もしかしていいやつかも
青と倉持幸子は、付き合ったその日に、2人だけで下校した。
「さあ、一緒に帰りましょう」
と、青に向かってそう言った倉持幸子は、あの牛乳瓶の底みたいなメガネをぐっと持ち上げて、教室にまだ残っている女子たちに向かって得意げに微笑んだ。
まだ教室に残っていた浦部が、顔を真っ赤にさせてきつく睨んでいた。
「え、一緒に?」
自分で付き合うことに承諾したものの、青は少し戸惑っているようにも見えた。
「一緒に帰るの?」
青は、もう一度そう訊く。
「そうよ。2人の初めての貴重な下校デートになるわね」
「ああ・・・・・・、わかった」
青は言い、自分のスクールバッグを肩に勢いよく背負った。
目の前に立つ青と倉持幸子を見ると、身長差がすごくて、まるで大人と子供みたいにも見えた。
「じゃあ、また明日な!」
青は言い、倉持幸子と一緒に教室を去った。教室を出るとき、そそくさと歩く青の後ろを、ひょこひょこついていく倉持幸子は、雛鳥に似ていた。
2人が去った後の教室内は騒然となった。驚きと、女子たちの悲鳴だった。
「青って、あんな子が好きだったの!?」
「ショック! ひそかに憧れてたのに!」
「まさかあんなダサい子と付き合うなんて思わなかった!」
そうやって批難を浴びせる女子たちを見て、田村はため息をついた。
「女子ってめんどくさそうだな」
田村は言い、僕も、教室の後ろで輪になって座っていた他の友達たちも同意していた。
「しかし、転校初日に、学校で一番モテる男に付き合おうって言えるなんて、倉持もすごい度胸だな」
と、誰かがいうと、その言葉に男子たちはさらに同調していった。
確かにすごい女だ、とか、もしかしたら本当に面白いんじゃないのか、とか。
そういった言葉を耳にした女子たちは、倉持幸子をすぐに否定したがった。だけど、女子たちの彼女への批判には、具体性がまるでなかった。
青にはあんな女は似合わない、と、そればかりだった。じゃあ、青にはどんな女が似合うのか訊きたかったが、火に油を注ぐだけだろうから、やめた。
もちろん浦部も倉持幸子を痛烈に批判した。
「ブスのくせに!」
そう言うと、彼女の周りにいるーー仲の良いと思われるーー女子たちは、そうだそうだと同意する。梨沙の方がふさわしい、とも。
それに対して田村が、
「でも誰と付き合うのか決めるのは、青が決めることだろ?」
と、頭の後ろで腕を組み、いかにもだるそうにしながら言った。
「まあ、確かになあ」
と、男子たちはそういう感じであった。
「もう帰ろうぜ」
誰かが言うと、普段から青と親しくしている男子たちは、教室の後ろからぞろぞろとーーこの不毛な議論からーー退出していった。
教室を出るとき、ふと強い視線を感じた。目玉だけ動かしてちらっとそちらを見ると、浦部が信じられないくらい恐ろしい顔をして、こちらを見ていた。
普段の顔つきの面影がないくらい、眉毛が持ち上がり、目は釣り上がり、口は微かに震えている。強い怒りのまなざしに、僕は思わず肩をすくめた。
***
翌日。
青と倉持幸子は、一緒に登校してきた。
普段は遅刻ばかりの青だから、めずらしかった。
2人は教室に入るなり、お互いににこにこしながら軽く手を振って、それぞれの席に着席した。
男子たちは待ってましたと言わんばかりに、青の席に群がった。もちろん僕も。
「昨日、どうだった!?」
男子たちは、下校ーーそれを倉持幸子は初デートと呼んでいたけれどーーの様子を知りたがって、興奮していた。結果的に昨日も、僕たちの彼女への評価は「度胸があるすごい女」と認定されたため、倉持幸子に興味津々だった。
「簡単には教えられないな」
次々に投げかかる質問に、青は楽しそうに答えた。
「楽しかった?」
僕が訊くと、
「楽しかったよ」
と、青は言った。
「どんなふうに!?」
