季節外れの転校生、その名は幸子
次の日。学校に行くための身支度をしていても、いつもの朝食ーー食パン1枚とゆで卵ひとつーーを食べていても、ずっとドキドキしていた。
青に、昨日介抱してくれた礼をちゃんと言うにしても、彼がきっと知られたくなかったことを僕が勘付いてしまったし、話しかけることが、なんだか気まずい。
なんて声をかける? いつもみたいに、なんでもないように?
彼はどんな反応をするだろうか。
重い足取りで学校に向かうと、正面玄関に浦部がいた。周りには、通学してきたばかりの学生たちでいっぱいだった。男も女もいろんな背丈だ。みんな同じ制服を着ていても、そのなかで頑張って個性を出そうと、靴のかかとをわざと踏んだり、靴下はブランドのロゴが入ったものを履いたりしている。
だけどみんな、ただの中学生だ。
「おはよう。クッキー渡してくれた?」
浦部は僕を見つけると、ぱっと明るい声をかけてきた。
「渡したよ」
正面玄関を通りすぎ、下駄箱で靴を脱ぎながら、そういえばあのクッキーを、青は食べたのだろうかと思った。
「なんて言ってた? 喜んでた?」
浦部は、真横で僕と同じように靴を履き替えながら、なんだかはしゃいだ声を出している。よっぽど自信があったのだろうか。
「いや、渡しただけで食べるところ見てないからわからない」
僕がそう言うと、浦部はむっとした顔つきをした。
「なんで? 一緒に食べなかったの?」
「うん」
「それじゃ、感想わからないじゃない!」
浦部は声を荒げた。わざわざクッキーを渡しに行ったのに、さらに青のクッキーを食べた感想まで求められ、さすがの僕も頭に来てしまった。
「感想くらい本人に聞けないと、あいつは振り向かないと思うよ」
頭に来ている割には、なぜか物凄く冷たい口調になっていた。
「いや実はさ、あのクッキー、間違えて腐った卵使っちゃったのよ」
「ええ?」
あんまりにもあっさりと浦部が言うので、僕は思わず間抜けな声を出す。
「だから食あたりにでもなったら、困るわよねえ。可哀想じゃない?」
「なに言ってんの? だったら食べないように早く言わなくちゃダメじゃん」
「そうなのよねえ」
「わざと?」
僕は言った。
「んなわけないじゃない。なんのためよ?」
浦部は、ふうっと髪をかきあげた。全く理解のできない女だと思った。機嫌が良いかと思えば、急に怒るし、またこうしてひどく静かになる。あんまり関わりたくないタイプだ。
「青がお腹壊してたら、食べたってことよね」
浦部は言った。きっと、お腹壊してないわよあいつ、とも。
***
教室に着くと、相変わらず青はまだ登校していなかった。
田村が僕を見るなり声をかけてきた。
「おはよう! なんだよ冴えない顔して」
僕は机に座り、一限目に使う英語の教科書を出した。
「今日あんまり眠れなかったからかなあ」
僕が言うと、
「俺も最近眠れないんだ」
と、田村は深くため息をついた。
「どうしたの? なにか心配事でもあるの?」
田村は僕の机の前の席に座りながら、あのなあ! と呆れている様子だった。
「中三のこの時期の悩みといえば、ひとつしかないだろ!」田村は言った。「進路だよ! 進路!」
「ああ、そうか」
僕はすっかり自分が受験生だということを忘れていた。確かに、一般的に中三の夏休みの悩み第一位は進路だろう。志望校に合格するために、夏休みに夏期講習に通う生徒が大多数だ。
「なあ、草野ってどうやって勉強してるの? 塾行ってないんだろ?」
「行ってない」
塾は、一度通ったことがあるが、教えられることの大半はもうわかるし、自分でなんとかなると感じてすぐに辞めてしまった。それに、高校受験の過去問を解いても、大体満点なので、受験に関して今のところ心配事は0だった。
でもそう言うと、嫌味っぽく聞こえてしまうだろうな、と思った。
