その三
ある日の昼休み、A君は虐めっこグループに掴まって、毎度のように玩具にされていたのだが、この日は机を二つ積み重ねた上に置かれた椅子の上に正座をさせられ、歌だか朗読だか内容は忘れたが虐めっ子グループの要求を終えるまでは絶対に降ろさないゲームとやらを強いられていた。
当時の学童机は使い古された木製であり、4本の足の高さが微妙に違っていたので、普通に床置きにしてもガタガタと揺れるほどだったのに、それを2段重ねにし、似たような古い作りの木製椅子を重ねたのだから、不安定なことこの上ない。
そこに無理矢理追い上げられたA君だが、それだけでも怖いのに、下では虐めっ子たちが笑いながら机や椅子を揺らしたり足で蹴ったりするので、半泣きで歌や朗読どころの話ではなくなっていた。
このまま続けさせたら間違いなく事故になるかもとは、周囲にいた者なら一様に感じていただろう。
しかし、誰もA君を助けようとしないのは毎度のことだった。
「止めろ! 」
その一言を発したのはもちろん私。
虐めっ子グループの連中が一様に「うるせぇ奴が来た」という顔をした。
彼らにとって私は、いつも楽しい遊びの最中に水を差しに来る厄介な奴だった。
確か4人組だったと思うが、揃ったら男女の区別なく暴力を振るうような連中が、体格差がある私には手を出せずに、せいぜい凄んで見せるぐらいしかできなかった。
この時も、虐めっ子グループは私の制止に対して素直な態度は見せず、罵声を浴びせたり、正義感的な行動を冷やかしたり馬鹿にしたりするような言葉を吐きながら、暫くは粘っていた。
いざとなったら、力づくという対応がある程度許された時代なので、どうしても言うことを聞かなかったら抑えつけるくらいはしようと最初から思っていたのだが、厄介だったのはA君が不安定な積み木の上にいるということだった。
高さは2メートル以上もあったと思うが、下手に私が虐めっ子グループと揉み合ったら、その拍子にA君を落下させてしまうかもしれない。
だから、私は言葉のみでの対応をすることにして、正論と多少の脅し文句を取り交ぜて、まずはA君を下ろせと諭したつもりだった。
こういう時の私は。今も昔も怖いらしい。
大学で教えていたゼミの学生たちも、正論と説教と脅しをブレンドして詰め寄ってくる私の講評の仕方は怖いと言っていた。
正論で逃げ道を塞いでから、じわじわと弱点を潰し、四方から圧迫してくるのが常のやり方らしく、この時の虐めっ子グループも、それを食らったのだと思う。
ブツブツ言いながらも、リーダー格の虐めっ子が引き下がり掛けた。
それに同調して他の虐めっ子たちも下がろうとしたのだが、その中の一人が何を思ったのか、
「ちっ! くそが! 」
と、小さく吐き捨ててから、A君が乗ったままの積み木の下の段を蹴飛ばしたのだ。
わざとでは無かったと思う。
単に去り際、腹立ち紛れに石ころを蹴るようなつもりで、A君を乗せていたことなど、すっかり忘れて蹴ってしまったのだと思う。
当り前だが、積み木は一瞬で崩れた。
机が大きな音を立てて床を撃ちつけ、椅子は背凭れと足が2本折れてしまった。
その途端に、虐めっ子たちはもちろん、成り行きを見守っていたクラスメイト達も、目の前で起きたことの重大さに気付き、私も含めて一斉に顔面蒼白になった。
意外だったのは、A君が無傷だったこと。
怪我をしたのは落ちてきた椅子と机とA君の直撃を受けた二人の虐めっ子だった。
そのうちの一人は下の段を蹴り飛ばした張本人なので自業自得と言うべきだろう。
二人とも肩や腕を抑えて蹲っていたので怪我をしているのは一目瞭然だった。
よほど痛かったのか、もしくは驚いてパニくってしまったのか、少し前までA君を虐めながら粋がって騒いでいたとは思えないほどの情けない顔で声を出しながら泣いていた。
クラスメイトたちはもちろん、虐めっ子のリーダー格も呆然としてしまっていて、誰も動かず、声も発しない状況の中で、
「行くぞ! 保健室。誰か、先生に言っといて! 」
何というか、私はお人好しだったのかも知れない。