田村が訊くと、
「ナイショ」
とだけ青は返した。
男子たちみんなが、昨日の下校デートについて知りたがれば知りたがるほど、青はもったいぶって、詳しく話そうとしなかった。
青は席に凭れかかり、余裕の笑みを浮かべながら、頭上でうるさくする友達たちを見上げていた。
僕と目が合うと、愉快そうに目を細めた。
まばたきのたびに、それに合わせて彼の長いまつ毛が揺れていた。胸元が少しあいたシャツは、今日も襟元がよれている。真っ白な鎖骨をのぞかせている。
ふと、倉持幸子はどうしているのかと、彼女の席に目をやると、昨日みたいに、ぴんと背筋を伸ばして前を向いて座っている。白いソックス、新しい上履き。
そんな倉持幸子を、ますます面白く思わない女子たちが、ひそひそと陰口を叩く。
きっと、倉持幸子にもその声は聞こえているはずだ。
でも、彼女は表情ひとつ変えず、小さい身体をどっしりとそこに安定させている。
***
放課後。
帰り支度をする僕のもとに、倉持幸子がつかつかとやってきた。
「聞いたわよ。あなたも夏休み、暇なんだってね」
倉持幸子はそう言って、にやあっとあの不気味な笑みを浮かべた。口角が片方だけ吊り上がる。
「暇ってわけではないよ。受験勉強もあるし」
「夏期講習行かないんでしょ? めずらしいって青が言ってた」
「青・・・・・・・」
そうか。彼らはもう、お互いを名前で呼ぶくらい、一応そういう関係なんだった。
「夏期講習は行かないけど、勉強はするんだよ」
「あそぼーよ」
倉持幸子は言った。
「中学生最後の最高の夏休みにしない?」
「青はなんて?」
「あんたも一緒がいいって」
「そっか」
僕はそっけないふりをしたが、嬉しかった。
「嬉しそうね」倉持幸子は言った。「青が好き?」
「そりゃあ好きだよ。仲良いし」
言葉にすると嘘っぽくなってしまう気がした。
「ふうん」
倉持幸子はじっと僕を見ている。分厚いメガネのなかからでもわかる意思の強いまなざし。なにを見ているんだろう。僕もじっと、彼女を見つめ返した。
僕と倉持幸子が、お互いにいつの間にかそらした視線に、それを待っていたかのように青はタイミングよく声をかけてきた。
「草野! 夏休み、あそぼうぜ」
顔を上げると、スクールバッグを手に持ち、すっかり帰り支度が終わった青がいた。高い鼻先は下から見上げると、より顔立ちの良さを引き立たせていた。
「あそぼうぜ」。
僕は、青に誘われると、どうしても断ることができず、わかった、と返していた。
***
「えー!? なんだこりゃあ!?」
校舎の裏側の、緑陽のしたで、僕は悲鳴に似た声をあげた。
セミの鳴き声と、どこにいても汗ばむ夏の暑さ。そして倉持幸子から渡された一枚のプリント用紙。
倉持幸子が提案した「中学生最後の最高の夏休み」の予定がプリントされたスケジュールを見て愕然とした。
だって、夏休みが始まって、8月31日の最終日まで休みが1日もないのだから。
「明日は潮干狩り!?」
夏休み初日のスケジュールを見て、思わず声を上げる。
初っ端から、めちゃくちゃ夏って感じだけど、なんと潮干狩りの次の日は、隣町までのサイクリングの予定が記載されている。古い駄菓子屋があるそうで、そこでラムネを飲むためらしい。
「お前すごいな! 楽しそ〜!」
渡されたプリントを見て、青は意気揚々としていた。俺のやったことないやつばっかり! とはしゃいでいる。
「こんなに遊んでさ、倉持さんは大丈夫なの?」
「なにが?」
「受験勉強!」
僕が少し強い口調でそういうと、倉持幸子はメガネをくいっと持ち上げた。
「私、受験しないから」
「ええ?」
「やーっと9年間の義務教育から解放されるのよ。これからは好きなことぜーんぶするわ。超〜楽しみ」
「好きなこと? なにするの?」
「歌ったり、踊ったり、食べたり、時には金を稼いだり」
