表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

あるAV女優の失踪

作者: 青井青

「里崎ィ!」


 突然、名前を呼ばれ、部屋の隅に立っていた僕は「はいっ」と返事をし、監督のもとに駆け寄った。


「なんだ、この(のり)! 薄くて使えねえぞ」


「すいません。すぐ作り直します!」


 僕は部屋を飛び出すと、階段を降りて一階のキッチンに入った。冷蔵庫から卵を取り出し、ボウルに割り入れ、スプーンで丁寧に黄身部分をすくって捨てた。


 糊とは、AV撮影の現場で使う疑似精液のことだ。卵の白身をベースに、コンデンスミルクやデンプンを加え、ドロドロした感じにする。


 作るのはADである僕の仕事だ。いい糊を作ると褒められ、悪ければ今回のようにドヤされる。


 スポイトで白い液体を吸い込み、キッチンを飛び出すと、僕は再び階段を駆け上がった――。


 ◇


 朝から続いていた撮影は一段落し、昼食休憩に入っていた。スタッフたちは一軒家を模したスタジオの思い思いの場所でお弁当を食べていた(女優さんにだけは一部屋があてがわれていた)。


 ADの僕はリビングの隅で一人で弁当をつついていた。


 高校を出た後、映画の専門学校に入学したが、卒業しても就職先がなく、三年ほど前からAVメーカーで働くことになった。この業界、そういう人はけっこう多い。


「富士の樹海でアイの死体が見つかったんだって?」


 監督の声が聞こえ、僕は箸を止めた。


「いやあ、あれ、別人みたいですよ」


 白いガウンを羽織ったAV男優が否定をする。


「そっか……どっちにしろ、もう今頃は死んでんだろなぁ……山に埋められたのか、海に沈められたのかは知らねえけど……もったいないよな、あんなに人気があって、まだまだ稼げたのによ……」


 二人の会話に聞き耳を立てながら、僕は黙々と箸を動かした。


 半年ほど前、人気AV女優のアイは、突然、自宅のマンションから失踪した。以来、ずっと行方不明だった。


 ネットでは、愛人として付き合っていたヤクザに殺されたとか、借金を背負って夜逃げしたとか、根拠のない噂があれこれ書き込まれていた。


 僕の脳裏にアイさんとの思い出がよみがえる。


 撮影で大きな失敗して監督にドヤされ、スタジオの隅で落ち込んでいると、白いガウンを羽織ったアイさんがやってきて、缶コーヒーを差し出した。


「はい、これ飲んで元気出して」


「……ありがとうございます」


 アイさんは僕の隣にちょこんと膝を抱えるように座った。


「里崎クンって出身は富山だっけ?」


「ええ、そうですけど……」


「私、新潟なんだ。同じ北陸出身だから親近感を勝手に抱いていたの。よろしくね」


「はい……」


 僕はそう答えるのが精一杯だった。人気AV女優が自分のような下っ端ADに声を掛けてくれることなどめったにない。


「あ、新潟が北陸じゃないとかは言いっこなしね」


 そう言ってアイさんはいたずらっぽく笑った。


 僕はアイさんの大ファンになった。なるべく彼女の撮影に入るようにし、現場ではいつも彼女の姿を追うようになった。


 恋心がなかったかと言えば嘘になる。だが、告白などできるわけがない。相手は超人気女優。別世界の人間だ。何よりスタッフが女優に手を出したのがバレたら、ただでは済まない。


 だから、それは僕の胸のうちだけに秘めた恋だった。


 ある日、アイさんは失踪した。半年ほど前のクリスマスイブだった。取材場所に現われない彼女を不審に思い、事務所のスタッフが渋谷にあるタワマンの21階の部屋を訪れたところ、アイさんは消えていた。


 エアコンも入れっぱなしで、彼女の飼っていた小型犬のトイプードルもそのままいた。噂では、床には血痕らしきものが残っていたらしい。

 

 所属プロダクションが警察に失踪届を出したが、今日にいたるまでアイさんの消息はわかっていない。


 再び監督の潜めたような声が聞こえてきた。


「……アイって、いろいろヤバい噂があったよな。ヤクザの愛人やっててヤク中だとか……」


「体に注射の痕はなかったッスけどね」


「逃げるとき、ヤクザの金庫から1億盗んでったらしいぞ。連中にさらわれたのもそのせいだって」


「まじッスか」


 二人の話を聞きながら、僕はアイさんのことを思い浮かべていた。

 