自分に敵意を剥き出しにしていた二人の虐めっ子を立たせ、その背中を押すようにして保健室に連れて行ったのだ。
その時は、そうすることが正しいと思ったのだ。
もしも、“良い子のマニュアル” 的なモノがあるなら、そこに書かれているであろう基本的な行動を取ろうと思っただけなのかもしれない。
まあ、何にせよ、私が取った行動のおかげで、虐めっ子二人は教員の運転する車で速やかに近所の整形外科病院に連れていかれ、そこで一人は肩の脱臼と腕の捻挫、もう一人は腕の捻挫のみという軽傷の診断を受けることができたわけだ。
そこまでは良かった。
問題は私が教室に戻ってからの話である。
教室で私を待ち構えていたのはクラスメイトではなかった。
仲良しを心配する虐めっ子のリーダー格でもなかった。
私を待っていたのは烈火の如く怒った担任の体育教師だった。
「お前が、いったい何をしでかしたのか言ってみろっ! 」
いきなりの怒声に、頭が真っ白になったのを憶えている。
何が何だか分からないまま、
「へ? 何って? 何? 」
そんな呆けた返事が口から出てきた次の瞬間、私の身体は真後ろに吹っ飛ばされて、今後ろ手で閉めたばかりの教室のドアへ背中をしたたかに撃ちつけた。
担任の拳骨が私の頬に炸裂したのだった。
体罰OKの昭和時代とはいえ、口の中が切れて、頬っぺたが腫れるほど殴られるなんてことは滅多に無かったと思うが、担任はよほど怒っていたのだろう。
しかし、私には何が何だか分からない。
担任に褒められこそすれ、殴られる憶えなど無かった。
しかし、
「ちょっと来い! 」
今度は担任に耳を掴まれ、教室の外に連れ出されて、そのまま廊下を引き摺られて職員室の向かいにあった生徒指導用の小部屋に放り込まれてしまった。
そのまま暫く一人きりにされた。
私は、何故自分がこんな目に合っているのか、小部屋の中で考えた。
思い当たる節は無いのだが、自分の身に起きている理不尽が、先ほど起きた虐めっ子たちの怪我に絡んでいそうな気はしていた。
一人にされてから30分ぐらい経っただろうか。
担任と学年主任が揃って鬼の形相でやってきた。
そして、二人の口から一方的な説教が始まった。
私が一番知りたい “何故、殴られたのか? ” について、一切の説明は無かった。
それを知るためには説教の内容を紐解くしかない。
だから、けっこう真剣に二人掛かりの説教に耳を傾けた。
で、分かった。
細かなことは兎も角として、大まかに掴めたことは、
[私は嫌がる虐めっ子二人を相手に無理矢理にプロレス技を掛けて怪我をさせた。]
[怪我して痛がっている二人に、先生には絶対に言うなと重ねて痛めつけながら脅した。]
[アラヤシキは日頃から暴力的で、副委員長を鼻に掛けていてクラスメイトは迷惑していたが、怖くて先生に言えずにいた。]
そういうことになっていたらしい。
どうやら、私が怪我した虐めっ子二人を保健室に連れて行ってる間に、虐めっ子のリーダー格の奴ともう一人が、一連の成り行きを見ていたクラスメイトたちを徹底的に脅し、それ以外の何が起きたか良く分かっていないクラスメイトたちには嘘を吹き込んで、事実を捻じ曲げてしまったのである。
ついでに、私が虐めっ子たちを保健室に連れて行ったのは、“親切心からではなく、移動の間に脅して口封じを万全にしようとしたからだった” 、というのも病院から二人が帰ってきてから間もなくして加えられたらしい。
二人の虐めっ子は私に脅されていたので最初は何も言わなかったのだが、仲間や先生たちが必ず守ってくれると約束したので安心して本当のことを言う気になった、ということになっていた。
こうした事実の歪曲に加えて、そこそこショックに感じたのは、虐めっ子の作り話に乗っかったクラスメイトたちの私への評価が「普段から正義風を吹かして鼻につく奴」だったらしいということ。
どうやら、これに懲りたら大人しくなるだろうとの意図が働いていたらしい。