それを聞いていた青はぷっと吹き出すように笑った。
「歌ったり踊ったり?」
青は言った。俺もそんな感じで生きていこうかなあ、とも。
「草野くんは、今後どうなる予定?」
倉持幸子に訊かれた言葉は、いままでの僕だったらすんなり答えられたはずなのに、こんなに陽気で、悪く言えば危機感のない2人の前では、真面目に答えるのが馬鹿馬鹿しくなってしまう。
「僕は、高校に行って、大学にいくよ。で、弁護士になる予定」
僕が淡々と答えた。
「かっこいいな〜!」
青はすかさずそう言って、僕の肩を叩いた。
「弁護士かあ」
青は感心している様子だった。僕の顔を見ながら、なにか珍しいものでも見るような視線をぶつけてくる。
「もしも俺がなにかしでかしたら、味方してくれるよな?」
「あのなあ!」
僕はわざと大袈裟に青に突っ込む。すると、彼はいかにも楽しそうに、すまーん! と笑う。
「へえ・・・・・・」
倉持幸子は、ふざけている僕たちを眺めている。重たそうなメガネをくいっと上に上げながら。
「なるほどね・・・・・・」
倉持幸子は、なんでだか意味深な言葉を重ねた。
「なにが、なるほど?」
僕は彼女に訊いた。
「楽しそうね」
倉持幸子はそっけなく答えたが、それは僕が訊きたかった答えではなかった。
「とにかくこの夏は、忘れられない最高の夏にするわよ」
彼女は大きく伸びをして、照りつける日差しを顔から浴びていた。ぱあっと木々が風で揺れると、青々と茂る葉っぱから漏れる光の形が変わる。
「こんなふうに過ごせる夏は、あと何回くらいなのかしら」
倉持幸子は眩しい太陽に目を細めた。おでこに手のひらを当てて、愛おしそうに。日差しを浴びた横顔は、分厚くて重そうなメガネを低い鼻が必死で支えている。その下にある赤い唇から覗く大きな前歯。
噛み締めるようにいう彼女の夏は、まるで余命宣告された患者のようだった。
「倉持さんは、あと何回くらい、こんな夏を過ごせると思う?」
こんな夏。僕は思わず訊いた。
「あと、100回くらいかなあ・・・・・・」
倉持幸子は、悲しそうにいう。いかにもわざとらしく、下手くそに、声を震わせていた。
「少ないわねえ・・・・・・。あと100回だけなんて」
彼女がそう言うと、青はゲラゲラ笑い出した。僕は拍子抜けしてしまい、なにも言い返せずそこに立ち尽くしている。
「100回かあ。確かに少ないな!」
青は自分で発したその言葉がおかしいらしく、再びお腹を抱えて笑い出した。
僕がいままで関わったことのないタイプの女の子なので、正直どう接していいのか反応に困ってしまう。
「草野くん。あたしとどう接していいのか困ってるでしょ」
倉持幸子にそう言われ、ドキッとした。
「とりあえず、あたしのことはこれから、さっちゃんって呼んで!」
「わかった」
倉持幸子の希望ならば、そうするしかない。それを聞いていた青も、じゃあこれからはそう呼ぶな! と答えた。
帰り道。
僕たちは3人で下校した。さっちゃんが前をずんずんと歩く後ろで青が僕に耳打ちしてきた。「さっちゃん、面白いだろ?」と。
「そうだね、少し変わってるかも」
そう言うと、青は思い出し笑いをし始めた。
「昨日さ、初めて一緒に帰ったときにさ、今日みたいにさっちゃんが前を歩いていったんだよ。で、ぼーっとついていくだけだったんだけど」
青はそこでまたニヤニヤ笑い始めた。さっそく、さっちゃんと呼んでいる。
「俺の頭にセミが二匹、同時に落っこちてきたんだよ。二匹だぜ? びっくりして、自分でも思っていた以上に大きな声出してたみたいでさ。そしたら、さっちゃんが振り返って、俺の頭に落ちたセミ二匹をパッと素手でつかんでさ、『こんなことくらいでいちいち大騒ぎするな!』って、そのセミを塀に叩きつけたんだぜ。しかも死ねえええ! って叫びながら」
青はケラケラ笑う。
