだろ?」
「そんなに堅苦しいかな?」
今日は、淡いブルーのシャツに、リネン素材の黒のズボン、それに革靴だった。
「とにかく学校以外で革靴なんて履くな。俺を見習え」
そう言って、ほら! と見せられた青の足元は履き古した白いコンバースだった。
「足元くらい楽に生きろ!」
「・・・・・・・なんかよくわからないけど、見習うよ」
相変わらず変わらない夏の暑さに、襟元をゆるめながら宙を仰ぐ。
夏の空が一面に広がっている。青空のキャンバスに入道雲がにょきにょきと白を描く。
***
青と相談した結果、僕たちはさっちゃんの家に見舞いに行くことにした。
あらかじめ訪ねても平気かどうか、電話を入れるとさっちゃんは大喜びして、住所を教えてくれた。
コンビニで、青も僕も大好物のガリガリくんを1人2本の計算で6本買った。青いわく、ガリガリくんは熱を下げる効果があると言っているが、話半分に聞いておいた。
さっちゃんの家に着くと、僕たちは顔を見合わせた。
「この住所で合ってるよな?」
青は言い、目の前の三階建ての立派ーーすぎるくらいのーーな家を、ぽかんとした顔で見上げている。
表札には間違いなく「倉持」と、さっちゃんの苗字が刻印されてあるので、間違いはない。
この町には不似合いなくらいオープンで洒落た家だった。前庭から覗き込むと、緑の芝生が青々と茂っていた。白いレンガ造りの家で、広くて大きな窓が正面にあり、カーテンを引いていないため、リビングが簡単に覗けてしまう。でっかいゴールデンレトリバーが、舌をだらしなく垂らしこちらを見ている。
いつかテレビで見たことのある、海外セレブがこだわって建てた家、といった感じに似ている。
僕らはそわそわしながら、インターホンを押した。
「早いわね! いらっしゃい!」
朝よりだいぶ元気になっているさっちゃんの声をインターフォン越しに聞いて、とりあえず安心した。さっちゃんは、パジャマ姿のまま玄関から顔を出して、僕らを自室まで誘った。
途中、リビングにいた、さっちゃんのお父さんに声をかけた。さっちゃんのお父さんは床をせっせと雑巾がけしていた。
「お邪魔します」
と、僕たちが挨拶すると、さっちゃんのお父さんは、顔を上げてにっこり微笑んだ。
真っ白な歯が印象的な人だった。肩より下まで伸ばした茶髪に緩いパーマを当てている。大きなハイビスカスがプリントされたシャツと、コットン素材の白い半ズボンを履いている。
少し強面だが、「後でウェルカムドリンクを持って行くね」と、とても気さくでほっとした。
さっちゃんの部屋は二階にあった。
ドアを開けると、ものすごく広くて、僕と青は顔を見合わせた。
部屋が広いのはもちろん、インテリアが独特なのにも驚いた。
四方八方に、どこかの民族のものなのか、よくわからない毒々しい色をした壺やオーナメントがたくさん置いてある。窓際には二箇所、小皿に塩が盛られてあるし、木製でできた人形がベッドの脇で不気味な存在感を放っている。
ベッドサイドのチェストには、いろんなさっちゃんの写真があった。
僕たちがまだ出会う前のさっちゃん。象にまたがっていたり、民族衣装を身にまとい得意気にポーズをとったり、そのどれもが日本で撮ったものではなかった。
部屋のど真ん中にあるベッドの脇で、僕たちは小さなテーブルを囲んで座った。
「さっちゃん、これ、見舞いの品」
青がガリガリくんの入った袋を手渡すと、さっちゃんはものすごく喜んでくれた。
「あたしのために、6本も買ってきてくれたのね! すごいわ! 太っ腹! さすがあたしのボーイフレンド!!」
その言葉に青はぎょっとした顔をして、僕を見た。その瞳は、全部がさっちゃんのものではないと代わりにうまく言ってくれ! と訴えている。
「さっちゃん、これはみんなで食べるために買ってきたんだよ」
僕がいうと、
「そんなのわかってるわ。ジョークよ」
と、さっちゃんにあっさり返されてしまった。
「さっちゃん、体調はどう?」
青が心配そうにしていた。
「とりあえず大丈夫よ。夏風邪は長引くっていうから、気をつけないと」
さっちゃんは、おでこに冷えピタを貼っていた。頬はいつもより紅潮している。やっぱりどこか、しんどそう。
「ガリガリくん食べる?」
「食べる」
僕たち3人はガリガリくんを食べた。ソーダ味。夏の味。
「私ね、自分がその時に欲するものを食べるようにしてるの」
ガリガリくんを含んだ口でさっちゃんは言った。
「たとえば夜中にラーメンが食べたいと思ったら、迷わず食べるの」
「へえ。女の子って太っちゃうとか心配するんだと思ってた」
青は少しだけ驚いた顔をしている。
「たしかに。女の子はそういうの、気にしそう」
