青とのはじまり
僕が海野青と同じクラスになったのは、中学3年生の時だった。
僕が通っていた中学校は、いわゆるマンモス校と呼ばれる生徒数が多い学校で、校長の「友達がたくさんいた方が、人生は豊かになる」というモットーから、1年進級するたびにクラス替えが行われた。
進級するたびに、クラスが離れることを惜しむ同級生が多い中、友達が少ない僕は、なんの感情もなく、流されるままに進級していった。あまり、人に興味がなかったし、気になる女の子もいなかった。
ただ、この学校の唯一好きなところは、どの教室からも海が見えたことだ。
窓から外にふと目をやると、いつも海があった。その海は、たいてい穏やかな波だったが、たまに激しく蠢いた。
そんな、青く広がる海を、ぼんやりと眺めるのが好きだった。
海野青という少年のことは、入学したときから知っていた。
彼のことを知らないやつはいないと思う。彼がとびきり目立つ理由のひとつはーーありきたりだがーー美少年だからだ。
彼のルーツを詳しく知っているわけではないが、和と洋のいいとこ取りをした美しい顔立ちをしていた。堀がほどよく深く、高い鼻先は少し上を向いている。目は大きいわけではなく、どちらかといえば日本人らしい。
彼が道を歩くと、誰もが振り向いた。透き通るような白い肌に栗色の柔らかい髪をなびかせて、中性的な印象もあった。同級生より、背は高く、足は真っ直ぐ長かった。
彼は誰がなんといおうと、容姿端麗だったが、人気者の理由はそれだけではなかった。
少女漫画によく出てくるステレオタイプの美少年ではなかった。彼は成績はあまりよくないし、授業中にうるさくして先生を困らせることもあった。
泥だらけになってサッカーをしたり、意味不明なことーー例えば高いところからノリでジャンプするーーをして、無駄な怪我をすることもあった。いい意味ではヤンチャ、悪くいえばアホだった。
だけど、彼がなにかしても同級生のほとんどはそんな姿を受け入れたし「青らしいよな」の一言で済ませた。
彼には、彼がどんなことをしても、周りの人が自然に納得してしまう奇妙な魅力があった。人をとことん惹きつける力があった。
ある日。こんなことがあった。
クラス替えが終わったばかりの4月半ばころ。1人の女子が財布がないと騒ぎ始めた。
「さっきまであったのに! なんでなくなってるの?」
女子は軽くパニックになりながら、自分の鞄を床にぶちまけて中身をひとつひとつ確認している。しかし、いくら探してもどうしても見つからないようだった。なんでも、財布の中には、親から預かっていた今月分の塾の月謝代も含まれているらしかった。四時間目の理科の授業で移動教室する前までは、きちんと鞄の中に財布はあったと泣いている。
僕は泣きじゃくるそんな女子を片目に、そんな大金、学校に持ってくるなよ、と呆れながら窓際の一番後ろの席で本を読んでいた。
しばらくして、いつの間にか周りがしんとし始めたことに気づいた。顔を上げると、その女子が僕の目の前にいた。
「え、なに?」
僕がいうと、
「草野くん、ずっとこの教室にいたの?さっき理科の授業、欠席してたんだって?」
と、その女子に訊かれた。
確かに僕は、みんなより先にこの教室にいた。理科の授業の前におなかが痛くなって、保健室で横になっていた。ちょうど四時間目が終わる頃に戻ってくると、まだクラスメイトは移動教室から帰ってくる前で、教室には僕だけだった。
「ずっとじゃないよ。保健室で寝てた。みんなより先に教室に戻ってきたけど」
「そう。じゃあ鞄のなか見せて?」
「はあ?」
僕は間抜けな声を出してしまった。
「別にどうってことないでしょ。本当に財布取ってないなら見せてよ」
その女子の、あまりに横暴な言動についかっとしてしまった。
「君の財布なんて知らないよ! ていうかそんな大金持って来なきゃいけないんだったら、肌身離さず持ち歩いてろよ!」
僕がいうと、女子はさらに激昂した。
「なによ! やましいことないなら見せてもいいじゃない! 本当は盗んだのね!」
女子が僕が机にかけていたスポーツバッグに手を伸ばしたので、僕はそれを素早く掴んだ。
「見せなさいよ!」