「セミもびっくりしただろうな」
「びっくりしたと思うよ・・・・・・」
僕はセミが落ちてきてパニックになる青と、それに平然と対応するさっちゃんの2人の光景が目に浮かんだ。あまりにも鮮やかに、そして容易に想像できた。
「なに話してるの? あたしも仲間に入れてよ」
さっちゃんは急に振り返った。
「さっちゃんのこと話してたんだよ」
青が言った。
「草野くんにあたしと付き合ってること自慢してたの? 意地悪な男ねえ〜」
さっちゃんが僕を見て、またにやあっと笑った。僕はさっちゃんのこの不気味な笑顔にだんだん免疫ができてきて、それを見てもゾッとすることがなくなっていることに気づいた。
***
「最高の夏休み」1日目の潮干狩りは、学校の正門の前で待ち合わせだった。
僕は少し寝坊をしてしまい、遅れてたどり着いた。10分の遅刻。いつも学校に来るのは遅刻ばかりの青がきちんと正門の前にいたので驚いた。その隣にはさっちゃんもいた。
「おい! 遅いぞ!」
青はジーンズに白いTシャツ、ビーサンというシンプルな服装をしていた。
「ごめん。目覚ましかけてたんだけど、いつの間にかまた寝てたみたい」
僕は急いで走ってきたため、呼吸が荒かった。ぜえぜえいいながら、膝に手をついて前屈みになる。
「ありえないわね。10分38秒の遅刻よ」
さっちゃんは紺色の短パンに赤いタンクトップ、ビーサンを履いて、つばの広い麦わら帽子を被っていた。なんだか小学生の男の子みたいだった。手に大きな青いバケツを持ち、シャベルが人数分(3つ)入っている。用意周到だった。
「それにしても、草野くん。これから潮干狩りに行くっていうのに、どうしてそんな服装なの?」
さっちゃんは、僕の服装にダメ出しをした。
僕は自分の服を見る。
黒い長ズボンは真ん中にアイロンの折り目がついていて、上に着ている白いシャツは襟がピシッと整えてある。靴は黒い皮のローファーだった。さらに夕方から、雨が降るかもしれないとの予報が朝のニュースで流れていたので、傘をひとつ持ってきた。
小学生のころから使っている、年季の入った小さな傘。汚れても構わない傘。
傘の取っ手の部分には名札がついていて、名前の下に、文字を覚えたてのころに手書きで付け加えた自分の誕生日が、下手くそな文字が記載されている。
7月21日。
夏休み初日は、毎年僕の誕生日でもある。
「これからオペラ見にいくわけでもない、まして泥んこになるかもしれないのに、かしこまった格好しちゃって」
「僕あんまり服持ってなくて」
確かに潮干狩りに適した服装ではないと自分でも思った。
「まあいいわ。最高の夏休みのスタートよ!」
さっちゃんは言い、潮干狩りが行われている砂浜の会場に向かうために、最寄りのバス停に向かい始めた。相変わらずずんずんと前を進んでいく彼女を、僕と青の2人がついていった。
バスに乗り、地元の最寄り駅から約1時間ほど電車に乗り、そこからまた潮干狩り会場までのバスに乗り込む。移動が多くて、僕と青はバスのなかでずっと寝てしまっていた。
「ねえ、起きて」
肩を叩かれて、起きると、前の座席に座っているさっちゃんが困った顔をしていた。
「ああ、もう着くのか?」
青が寝ぼけ眼であくびをした。
「そうなんだけど・・・・・・」
さっちゃんは苦い顔をしていた。
「なにかあったの?」
僕はさっちゃんに訊く。
「なんかね、いまって潮干狩りのシーズンじゃないみたいなの。あなた達が寝てた間、隣に座ってきたおばさんに、どこに行くか訊かれて、潮干狩りに行くっていったら、潮干狩りはせいぜい6月までがピークで、あとは、貝の具合もあんまりよくないらしいの。そのおばさんは前のバス停で降りちゃったんだけど、せっかくなら来年の方がおすすめよって言われちゃって」
さっちゃんはそう言い、どうしようかなあ、と独り言のようにつぶやく。