 彼女自身は自分の過去を話さなかったが、壮絶な家庭環境で育ったという噂は聞いた。もともとAV業界に入ったのも親の借金を返すためだったという。


「里崎さん、お茶飲みますか?」


 若い女の声がして僕は顔を上げた。


 同じADの大久保恵那が麦茶のペットボトルを持っていた。彼女は最近、現場に入ってきた新人だ。このAVメーカーで働きはじめて三年、初めて僕の下についた〝後輩〟である。


 出身は北海道で、顔は地味というか、お世辞にも美人と言えないが、垢抜けない感じが純朴そうで僕は好感を抱いていた。良く気が利くし、何より仕事覚えが抜群に早かった。


 紙コップに麦茶を注ぎながら、大久保恵那が訊いてきた。


「……里崎さんって、犬を飼われてるんですか?」


「うん……僕がもとから飼ってた犬じゃないんだけどね」 


 女優のアイさんが飼っていた小型犬のトイプードル。プロダクションの人から引き取り手がいないと聞き、僕がとりあえず預かることにした。


 アイさんは犬を溺愛していて、よく撮影現場でもスマホで写真を見せてくれた。彼女の大事にしていた犬が保健所に送られるのは嫌だった。


「いいなぁ……私も犬、大好きなんです。いつか飼ってみたいです。一人暮らしなんですよね?」


「うん……でも今のアパート、ペットOKってわけじゃないから、引っ越そうかと思ってるんだ」


 今は隠れて飼っていて、散歩は朝、出勤する前にしていた。最初は僕になつかず、よく唸られたが、半年たってようやく心を開くようになってきた。


(あのアイさんが犬を残して失踪するなんて……)


 よほどの事情があったのだろう。部屋には血痕があったとも聞くし、ヤクザに消されたという話にも説得力があった。


 死体が見つかったわけではないので、アイさんが亡くなったという話を僕はまだ受け入れられずにいた。


 だが、半年の月日がたち、日々の仕事に追われるうち、彼女のことを思い出す機会も減ってきているのも事実だった。


 その日の撮影が終わり、スタジオの掃除や後片付けをしていると、大久保恵那がやってきて、遠慮がちに訊いてきた。


「あの……今日、何かご予定ありますか?」


「いや……ないけど」


 牛丼でも買ってアパートに帰ろうと思っていた。トイプードルはさみしがり屋なので、早く家に戻ってやりたかった。


「今日、私、里崎さんの家に行っちゃダメですか? ワンちゃん見たいんです」


 僕は目を丸くして後輩の顔を見つめた。


 彼女は一月ほど前にウチの会社に入ってきた新人ADで、仕事のことでいろいろ話す機会はあったけれど、プライベートでの付き合いはほとんどなかった。いきなり家に行きたいと言われ、面食らった。


「うん、いいけど……」


 戸惑いながらも僕はそう答えた。


 ◇


「散らかってるけど、そのへんに座ってよ」


 僕は大久保さんに部屋の空いている場所を指し示した。


 部屋は6畳ほどの1Kで、壁に寄せてベッドが置かれ、フローリングの床に脚の短い丸テーブルがあった。


 キャンキャンという声がして、小型犬が僕の足元にまとわりついてくる。トイプードルを見た大久保さんが顔を輝かせる。


「わー、かわいい」


 犬は大久保さんの足の周りをグルグルと回った。彼女が腰をかがめると、指をペロペロと舐めた。


「大久保さんって犬に好かれるんだね。知らない人に会ったら、こいつ、いつもウーウー吠えるのに」


 犬の頭を優しそうに撫でる大久保さんの顔を僕は見つめた。


 若い女の子が男の一人暮らしの家に来たいなんて。彼女の行動をどう解釈していいのか、僕は判断しかねていた。


(まさか僕のことを……って、ないない。あるわけない……よっぽど犬が好きなんだろうな……)


 その後、床に座り、ちゃぶ台代わりの丸テーブルで買ってきたお弁当を二人で食べながら、おしゃべりをした。好きな映画やドラマ、漫画など、他愛もない話ばかりだ。やがて学生時代の話になった。


