その二
(懐かしいこと、想い出しちゃったな。)
この話、二つある私の時間の両方に記憶されている。
(その時点では、未だ某国の干渉ってやつは行われてなかったのかもな。)
私が5歳で迎えた正月の話だから、1970年、昭和45年のことである。
記憶に齟齬が出始めるのは小学校に入学して以降のことである。
そこからは叔父の記憶も二重になってしまい、どちら側の時間の記憶なのか区別がつかなくなり、想い出の前後が上手く繋がらなくなったりもする。
でも、どちらの記憶の中にいても、叔父は私にとって尊敬し、信頼できる大人であり、時にはヒーローのような存在でさえあった。
(さてと、ヒーローに会いに行こうか。)
私は腰を上げ、医大病院に近い根津神社の西口に向かって歩き出した。
昔懐かしい想い出に浸っていたら、先ほどよりは随分心が軽くなった。
(よし! たぶん、今なら大丈夫。)
40年ぶりとはいえ、叔父の顔を見たなら、私の中の時間は直ぐに巻き戻されて、昔と同じく普通に親しく話せるだろう。
だから、もう心配はいらない。
そのつもりで、歩き出した。
◇
医大病院の入り口の前で、たまたま買い物に出掛けていた叔母に出会い、そのまま二人して叔父の病室に向かった。
叔父が亡くなってから、叔母は従妹と共に実家に帰り、それ以降は一度も会っていない。
叔父と叔母は職場恋愛で結婚したらしく、夫婦仲はたいへん良かったと記憶している。
叔母は決して美人ではなかったが、人当たりの好い性格で、私の両親とも直ぐに打ち解けていたし、叔父と同様に子どもの頃の私の良い遊び相手にもなってくれていた。
そんな叔母も2027年では既に亡くなっているに違いないのだが、それがいつのことなのかは、誰からも伝わってこなかった。
叔母の案内で病室の入り口を潜り、3年ぶりに対面した叔父の姿は、思わず顔を伏せてしまいたくなるほどに痩せ細っており、自分の力だけでは身体を起こすこともできないほどに衰弱していた。
若い頃に大学ラグビーで鍛えたという頑丈な体格が自慢で、毎日の筋トレを欠かさない健康を絵に描いたような叔父だったのに、見る影もなくなってしまっていた。
事前に両親から聞かされてはいたが、想像以上の変わりように驚いてしまい、会って直ぐは挨拶の言葉さえも出てこなかった。
病室に入る前に叔母の口から聞いた話によると、抗がん剤による治療と強い鎮痛剤の影響により、常に意識は朦朧としており、口も満足に動かせないので会話にも苦労する有様だという。
それでも、見舞いに来た私の姿を見た叔父は嬉しそうにしてくれて、絞り出すような声で、「元気だったか?」、「飯はちゃんと食ってるか?」とか、「早く嫁さんを見せてくれよ」、「今度、退院したら一緒に飲みに行こうな」などと、気安く言葉を掛けてくれた。
そんな叔父の言葉に、私はできる限りの平静を装いながら笑顔で答えを返していた。
しかし、今日、見舞いに訪れる前までは元気だった頃の叔父しか知らずにいた私は、目の前のベッドに横たわっている別人のように変わり果てた姿を見ているうちに、だんだん胸が苦しくなってきて、目を合わせているのが辛くて、ついつい顔を反らしがちになってしまっていた。
それを隠すために、何度か理由を付けて席を外したり、叔母を無理矢理会話に引き込んだりと、見舞いの時間中ずっと、病人を前にしながら不自然で、落ち着きが無く、自分が嫌になるほど大人気ない様子を見せてしまっていた。
おそらく、叔父は私が何故そんな風になってしまっているのかには気付いていただろう。
叔父は、既に回復の見込みなど望めない程に衰弱していたし、現在の自分の姿が人の目にどう映っているかも自覚してもいたに違いない。
だから、3年ぶりに会った私が動揺して、戸惑ってしまうことなど、十分に承知していたと思う。
それなのに、「今度、退院したら一緒に飲みに行こうな」などと、絶対に適わない約束だと知っていながら、精一杯に強がって見せる。
どんなに痩せ細り、衰弱していたとしても、叔父の性格は昔のまま変わらずにいた。
そんな叔父を見ているのが、私はとても辛くて堪らなかった。
この日、病室にいたのは2時間ほど。
話し疲れた叔父が眠ってしまったところで、今日は帰ることにした。
帰り際、叔母には「必ず、またお見舞いに来てね」と、何度も念を押された。
「できるだけ、時間作ります」と答えはしたが、それが叶うかどうかは分からなかった。
アルバイトが再開されれば年末年始は休みも取り辛くなり、忙しくなることが分かり切っていたということもある。
だが、見舞いを確約できなかったのは、それだけが理由ではない。
今日、ベッドに横たわる叔父の姿を見ているのが辛くてどうしようもなかったのである。
弱々しく掠れてしまった声で、以前のように気安い話題を持ち出して強がって見せる様子を見ていられなかったのである。
何をするにも叔母や看護師の手を借りなければならず、苦し気に笑って見せる叔父に、どんな顔を返せば良いのか分からなかったのである。
叔父が存命の内に何度でも会っておきたいという気持ちはある。
叔父を慕う気持ちは、今も持ち続けている。
しかし、毎回訪れる度、こんな思いをしなければならないのかと思うと、見舞いに足を運ぶ自信がない。
(もう会えないかもしれない。)