その女子は少し泣いていた。だが、そんなことは僕には関係ない。僕は本当に盗んでいないから、無罪を晴らすためにかばんの中身を堂々と晒すつもりはない。
「見られてまずいものでもあるの? 取ってないなら見せなさいよ!」
女子は言い、僕の鞄を奪い取ろうとする。僕はそれを死守しながら、離せ!と怒鳴りつけた。
周りにいるクラスメイトも「やましいことがないなら、鞄くらい見せればいいのに」という雰囲気の中で、それでも僕は抵抗し続けた。
「なあ。何してんの?」
どこかで聞いたことのある声がして、顔を上げると、海野青がいた。きょとんとしながら、僕を見ている。
「こいつがあたしの財布を取ったのよ!」
女子は言った。
「財布?」
青は言い、これ?とズボンのポケットから赤い皮素材の財布を取り出した。
「あ、それだわ!」
女子は言い、どこにあったの? と青に聞いた。
「さっき教室の扉の方で落ちてたから拾ったんだよ。後で先生に渡そうと思ってさ」
青は言った。
「ありがとう! 無くしたら大変だったから本当に助かったわ!」
女子は青をじっと見つめて、微笑んだ。まるで恋に落ちる瞬間を見ているみたいだった。ただ、財布を拾っただけの、男に。
「おい! 僕を犯人扱いしたことは?」
僕はハッとして口にする。もしも、青がこのタイミングで現れなかったら、僕は無理矢理、鞄の中を見られていた。
「あ、そうね。本当にごめんねー」
鼻にかかるぶりっ子な声色。青が目の前にいるから、無意識にやっているのだろう。
「大金持ってくるなら、肌身離さず持っておけよ」
青が言った。僕の気持ちを代弁してくれた。女子は、ふふふと笑って自分の席に戻っていった。
僕は、そっと青を見た。彼はふっと笑った。白い肌。彼にだけしか出せない、少年と大人の中間みたいな、色っぽさ。なんだこのやろう、本当にかっこいいな。
僕もつられて微笑んでしまう。
「助けてくれてありがとう。犯人にされるところだった」
僕が安堵の表情を浮かべた。
「鞄の中を見せれば、犯人にはならなかっただろ? 見られたくないもんでも入ってたの? エロ本?」
青はじっと僕を見ていた。
「まあ、そんな感じ」
「なるほどねえ」
青は窓の外に目をやり、髪をかきあげた。少し空いた窓の隙間から潮風の匂いがする。
僕が青と初めて会話をしたのは、この時だった。
***
青は、僕からすると信じられないくらい友達が多かった。
彼をどこで見かけても、周りにたくさんの男女が集まっていた。突き抜けるように明るく笑う彼をよく見ていた。自分とは、全く正反対の人間だと思っていた。
青に比べて、僕はかっこよくないし、友達も少ない。
だから、彼と親しくなることはないと思っていた。
しかし、しばらくして彼は放課後、よくひとりで図書室に来るようになった。
僕は一年生のときから、この学校の図書室のヘビーユーザーだったのでーーとにかく図書室が広く本の種類が豊富だったーー、彼とは当然顔を合わせる機会が増えた。
初めて図書室で見かけたとき、彼も読書家なんだろうか? と思ったが、本を借りたり、読んだりする素振りは全くなかった。
彼はいつも、放課後やってきて、ちょうど本棚と本棚の死角で入り口から全く見えない席に座り、ぼうっと窓の外を見ていた。時には張り詰めたような表情すら浮かべながら。
すぐに図書室にもやってこなくなるだろうと思っていたけれど、六月になってもそれが続いたので、僕は思い切って話しかけてみることにした。
「や、やあ・・・・・・」
僕はそう言って、テーブルを挟んで青の目の前に座った。
図書室はいつも、古い紙と新しい紙の独特な匂いが混じり合っている。長引く梅雨で、窓の外の木々の葉はいつもより重く茂っている。
「やあ。秀才」
青は言った。
「秀才?」
僕が聞くと、
「お前、この学校で一番頭いいんだってな」
と、青は頬杖をつきながら僕を見た。
「そんなことないよ」
「おいおい、この前の地理の小テストで9点しか取れなかった俺にそんなこと言う?」
彼はふっと笑って、また外に目をやった。それで、ぎゅっと突き刺さるように切なく目を伏せた。
「海野くんさ、ここのところよく図書室来るよね。なにか考え事してるの?」
僕が訊くと、青はきっと鋭い目線をぶつけてきた。あまり仲がいいわけでもないのに、突っ込んだことを聞いてしまったかもしれないと、話しかけたことを後悔した。
