プロローグ
「う~。遅刻! 遅刻~!」
俺は花輪 牛一郎。教員免許を取ったはいいが、どこからも雇ってもらえずバイトで食いつないでいた就職浪人だ。
しかし、それもこの1月でお終いになる。運よく病欠となった教師の代わりで非常勤として私立の教員として働けることになったのだ。
職場の近くのアパートに引っ越し、今日が初出勤……というところだったが、携帯のアラーム設定をミスり遅刻寸前だ。
「初日から、遅刻なんてシャレにならない!」
遅刻寸前の焦りと、土地勘の少ない場所。
普通なら注意する所にまったく気が付かなかった。
見通しの悪い曲がり角をスピードを落とさず曲がる。
きっと誰もいないはず……。そんな目論見は見事に外れることになる。
曲がり角を曲がって目に飛び込んできたもの。それは……黄金の牛だった。
パンを咥えた女子高生でもなく、運転手が過労で居眠り運転をしているトラックでもない。
本当に金色の光を放つ牛。しかも、牧場にいるようなのどかな雰囲気ではなくマタドールに襲い掛からんとする闘牛のそれだ。
その牛が全力で突進してきている。
「えっ?!?!?」
ここは町中だ。近くに牧場なんてない。そもそも、目の前の牛は牧場に収まるようなやつではない。
何でと思うと同時にとてつもない衝撃を体に受け、牛一郎は宙を舞った。
受け身も取れず、アスファルトに叩き落される。
何が起こったか理解しようとしても頭は働かず、指一本すら動かせない。
視界が赤く染まる中、意識すらぼやけてきた。
「(し……死ぬ? 嘘……だ……ろ……。ああ……やばい……本気で……だ……だれか……俺のPCの秘密……フォルダのデータ……消して……くれ……)」
死を覚悟した瞬間、頭に思い浮かんだのは自分のPCのHDの中にある18禁の同人誌データやエロ画像を家族に見られる恐怖だった……。
「(……あれ……指が……動く……)」
先ほどまで全く動かせなかった指の感覚が戻った。それどころか痛みもない。
「(なんだ? ……もしかして助かったの……うおっ!!)」
運よく急所が外れ突き飛ばされただけと思って目を開くとそこは見慣れない場所だった。
白い石でできた神殿のような場所。そしてその神殿に祭られているのは見上げるほどに高く黄金でできた牛の像だ。
「な……なんだこれ!!」
牛一郎が思わず声を上げるとどこからか声が響いた。いや、この空間自体から出ているような感じだ。
『ここは……私の神殿……。申し訳ありませんが、貴方を私の世界に招かせていただきました』
いったい何が起こっているのかわからず、声を上げようとすると別の声が聞こえた。
「あなたが謝る必要はない。この場で咎められるのは私だけだ。というわけで、私から説明させてもらう。そちらの世界の花輪牛一郎」
振り返ると、そこには人が立っていた。しかも見覚えがある。間違えるはずがない。そこには自分とそっくり……いやまったく同じ顔、同じ姿の花輪牛一郎が立っていた。
「私は君から見ると別世界……この女神が管理する世界の花輪牛一郎だ」
目の前の牛一郎がそびえたつ黄金の牛の像を見上げる。
「簡単に経緯を説明すると、私は死んだ。しかし、私にはやらなければならないことがある。だから、女神に頼み、無数にある別世界から同日同時刻に死ぬはずだった花輪牛一郎……つまり君を私として生き返らせることにした」
「へ? は? いったい何を言ってるんだよ????」
わけがわからずおろおろうろたえる牛一郎を目にし、目の前の牛一郎はため息をつく。
「はあ……。向こうの世界の私はだいぶ抜けてるな……本当に大丈夫か?」
『では、諦めますか? 貴方が死ぬことは覆りません。それでも貴方は願い、私の提案を受け入れた。今更、それは取り消せません』
「……わかっています。虫のいい戯言をかなえていただいた以上、言うことはありません」
牛太郎のことなどお構いなしに目の前の別世界の牛太郎と牛の像の女神が話しあっている。
『すいませんね。私が詳しく説明します』
そういわれて受けた説明で、牛太郎はあの時本当なら暴走トラックにひかれて死ぬはずだったこと。そこを女神が介入し魂を自分の世界に持ち帰ったこと。
理由は、死んで魂が消える自分の世界の牛太郎の代わりに、彼の願いをかなえてほしいとのことだった。
「……。言いたいことはわかった。理解できないが……ってあれ!! なんか体が沈んでいるんだけど!!!」
足元を見ると石の床に足がずぶずぶと沈んでいる。
『魂を体に戻しています。本来ここに人を連れてきてはいけないので……』
「まて! 俺はまだやるともいってない!!」
いきなり連れてこられ、向こうの世界で死んだのだから、他人(こっちの世界の自分とはいえ)の願いをかなえろと言われて納得できるはずがない。
『ですが、もう対価は払ってますので……途中でキャンセルはできません』
「へっ? そんなもの俺はもらってない!!」
断言できる。この牛の像の女神からは何ももらっていない。だが、抵抗しようとしてもどんどん沈んでいく。
『いえ。確かに消しました。あなたのPCの秘密フォルダのデータ。完全に消してまったく別のデータに入れ替えておきました。家族にあなたが大事にしていたデータは絶対に見られません』
牛太郎はその言葉に思考が一瞬停止した。
「……え……あ……いや……確かに願ったけどもぉおお~~!!!」
悲痛な叫び声と共に牛太郎は完全に床に沈み込んだ。
『……これでよろしかったので? 貴方の本当の願いは貴方自身がかなえないと意味がないと思うのですが……』
「いや……。できもしない夢を口にして多くの夢を巻き込んだ俺にその資格はない」
そういって、女神の世界の牛太郎は床を見つめる。
「頼むぞ……別世界の俺……。必ず……必ず……世界一の牛乙女を育て上げてくれ……」
拳を握り締め、牛太郎はじっと床を見つめていた……。