「あたし、せっかくなら状態のいいものが食べたいなあ。でっかいやつ。でっかいアサリ!」
と、さっちゃんは目をパチパチさせながら猫撫で声を出し始めた。前の席から身を乗り出して、お・ね・が・い♡と、青に甘いーーといえるのかわからないがーー視線を投げかける。
「あ、そう? じゃあ、来年リベンジしようか?」
青はあっさりそう言った。僕は少し唖然とする。
「ちょっと待って! 僕の意見は?」
僕は慌てて反論する。せっかくここまで来たんだし、本来の目的を果たさないと意味がない! と思ってしまう。
しかし、さっちゃんは僕の意見など聞こうともしないで、
「わーい! そうしましょ。あのね、潮干狩りには行けなくなったけど、降りる予定のバス停の近くに、安くておいしい海鮮丼の店があるって、さっきのおばさんに教えてもらったの。そこに行きましょ〜!」
と、言った。
「決まりね!」
有無を言わさず、勝手に変更されてしまうスケジュール。僕なんていない方がよかったんじゃないかと思った。2人だけで来ればよかったじゃないか、とも。
僕はすっかり不貞腐れて、次に下車するバス停まで居眠りを決め込んだ。
***
次のバス停について、僕たちは下車した。
急に予定変更になった、安くて美味い海鮮丼が食べられるという店に向かう。
バスから下車した瞬間、夏の湿度の高い風と排気ガスの熱風に曝されて、僕たちは思わず顔をしかめた。
「暑い・・・・・・」
青は言いながら、額の汗を腕で拭った。おでこにへばりついていた髪の毛をわしゃっとかきあげる。
さっちゃんがおばさんに教えてもらったという、海鮮丼の店は下車したバス停から、すぐに見つかった。
木造の店の前には、小さい看板に手書きで「安い! うまい! 海鮮丼ランチ1000円!」とあり、その下に独特なタッチで寿司ネタや、海鮮丼の絵が描かれている。
さっちゃんは店を見つけると、颯爽とのれんを潜った。僕と青もそれにつづいた。
「いらっしゃい!」
カウンター越しに、その店の大将と思われる人が威勢よく僕たち3人を歓迎した。
僕たちの他に客はおらず、小さなその店のカウンターのテーブルに並んで座る。座った丸椅子はクッションの部分が少し禿げている。腰掛けて、身体を動かすと、キーキーうるさい。
「海鮮丼3つください」
さっちゃんは、そう注文するなり、
「あたし、御手洗にいってくるわね」
と、店の外にあるトイレに行ってしまった。後ろにある引き戸の扉を空けて、再び外に出る。
勝手に変更されてしまったスケジュール。勝手に注文された海鮮丼。
僕はすっかり不貞腐れてしまい、ぶすっとした表情を浮かべながらカウンターに頬杖をついた。
「なあ、ひろくん。機嫌なおしてよ〜」
青はそうやって僕を茶化した。
「無理」
僕はそう一言だけ口にして、明らかに不機嫌が伝わる顔をする。
「ねえってば〜」
青はしつこい。
「ねえ〜ねえ〜、ひろく〜ん」
「なんだよ。ひろくんって・・・・・・」
つんと横に顔をやり、しばらくそうやって不貞腐れていると、後ろの扉が思い切り再び空いた。さっちゃんがトイレから戻ってきたのだった。
扉が空き、のれんがざざあっと揺れてなびくと、店の目の前に広がる潮風と、海の匂いが飛び込んできた。
夏の匂いにうっとりしてしまい、僕は一瞬、怒っていることを忘れてしまいそうになった。
「ねえ、目の前の海まで、ちょっと来てもらえる?」
5分もしないうちに戻ってきたさっちゃんは、そう言いながら僕たちの肩を後ろから叩いた。
「すみません。すぐに戻ってくるので、待っててもらえますか?」
大将に向かって、さっちゃんがそう言うと、へいよ! という気前のいい声ですんなりOKをもらい、僕と青の2人は半ば強引に外にでた。
すぐ目の前の砂浜までは移動して3分もかからない。さっちゃんは、こっちこっち! と先頭に立って、大きく手招きをする。