「いっつも考えてる」
青はそう言った。
「そ、そっか」
その場がしんとして、なんとなく気まずい空気が流れていた。
「なあ」
「な、なに?」
「頭いいなら、なんでも知ってるの?」
「なんでも?」
青にそう訊かれ、僕は勉強のことかなにかかなと思った。
「うんこ味のカレーと、カレー味のうんこなら、どっちがマシかな?」
青は真剣なまなざしでそう訊いた。
「そ、そんなどうでもいいことずっと考えてたの?」
僕は思わず深いため息をついた。くだらなすぎる、と呆れた。
「どうでもいいこと? 究極の選択じゃん」
青は言った。
「僕はどっちも無理だね」
僕は言った。
「それじゃ質問の意味ないじゃんよ」
「どっちも無理なものは無理!」
「そりゃ俺だって、嫌だよ!」
青が思わず声を張り上げて否定したので、僕はクスッと笑ってしまった。
「なあ、あの時さ」
青が呟くように話し始めた。
「なんで俺が財布を盗んだとは思わなかったの?」
「え?」
「いや、だって、俺が財布盗んだかもしれないじゃん。みんなは、俺があいつの鞄から財布を抜き取ったとは、思わないのかね?」
青の言葉に、なかなかうまく返答ができなかった。短い沈黙の後に僕は、
「海野くん、財布盗んだの?」
と、そっと訊いた。
「どっちだと思う?」
「とってないと思う!」
僕は語気を強くする。
「へえ。どうしてそう思う?」
「本当にとったのなら、あの時だって僕を助ける必要なんてないから。黙ってれば、僕は鞄を漁られて、でも結局そこには財布はなくて、みんなも、じゃあどうした? どっかで落としたんだろ。可哀想にな、で終わったんだよ」
僕が必死に発する言葉たちを、青はなぜか朗らかな笑みを浮かべながら訊いている。
「財布の中には3万入ってたぜ」
と、青が言った。
「中身見たの?」
「見たよ」
「なんのために?」
僕は少し残念な気持ちになった。もしかしたら、彼は本当にとったのかもしれないと。
「財布拾って、中身見ないやついるの?」
あっけらかんと、青は言う。
「まあ、そうだけど……」
「自分でも不思議に思うんだよ。俺は別にいいやつじゃないだろ? でもこういったたぐいのことでは全く疑われたことがないんだよな。こういったってのは、誰かを傷つけるようなことさ」
僕はきっと険しい表情を浮かべていたのだろう。青は、
「じゃあさ、質問を変えよう」
と、急に明るい声を発した。さっきまでのなんとなく重くて息苦しい雰囲気がぽんっと急に変わる。
「うん。もっと答えやすい質問がいいな」
僕が安心しきってそう言うと、青はまた少し憂いを含んだ目をした。
「買う方と売る方は、どっちの方が悪い?」
青のその質問は、また訳がわからなかった。
「買う方と売る方、どっちもいなきゃ成り立たないから、悪いなんてないんじゃない?」
僕は答えた。
「だから、どっちかっていったらだよ」
青は、はっきりしない僕の返事に少し苛立っているようだった。
「需要と供給だからなあ・・・・・・」
「俺は買う方がいるから、売る方がいると思ってる。だから、買う方が悪いと思ってる」
青はキッパリと言い切った。
「でもさ、買う側がいないと、売る側は生きていけないよ?」
僕がそう言うと、彼は急に立ち上がり、図書室の出口に向かっていった。なにか悪いことを言ってしまったのかもしれない、と彼の後ろ姿に向かって、声をかける。
「海野くん! なんかごめんね」
僕のこの「なんか」には、彼の質問に対する僕の返答のなにが間違っていたのか、わからなかったからだ。僕はなにも悪いことはしていない。だけど、彼にはなんとなく嫌われたくなかった。
青は出口付近で振り返り、僕を見た。
「謝らなくていいよ」
彼はそう言って、さっきまでの張り詰めた空気が嘘みたいに、クシャッと皺を寄せて笑った。
「青でいいよ」
「え?」
「海野くん、なんて言うやつ、お前だけだよ。青って呼んでくれ」
青は言った。
「じゃあ、またな。秀才!」
そう言って、彼は踵を返した。
怒ってなくてよかったと安堵すると同時に、彼との距離が縮まった気がして嬉しかった。
それは本当に嬉しかった。
もっと仲良くなりたいと思った。