僕はぼけっとしながらガリガリくんを食べている。
「いまはなにが食べたいの?」
青が訊くと、
「ちょうどガリガリくんを欲してたのよ。だから、グッドタイミングだったわ」
と、さっちゃんはまたあの笑みを浮かべた。もうその、にんまりと不気味に感じていたはずの笑みにも慣れた。というよりも、それがないと、さっちゃんじゃない。
***
さっちゃんのお父さんが、ウェルカムドリンクという名のレモネードを人数分運んできてくれた。
盆に乗っているそれを、手渡されるなり、思わずうっとりして眺めた。
重いグラスになみなみ注がれたレモネード。炭酸が弾ける音と、添えられたミントのすっとした匂い。
「飲んでみて!」
と、さっちゃんのお父さんが急かすので、僕らはそれを飲む。喉の奥でパチパチと炭酸が響く。うっすらと甘い蜂蜜の味。
「美味しい」
「よかった!」
さっちゃんのお父さんは、にかっと笑い、またあの真っ白な歯を覗かせる。
その後しばらく、僕と青、さっちゃんと、さっちゃんのお父さんの、4人で雑談をした。
話題は、「どうして引っ越してきたの?」。
「まあ、幸子が海が見えるところで生きたいというからねえ」
さっちゃんのお父さんは、窓の外に目をやりながら答えた。午後も晴天。
「それだけの理由ですか?」
あまりにも簡単すぎる引越しの理由に僕は、間の抜けた声を出す。
「幸子がそういうんなら、しょうがないです」
改めてずっしりした口調で、さっちゃんのお父さんはいう。
「はあ……」
だから、僕もそうやって頷くしかない。
「まあ、この街はいいところだよ」
青はすっかり飲みきったレモネードの、底に沈む氷を啜っている。
「ね、教室から海が見えるしね」
さっちゃんのパジャマはサイズが少し大きい気がする。タオル地に縞模様。
「君たち、この夏はなにするの?」
さっちゃんのお父さんはいう。
僕は時々ーーというかここ最近になってからだがーー青やさっちゃんといると感覚が狂ってくるような気がする。
たとえば、僕は高校に進学するけれど、青とさっちゃんは進学しない。
じゃあ、高校に行かずになにをするのか? というのも、2人ともはっきりしていない。なんにも計画していない、という感じだ。
さっちゃんのお父さんも、この夏はなにするの? なんてのんきなことを言っている。今ごろ、田村は塾に缶詰なのに。きっと、それが世の中では普通で当たり前のことなのに。
しかも僕たちは夏休みだけれど、今日は平日だ。僕の父親は今日も朝早く出社した。しかし、さっちゃんのお父さんは、僕たちとこうして夏空を堪能しながら、ウェルカムドリンクなんて持ってきて、一緒に談笑している。なんの仕事をしているんだろう?
「幸子が考えたっていう、夏休みのスケジュール見せてもらったけど、さすがにあれは無理がありすぎると思う。幸子の体力も持たない。今日だって実際に、昨日の遠出で熱が出てしまったし」
さっちゃんのお父さんの言う通りだと、僕も思う。あまりにも詰め込みすぎのスケジュールは、さっちゃんだけでなく、夏休みが終わるころには、僕と青もへたってしまうだろう。
「だからさ、君たち歌を作れば?」
さっちゃんのお父さんの、あまりにも突飛な発言に、僕は無意識に、はああ? と声に出してしまった。歌……。
「歌だよ。中学3年生の、特別な夏にさ、歌を作りなよ。夏休みをめいっぱい使ってさ」
「歌かあ・・・・・・」
青は深く重みのある声を出して、何度も繰り返す。歌かあ。歌かあ。歌・・・・・・。
「へえ、さすがパパ。いいこと言うわね」
さっちゃんは、メガネをくいっと上に持ち上げた。
「やりましょうよ。3人で歌をつくりましょ」
「よし、やるしかねえな!」
青はすっかりテンションが上がってしまったようで、歌を作ることに乗り気になっていた。顔にみるみる力がみなぎっていくのがわかる。
「ヒーローも、やるしかないでしょ?」
と、さっちゃんは僕を見る。さっちゃんの隣には青があぐらをかいていて、いつも以上に輝く目線を送ってくる。僕はこのごろ、青の瞳を見ると、その奥でどんな言葉を放っているのか、なんとなくわかってしまうようになった。
ヒーロー! もちろん、やるよな? と、そういっている。
有無をいわさぬ力強い眼光を放つ青。
夏の午後に、まだまだ明るすぎる日差しに、カーテンのないこの部屋は眩しすぎる。
レモネードが入っていたはずの、重いグラスは氷が溶けて、そこに水が沈んでいる。その上には飾りだったミントがふやけて浮かんでいる。
「やるしかないな」
頭では断るはずだったのに、僕がそうやって答えてしまったのは、きっとこの夏の午後のせいだ。