「へー、大久保さんって陸上部だったんだ」


「中学のときですけどね。ハードルをやってました。昔の写真、見ます?」


 彼女はスマホで写真を見せてくれた。そこには陸上のユニフォーム姿でピースサインをする中学生の大久保さんの姿が写っていた。


「へー、きまってるね。かっこいいじゃん」


「里崎さんは?」


「中学は帰宅部、高校で映画研究会に入ってたけど、ほとんど幽霊部員。まあ、筋金入りの陰キャだね、はは……」


「映画、お好きなんですね」


「うん……いつか映画を撮りたいなって思ってるんだ」


 こんな風に自分の夢を語ったのは初めてだった。いや、違う。アイさんにも同じことを話した。彼女は笑ったりせず、「がんばってね。いつか里崎クンの映画を見るのを楽しみにしてるね」と言ってくれた。


 僕たちはベッドに背中を預け、並んでテレビを見ていた。最初はキャンキャンと鳴いていた犬も疲れたのか、ペット用の小さなベッドで丸まって寝てしまった。


 僕はちらっと枕元の目覚まし時計を見た。終電の時間が迫っていた。言おうか迷っていると――


「今日、泊まっていいですか?」


 不意に大久保さんの声がした。え? と思っていると、恵那が顔を寄せ、唇を重ねてきた。柔らかい感触にドキドキする。


 映画学校時代、付き合っていた女の子がいたが、すぐに別の男に奪われ、それ以来、親しい女の子はいなかった。


「消しますね」


 大久保さんはリモコンで天井のシーリングライトを消し、僕たちは再びキスをした。薄闇の中、互いの服を脱がせ、もつれ合うようにベッドに倒れこんだ。


 ◇


 ――翌朝、裸の僕はベッドの上で目を覚ました。


 大久保さんの姿は消えていた。ついでに言えばトイプードルもいなくなっていた。テーブルの上にメモが残されていた。


『犬は連れていきます。里崎さんの作った映画をいつか見れる日を楽しみにしてます』


 メモを手に僕は困惑していた。何がなんだかわからなかった。会社の後輩が家に泊まりに来て、僕と寝た翌朝、犬をさらって消えてしまった。


 メモの片隅で僕の目がとまった。


(キスマーク?……)


 口紅の痕があった。それをじっと見ていた僕の目が細まった。本棚に行き、床に膝をつき、雑誌などの大きな本が入っているいちばん下の段をあさるように探し始めた。


(たしかこのあたりに……あった!)


 クリアファイルに色紙が挟まれていた。AV女優のアイのサインだ。DVDの販促イベントでサインを書き損じ、処分されそうになった色紙をこっそり家に持ち帰ったのだ。


 彼女はファンにサインをするとき、色紙の隅にキスマークをつけた。僕はメモ用紙のキスマークと色紙のそれを比較する。一種、花の蕾みのように見える、すぼめた唇の形が特徴的だった。


(同じだ……)


 そのときにはもう気づいていた。大久保恵那が人気女優のアイだったのだ。


 アイはこの世界に入るにあたり、整形をしたらしい。というか、整形をしていないAV女優などまずいない。


 恐らくヤクザの追っ手から逃れるために、彼女は〝逆整形〟をして、元の顔に戻したのだ。自分の人生を取り戻すために――


 家に来たのは犬を連れ戻すためだろう。なぜ僕と寝たのかはわからない。犬を預かってくれたことへのお礼か、大ファンだった僕への〝置き土産〟のつもりだったのか。


(アイさん、生きていたんだ……)


 メモを握りしめ、僕は胸の中に温かい気持ちがふくれあがるのを感じた。


 ◇


 ――翌日、出社をすると、大久保恵那が会社を辞めたことを知らされた。「メール一本で辞めるなんて、真面目そうに見えたけど、やっぱり今どきのコだよ」と社長は愚痴っていた。


 僕は笑みを隠しながら「現場、行ってきまーす」と、機材の入ったバッグを肩に担ぎ、会社を出た。


 ビルの外に出ると、陽光が降り注いできた。透き通るような青空を僕はまぶしそうに見上げた。


(さようなら、アイさん、お元気で)


(完)

追悼:飯島愛(1972 - 2008)

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 末尾の追悼まで読み改めて頭から読み返して見ると、アイという名前の響きも含め、私のようなおっさんの心の中にモヤモヤと残っている物を刺激される。
[気になる点] トイプードルを引き取った最初、「懐かなかった」のが、後輩ADが来た時、人懐こくなっているところかな・・・ [一言] 読み易いし、ウマいね!
[良い点] めちゃんこ良かったです!(´;ω;`)
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