さらには、“私に助けられたはずのA君が、虐めっ子側に回って一連の経緯を先頭に立って肯定していた” と、聞かされたことだった。
おそらく、「これから虐めないでやるから」とか何とか、取り引きを持ちかけられて乗ってしまったに違いない。
だとすれば、その取引は直ぐに反故にされている。
何故ならA君は、小学校を卒業するまで虐めっ子たちの標的だったのだから。
まあ、そんな感じで、これらの一連の経緯を聞かされた担任たちは激怒して、私の申し開きを聞くこともせず、一方的な説教に至ったのである。
せめて、虐めっ子のリーダーから聞かされた経緯を私に告げてから、事実確認ぐらいしてくれても良かったのに、そんな段取りは一切無かった。
テレビの時代劇に出てくる桜吹雪のお奉行さまなら、明らかな悪者相手でも一応「事実に相違ないな? 」とか聞いて、申し開きする機会も与えてくれていたのに、私の目の前にいる鬼奉行さまたちには、そんな面倒な段取りを挟む気は無かったらしい。
「俺は悪くない。だから、絶対に謝らない。」
今も憶えているが、これは私が説教の場で唯一口にした言葉である。
これ以外にも、私は自身の潔白を主張しかったのかもしれないが、そんな機会は与えられなかったように記憶している。
ほとんど一方的に大人の話を聞かされ続けるだけで、口を挟むことは許されず、そんな時間が延々と続いていた。
途中で何か書類のようなモノを書けと迫られたような気がするが、詳しくは憶えていない。
たぶん、拒否したと思う。
その後、決して自分の非を認めようとしない私に対する拘束時間は夕方までに及び、遂には担任から呼び出された父親が駆けつけてきて、我が子に代わって散々謝罪の言葉を口にしている姿を横目に見せられてから漸く解放された。
もちろん、帰宅してから父親にも殴られた。
「俺は悪くない。だから、絶対に謝らない。」
家でも、このセリフを口にした。
担任から聞かされた偽りの経緯を鵜吞みにする父親に対する反発もあって、只管に無言を貫いていた私が唯一口にした言葉だったが、これを言ったら即殴られてしまった。
「どうして、こんなことをしでかす子になってしまったの? 」
父親の説教を傍で一緒に聞いていた母親が、些か大袈裟に思える呟きを漏らしながら嘆いていたが、まるで息子が犯罪者にでもなってしまったような台詞だなと思った。
(何故、大人たちは私の言い分を一切聞こうとしなかったのだろう? )
この時の私の心情を全て憶えているわけではないのだが、今にしても思う。
せめて両親ぐらいは、私が何故 “絶対に謝らない” と、頑なに言い張っていたのか、不思議に思って欲しかったし、担任の一方的な言葉に疑問を持って欲しかった。
私は帰宅して以降ずっと、前述した言葉以外を一切口にしなかったが、
「これはホントのことなのか? 」
「お前の言い分を聞いてやろう。」
そんな言葉が投げ掛けられるのを、父親と母親には期待し、待っていたと思う。
両親や担任など大人なら誰でも良かった。
私に事情を聞いてくれたのなら、直ぐに全ての真実を吐き出して、自身の潔白を全力で主張し、ついでに救いも求めただろう。
だが、そんなことを聞いていくれる大人はいなかった。
だから私は、
「俺は悪くない。だから、絶対に謝らない。」
以外のセリフを口にできなかった。
(あれは、大人たちを試すような行為だったのかな? )
当時を振り返って、そんな風に考えることがある。
多くの子どもたちにとって、大人は正しさの基準である。
両親、教師、近所のオジサン、近所のオバサン、その他、身近にいる一般的な大人は全てが子どもたちのお手本であり、未熟な子どもたちは大人たちを見習わなければならないと教えられて育っていた。
そして、子どもの殆どは、その教えを忠実に守って日々を過ごしていた。
(大人もミスをするし、感情的になって間違った判断もする。)
そんなことは、大人になれば明らかになることなのだが、
(もしかしたら、そんな真実を早々と見つけてしまったことを面白がっていたのかも知れないな? )
だとしたら、嫌な子供である。