ざん、と大きく揺れる波の音。
さっちゃんに連れられるまま、海の前までやってきた僕と青は、目を丸くして驚いた。
広大な海の前に、その芸術に負けないくらいの、大きなケーキが造られていた。
砂でできたそれは、こんなに短時間で完成させたことへの驚きだけではなかった。
砂の色や種類を、部分的に変えて作成されていて、ひとつの物体(砂)だけを用いて、こんなふうに、まるで違う雰囲気のものを造り出せるのか、と驚きを隠せない。
大きなサンドケーキには、さっちゃんが潮干狩りで使うために持ってきたシャベル3つが蝋燭の代わりとなって、てっぺんに立てられていた。
ケーキをふちどる楕円の周りには、短時間で集めるだけ集められたビンの、いびつなかけらや色たちが散らばっていて、それが太陽の光に反射するとキラキラと眩しく輝いた。
どこからかちぎれて流れ着いたロープや、空き缶、お菓子の箱、セロファンの装飾も、色遣いが鮮やかで砂のケーキの存在を一層引き立たせた。
そして、そのさっちゃん特製ケーキの下には「HAPPY BIRTHDAY DEAR HERO」とあった。
「すごーい!」
僕は潮風に思い切り吹かれながら、感動して声が上擦った。
「どうして僕の誕生日知ってるの!?」
うるさい潮風にかき消されないように、僕は声を張る。
「あなたの傘に誕生日を見つけたのよ!」
さっちゃんは楽しそうに笑っている。
「誕生日おめでとう! MY HERO!」
そうやって、青が僕を茶化す。まぶしく笑う青。
「ヒーロー?」
僕は嬉しい気持ちを隠せない。クールに喜ぶことができない。
「なんだ! ヒーローって!」
自然と込み上げてくる笑顔と嬉しさ。心臓、胸のあたりからぎゅうっと出てくる熱い気持ち。こんな感覚は生まれて初めてかもしれない。
「誕生日おめでとう。ヒーロー」
さっちゃんに改めてそう言われて、
「ありがとう」
と、僕は、心のそこからのありがとうを言った。
***
店に戻り、僕たちを待ってましたとばかりに差し出された海鮮丼は、確かにおいしかった。
ふんだんに乗せられた漬けのまぐろ、うに、いくら、いかの下には、ちょうどいい具合の酢飯がこれまたふんだんによそわれていて、その上からこの店特製の醤油をかけて頬張る。
僕たちの会話を盗み聞きしていたのか、大将にも「ヒーロー、誕生日おめでとう!」と声をかけられ、こんなに祝ってもらった経験のない僕は、恥ずかしさのあまり肩をすくめた。
海鮮丼をガツガツ食べながら、僕はふと、自分のあだ名が「ヒーロー」になっていることに気づいた。
「ねえ、なんで僕、ヒーローなの?」
僕は海鮮丼に夢中になる手を止めて、顔をあげた。すると、僕の問いに答えるために、さっちゃんも一旦手を止めて頭を上げた。口の横に米粒がついていた。
「名前、弘樹だし」
さっちゃんは言った。
「それに、あなた将来、お堅い弁護士になるんでしょ? いつか私たちのヒーローになってよ」
さっちゃんの言葉に、青がうんうんと思い切り同調する。
「そうだよ! 俺たちのヒーローになってくれよ」
「え〜? 2人のヒーロー?」
僕はーー大袈裟にわざとらしくーー躊躇うふりをしたが、でも実はむしろ喜んでなりたかった。
2人だけのヒーロー。断る理由はない。
むしろ、ずっと。ずっと、2人のヒーローでありたい。
ヒーロー。
そして、僕にも、僕たちだけで呼び合うあだ名ができた。
古びたカウンターに、禿げたクッションが覗く赤い丸椅子に並んで座って食べた、安くて美味い海鮮丼。
扉の向こうの砂浜には、他の誰にも真似できない、さっちゃん特製のバースデーケーキが、世界中の光を一点に集めているみたいに輝いて、揺れている。
中学3年生の夏休み初日。
この誕生日を、この先もきっと忘れることはできないだろう。