もしかしたら、今日が別れになるかもしれない。
そんなことを考えながら、私は医大病院を後にしていた。
◇
これは、私の中に二つある時間、そのうちの一つで起きた出来事である。
小学校4年生の頃、私は勉強も運動もクラスの中では中の上くらい、特に目立った活動もしていない平凡な子どもだった。
但し、同学年の男子に比べたら身長はかなり大きい方であり、力も強くて腕相撲などすれば、5年生や6年生を相手にしても引けを取らないほどだった。
昭和の子どもたちの間では、そんな社会的には何の価値も無い、単純で些細な自慢ごとが意外に尊重されることが度々あって、時にはそれを基準にしてヒエラルキーが形成されたりすることがある。
この当時の私は、大きいことと強いことの二つでクラス内のヒエラルキーに於いて上位に置かれており、同級生たちや担任教師にも一目置かれ、本来の資質は兎も角としてリーダーシップを取らされたり、何かにつけ代表を任されたり、子ども同士の相談事を持ち込まれるような立場にあった。
やんちゃで悪戯好きな本来の性格を抑えて、そこそこ良い子でいなければならないのが少々痛かったし、面倒臭いことも多かったが、それでもけっこう人に頼られるというのは気持ちの良いモノであり、それなりに居心地の良いポジションをキープして、毎日が楽しい学校生活を送れていたと思う。
当時、都市部に学区を持つ小学校の多くでは、1クラスの平均人数が40人を軽く超えていて、様々な性格、様々な家庭環境の子どもたちが狭い教室に会し、肘がぶつかるほどの距離で机を並べ、皆で同じ授業を受け、同じ給食を食べ、掃除当番をこなすなどして集団による生活を過ごしていた。
その中には私のように持ち上げられる子どもがいれば、その正反対の扱いを受けて辛い学校生活を送らなければならない子どももいる。
現在と同様に、子ども同士の村社会に於いて、ストレスの捌け口や娯楽の一環として虐めにあう者も当然のようにいた。
ご多分に漏れず、私が在籍していたクラスにも、A君という男子がいて、その子が性質の悪い不良的なグループの標的になって虐めにあっていたのだが、A君はごく普通のサラリーマン家庭の子で、勉強と運動のどちらもクラスの中くらい、活発ではないが、別に大人しいわけでもない、本人に虐められる原因など全く見当たらない子だった。
だから、始まりは他愛もない些細な切っ掛けだったと思う。
虐められる側、虐める側、双方共に、いつ頃から、何故そのような状況が生まれたのか、憶えてもいなかっただろうし、どうでも良く思っていたに違いない。
ある日、気づいたら、そんな構図が出来上がっていたという感じだったろう。
ところで、A君に対する虐めだが、最初は物をぶつけるとか足を引っ掛けるという悪戯から始まったように記憶しているが、日に日にエスカレートしていき、ランドセルや体操着や上履きを捨てられたりという陰湿な段階を経て、いつの間にかクラスの中で恥をかかせたり晒し者にするような、心身を同時に甚振るような、誰もが眉を顰める悪質なモノに変わっていた。
その事実は、他のクラスメイトの口から担任の耳に入り、その知るところにはなっていたらしいが、注意されたら一時は沈静化するが、直ぐに元どおりになってしまうの繰り返しが続くだけで、A君は虐められ続けていた。
そんなA君の状況を同じクラスで目の当たりにしていた私がどうしていたかについてだが、クラスの副委員長という肩書を持たされて男子のリーダー的なポジションを与えられていた以上、黙って見過ごすことはできなかった。
正直に言って、本来なら私もやんちゃな性格なので、3年生までは校則破りの常習で、小学生レベルの悪さは一通り経験しており、悪ふざけの末に学校の備品を壊したり、女子のスカートを捲ったりの程度なら日常茶飯事、毎日のように職員室や校長室の前に罰として正座させられているような学校生活を送っていた。
だが、肩書というモノは人を変える力がある。
クラスの副委員長という立場は、最初のうち手枷や足枷のように厄介な拘束具に思えていたが、いつの間にか慣れてきて、少しづつ自覚も芽生えてきて、大袈裟に言えば自らを律する規範となっていた。
そんなわけで、私は虐めの現場を見つける度に虐めっ子グループとやり合うことになった。
だが、所詮は子ども対子ども、注意して抑えつけても一時凌ぎにしかならなかった。
最初の何度かは、A君からの感謝の言葉をもらっていたし、虐めを見兼ねていたが口を出せずにいたクラスメイトたちから応援されたりもしていた。
しかし、そのうちにA君は根本的な解決に至れない私に対して不満を抱くようになり、クラスメイトの中には無意味で無力な正義感を振り回している面倒臭い奴と私を評する者も表われていた。
それでも、めげずに頑張っていた当時の私は、子どもながらに随分と気骨がある奴だったと言える。
自分で自分を褒めてやりたいほどの敢闘精神を持ち合わせていたと思う。
だが、そんな健気な行動も決定的な壁にぶつかる日がきてしまった。
次話は水曜の夕方に投稿予定です。
お気が向きましたら、ブックマーク、評価の方
何卒、よろしくお願いします。
最近、閑古鳥が鳴いてる本編の方も
ぜひお立ち寄り下さい!
https://ncode.syosetu.com/n4873gx/