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華月十日。身支度を整え、荷物を纏め、天幕を畳み、オルコキンジャ山頂を目指し出発。
この日も先頭は少佐。肩から鉄杭や氷杭等々、様々な登攀用具を数珠の様にジャラジャラ吊るし、氷斧を氷壁に叩き込みつつ、足にはめた雪カンジキの前爪をガシガシと氷壁に効かせ、後続に綱を下し道を作ってゆく。
流石にこの日は昨日の疲れが出たのかインティキル精鋭も速度が落ち始め、私同様に休み休み登って来るようになった。この斜面と酸素の薄さ、そしてこの速さだもの。幾ら山の旅でもへばるのは無理ないわ。
けど、シスルとラチャコ君は全く疲れを感じさせない登りっぷりでグイグイ少佐の後をついて行く。
特にシスルは綱は腰につないだだけで、氷斧と共に愛用の蛮刀クッラの曲がった刃先を氷斧の様に使い、少佐と変わらぬ速さで壁みたいな斜面を登ってゆく。
その後ろ姿(因みに毛の生えてないシスルの尻尾は羽毛服の下袴のお尻に着けられた尻尾入れに収められている)をラチャコ君は憧れのまなざしで眺めながらしきりに。
「ヤッパすっげぇなぁ!シスルの姉っチャは!戦いだけじゃねぇ、山登りもメチャ上手ぇなぁ!」
と感嘆したあと、綱を取り、負けない様にと猛然と両手足の爪を効かせ登ってゆく。
若いって、いいわねぇ。
とは言え、お姉さんも負けちゃいられない!
私はしっかり綱に接続された登高器を使って一歩一歩詰め登る。
この器具を綱に取り付ければ、荷重を加えるとロープを締め付けて充分体重を託すことができるようになり、取っ手を握り込んで開放してやると前進できるようになる。
つまりかなりの急斜面でもこれと雪カンジキ、氷斧を併用して使えば前進できるようになるわけだ。
ハッキリって、これが無ければ私は一歩たりとも進めないだろう。
雪と氷、岩と突風と寒さに責めさいなまれながら九時間登りに登って十六時。オルコキンジャの頂に立つ。
まず目に飛び込んだのは西に傾いた陽の光を受け桃色に輝くチュルクバンバ大氷原と、その向こうに聳え立つインティワシ連峰の峩々たる峰々。
酸素不足で半ばもうろうとする頭の中では、もう「きれい」という言葉しか浮かばずしばし立ち尽くし眺めるほかない。
シスルもラチャコ君も他の九人のインティキルの人たちも、その絶景に心奪われ強い風の中立ち尽くす。
ただ少佐だけは南を睨んでいて何とか聞こえる様な声で言った「諸君、あっちを見ろよ。頭の中がスッキッとするぜ」
視線を右に転じる。そこに有ったのは雪を抱いた三つの天を突きさす険しい頂きと研ぎ澄ましたような峻嶮な稜線。
そこを突風が駆け雪を巻き上げ、まるで茜に染めた薄絹をたなびかせる様に宙に舞わせる。
一番手前が七〇〇五 米の無名峰で次に聳えるのが主稜線の名前の元になったスーパイプカラ峰七一八一 米そして、その陰に隠れるようにしてそそり立ち一際険しい山容を見せるのが七四九七.五 米。オルコワリャリョだ。
蒼黒い空を背景に従え、二つの高峰に守られそそり立つそれは、以前反対側のオルコムリャの頂で見た時よりはるかに荘厳さを増し、私たちを睥睨している。
少佐の言う通り頭の中が畏怖と恐怖で一発で晴れた。その時だ。
「ワイラウヤだ!」インティキルの一人が叫ぶ。
少佐が「東から突風!耐風姿勢!」と命じるとほぼ反射的に全員が東に頭を向け臥せる。
氷斧を雪面に突き立て両手でしがみつき、脚を左右に広げたその瞬間。
爆音と共に肌を切り裂くような冷たさの突風が襲い掛かり、辺りの雪を舞い上げ飛び散らせ辺りを白一色に染める。
吹き飛ばされない様に氷斧に縋り身を固定するが、じりじりと東に向けて体が押し出される感覚を覚える。そして恐ろしいまでの寒さ!
羽毛服を、毛織の襦袢や下着を、皮膚を肉を突き刺し貫き、骨の髄まで凍えが冒して行く。
体中の水分が凍結するんじゃないかという恐怖が胃を締め付け、その内臓までが寒さに侵略される。
しばらくすると風は収まり、何とか立ち上がることが出来たが、今頃になって体温を失った体が強烈に震え始めた。
「わ、わ、ワイラウヤ、だ。ま、ま、まだ、た、大したことないけど、な」
ここまで残ったインティキル精鋭の中で一番年かさのワイナ・ウリさんが震える体をせわしなく摩りつつ切れ切れに言うと、震えを抑える為か緊張を紛らわせるためか自分の尻尾を咥えこんだ。
これが『ワイラウヤ』死の風。
ワリャリョ連峰で一番恐れられる気象現象。爆風並みの突風で殺人的な冷気を吹き付けて来る正に死を運ぶ風。
さっきのがもう少し長く吹いていれば、私は間違いなく意識を失っていた。そのまま凍死していたかもしれない。
それでもまだ大したことないって?じゃぁ本番はどんな奴が来るのよ!?
震えも収まらず戦慄のあまり立ち尽くす私や、寒さを何とかするために足踏みをしまくる他の人たちに向かい少佐が震える声で命じた。
「と、とっとと山頂を離れて、そ、その辺の岩陰で野営しようぜ、さっさと天幕おったてて温まらねぇとみんなマジで死んじまうぞ、急ごう」
言われるまでも無いとばかりに全員動き出し、山頂南側の大きな岩のでっぱりの下に今夜の野営地を定めることにした。