「勉強って、勉強しなくちゃって意気込むとダメなんだよ。趣味にしちゃえば苦痛じゃなくなるし、苦痛だと思うと、続かないから」
僕のその言葉に、田村は大きなため息を出した。
「あのなあ・・・・・・。ほとんどの人間はみーんな、勉強なんて嫌いだし、無理してるんだよ。勉強法聞いてるのに、精神論語るなっ!」
田村は僕の耳を軽く引っ張り、その脳みそ分けてくれ! という。
田村は確かにあまり勉強ができる方ではないけれど、彼の親や、彼自身が、いい高校へ行き、そして良い大学に行きたいという理想があるようだった。
「つまんねえ夏休みになるなあ。塾に缶詰だよ。俺の夏は・・・・・・」
「夏かあ」
「そうだよ。夏だよ」
この学校のいいところは、教室から海が見えるところ。
暑さを和らげるために全開にしてある窓から、潮風が滑り込んでくる。その、海の匂いを肺いっぱいに吸い込む。
海だって、いろんな景色がある。だけど、やっぱり夏の海は、なにかが違う。
思い出をたぐり寄せると、大体の季節は夏が多い。そしてその思い出の濃厚さが、他の季節より深い。
僕は15回目の夏を生きている。これから先、何回夏を過ごせるのだろうか。
思い出はどんどん濃くなっていくのだろうか。
「おはよう」
ぼんやりしている僕の頭上で声がして、顔をあげる。
青がいた。
「なにしてんの? 2人とも、冴えない顔して」
青は、全然いつも通りだった。
「なんだよ! 冴えない顔って! 俺は夏休み、塾に缶詰なんだよ!」
田村は、せっかくの貴重な長期休みに、勉強漬けになるのが本当に嫌みたいだった。
「へえ。んじゃ、やめれば?」
青のあっけらかんとした感じに、田村は少し怒った。
「簡単にいうなよ! お前ら2人だけだよ。この学校でさ、中三の夏休みに遊び呆ける奴らは・・・・・・」
「いやいや、遊び呆けるって!」
僕が思わずつっこむと、2人ともクスッと笑った。
「草野って、おとなしいように見えて、こういう感じなんだよなあ」
青が言った。
「こういう感じ?」
田村は青に、こういうってどんなの? とさらに詰め寄る。
「うーん、うまくいえない。こんな感じ」
青のその、僕への抽象的な評価は、意味がわからければわからないほど、僕を嬉しくさせた。
昨日のことが、もうずっと昔みたいに感じた。
青の住んでいるアパートでの、数時間の間にあったこと。
あのアパートの古い造りも、乱雑に置かれた女性用の化粧品たちも、テレビ傍に置かれた目覚まし時計も。
小さい折り畳み式のテーブルで青はきっと寿司を食べたんだろうな。お母さんと並んで、テレビを見ながら。
あの人、と呼んでいた世話になっている人からもらった寿司を。
「昨日はありがとう」
僕がいうと、
「どういたしまして」
と、青は含みのある笑みを浮かべた。
もう忘れてくれよ、という気持ちが含まれている気がした。だから、僕もいちいち触れない。
「クッキー、おいしかった?」
僕が訊くと、
「ああ。うまかったよ。あいつって、ちゃんと料理できるんだな!」
と、青は答えた。からっとした笑顔を見せて、すごく自然な声のトーンで。
「誰からのクッキー?」
横にいる田村が、モテる男は大変だなあ! と茶化している。
「誰からは秘密!」
青の発する言葉は、ほんとうに自然。それに合わせた表情も。
僕は苦笑いしてしまう。
浦部のいった通りだった。青はクッキーを食べていないだろう。
こんなに自然に嘘をつかれたら、きっと誰も気づけない。
彼がほんとうはいつも、どんな気持ちで生きているのか、ということも。
***
朝のホームルームで、教壇に立った先生が開口一番に、転校生を紹介するというので、クラス全員が騒然となった。
僕たちにとって、転校生という存在は、いつも新鮮なものだった。
