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皇紀八三七年華月十六日(西暦一六三―年八月十六日) 三時00分
オルコワリャリョ北稜
夜明けを待たず天幕を撤収し、寒さのお陰で頼りなく灯る懐中電灯の明かりを頼りに山頂を目指す。
現在の気温、零下三十度。
昨晩は興奮と酸素不足と凍傷の痛みでなかなか眠れず。睡眠剤と鎮痛剤を両方飲んでなんとか無理やり眠ってやった。
おかげで体調は最悪。頭痛、吐き気、倦怠感の三連攻撃で足を前に出すのがやっとな有様。
それでも昨日のシスルの奮闘を思い出し、お姉ちゃんが妹に負けてたまるかと気迫だけで前進する。
他のみんなもここに至ってよいよ疲労困憊の有様で、少佐は連日の先陣が祟って体が重た気だし、ラチャコ君は痛めた右足を引きずっているし、ほかの四人のインティキルも歩く姿は生きる屍か幽霊の様で、その有様を時々吹く突風が巻き上げる雪煙が覆うもんだから、本当に怪奇映画の一場面にしか見えない。
あのシスルでさえも凍死しかけた影響で繰り出す足取りに覇気がない。
満身創痍、今の私たちにこれほど似合う言葉は無いだろう。
それでも次から次に現れる氷塔や偽山頂、亀裂を乗り越え踏み越え渡り切り、じりじりと山頂に近づいて行く。
羽毛服の頭巾に垂れ下がる自分の息由来のつららをこそげ落とし、何度も何度も前を見上げ、山頂の存在を確かめる。
七時ごろ、行く手に巨大なのっぺりとした氷塔が立ち塞がった。有に高さ三十 米は有るだろう。
「最後の最後まで遊んでくれるじゃねぇか、ええ?オルコワリャリョさんよぉ」
と、雪焼けと軽い凍傷で皮がボロボロに成った顔をほころばせ、少佐は笑いながら登攀の準備にかかる。
「おれが進路工作をする。その後シスル、ワイナ、ラチャコ、ペンチャ、ケジャの順番で登ってこい、最後は大尉だ。ひょっとしたら山岳猟兵が先に登頂してて待ち伏せしてるかもしれねえ」
そう言い残して氷塔に取り掛かる。
登っていく少佐の背中を見つめながら、私は自分の氷斧を握る手に力を込めた。
ここにある武器らしい武器と言えばシスルの蛮刀クッラと各自の氷斧か短刀くらいなもの、銃の類は邪魔にしかならないと帰ってゆく荷駄隊に託した。
標高七千 米を超え、平均気温が零下二十度を絶対に上回らない山の上では、如何に高性能で手入れが万全な銃器でも潤滑油の固化や機関部の凍結などは避けられず万全の信頼を置くことはできない。
そんなお荷物を背負うよりも、敵より先に登り敵より先に降りる方が何十倍も効率的だ。そして、敵も山の専門家ならそう言う判断をするはず。
との少佐の一種の賭けでそうした訳だが、ここからそれが吉と出るか凶と出るかが試される。
ここまで間違ってなかったんだあの人は、だからこれからも間違えるはずがない。
半ば無理やり信じてインティキルの最後の人に続いて少佐の垂らした綱に取り付けた登高器を握る。
綱と氷斧で上半身、鉄カンジキの前爪で下半身を支えつつ少しづつ氷塔を詰め登る。
目の前には垂れ下がった綱と、ケジャのモフモフしたお尻と尻尾、そしてあの奈落の様な黝い空。何度も休憩を重ねて自分の体を自分自身で引っ張り上げる。
上からパラパラ落ちる氷の欠片が羽毛服の頭巾を叩く。
時々突風が吹き抜け、背中の大荷物ごと私を氷塔から引き離そうとするが、ナニクソ!としがみついてやり過ごす。
登攀開始から一時間。やっと登りきると猛烈な風に吹き飛ばされそうになり硬く引き締まった氷面に全身を投げ出した。
辺りを見ると少佐もシスルもインティキルのみんなも耐風姿勢で氷面にしがみついている。
前方に目をやると、結構な急角度だけど何とか立って歩けそうな斜面が続いていて、その先に一段盛り上がった大きな岩の台の様な物がそそり立っていた。
その向こうにはもう何もない。ひたすら虚空が広がっている。
オルコワリャリョの山頂だ。
「さぁ!諸君!このバカみたいな風に吹っ飛ばされない様に最後のひと踏ん張りだ!行くぞ!」