名前も知らない、初めて見る顔や、聞いたことのない声を持つ同い年の学生というのは、とにかく興味でいっぱいで、なぜか胸がドキドキするものだった。
しかも、夏休み前のこの時期に転校してくる生徒はほぼいない。
普通なら、こんな中途半端な時期ではなく、夏休み明けの二学期からやってくるだろう。
「倉持幸子さんです」
そう担任が言うなり、教室に入ってきた女の子は、ある意味ーーどちらかというと残念な意味でーーで、みんなを釘付けにした。
今時どこで手に入るんだよと、思わず突っ込まずにはいられない、牛乳瓶の底みたいな分厚い丸いメガネに、おかっぱ頭だった。パツっと切りっぱなしのその髪の毛はカツラを被せたようにも見える。
肌が白く、頬にはたくさんそばかすがあって、全体的に華奢で小さかった。
そして、唇になぜか真っ赤な口紅を塗っていた。そこから覗く八重歯。にやあっと笑っているので、不気味な印象を受けた。
「倉持さん、なにかみんなに自己紹介して」
担任がいった。言いながら、横にいる倉持幸子をじろじろ見ている。
「仲良くしてねえええええ」
倉持幸子はかすれた声で、無駄に語尾を伸ばしてそういった。
その後、目の前に座るクラスメイトたちをひとりひとり、じっと見つめていった。僕と視線がぶつかると、またさっき見せた気味の悪い笑みを浮かべたので、ゾッとした。
***
ホームルームが終わり、1時間目の英語の時間まで少し時間が空いても、誰も転校生の倉持幸子に声をかける生徒はいなかった。
倉持幸子は、自分の席に座り、背筋をピンと伸ばしている。清潔そうな白いソックスに新しい上履きを履いている。
そんな彼女を見て、女子たちはひそひそ悪口を言っている。髪型がダサいとか、メガネが変だとか。
「なあ、面白そうなやつだな」
教室の、一番後ろの窓にもたれかかりながら青がいう。
「草野はどう思う?」
「うーん」
僕は返答に困ったが、正直な感想をいうと陰口になりそうだったので、
「面白そうだと思う」
と、返した。
すると、倉持幸子はぐるっと首をこちらに向けて、またあの不気味な笑みを浮かべた。僕はそれを見ると、どうしても背筋が凍った。
その笑みを見た青は、彼女に手を振った。陽気なやつだなと思った。
青は倉持に対して、悪い印象はないのだろうか。みんなと同じように、ダサいとか、ブスだとか。
そして、事件は放課後に起きた。
青と僕と、田村、また数人の男子と、教室の後ろで輪になり、他愛のない話をしていた。すると、そこにつかつかと倉持幸子がやってきた。
「ねえ、付き合ってくれない?」
倉持幸子は青に向かってそういった。
「いいぜ。なにに付き合えばいい?」
青は、あぐらをかきながら、直立している幸子を見上げた。
「男女交際」
そう言った倉持幸子に対して、さすがの青も驚いた顔をした。
「男女交際・・・・・・?」
青が反射的に聞き返したその言葉に、倉持幸子は余裕の笑みを浮かべた。
「あたしと付き合ったら、超楽しいよ」
そしてまたニヤリとする。一見、勘違いも甚だしいと思われそうなフレーズだったが、なぜか彼女がいう言葉には迫力があった。自信満々で、発する言葉には曇りがない。
青は一瞬、ほんの一瞬だけ、彼女のことを見据えた。すっと鋭く目を細める。
「わかった。じゃあ、付き合おうか」
青はいった。その場にいたクラスメイト全員が注目した。
「マジかよ・・・・・・」
田村はついていけねえよ、といって両手をあげた。お手上げ、という感じで。
こうして、青と幸子は付き合うことになった。
転校初日にやってきた、少し変わった女の子。男子からも女子からも不評で、転校生がやってくるという学生にとっての一大イベントをしらけさせた女の子。
しかし、幸子はのちに、青にとっても、僕にとっても、かけがえのない存在になることは、この時思ってもいなかった。