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思わず「え?」っと聞き返す。
「怖がると、体が自然と強張って言う事を聞かなくなる。身を護る為にそうなるらしいが、逆にそれでは身動き取れずやられてしまう。怖くない絶対に上手くやれると自分に言い聞かせて怖がる心を飼いならすんだ」
徒手格闘訓練の教官も同じような事を言っていたっけ?曰く。
「兵士にとって最も親しく最も厄介で良い距離を保たねばならぬ友は勇気と恐怖心だ。勇気に近づきすぎれば慢心し窮地に落ちるし、恐怖心に近づきすぎれば窮地から脱することはできない。しかし、共に良い距離を保てば窮地を突破し窮地を事前に回避する事が出来る」
確かに、私は滑り落ちる恐怖に全身を支配され体が硬直し頭ではわかっていても動作に移すことが出来なかった。
この子の指摘の通り。
でも・・・・・・。「君は怖くないの?」
答えは間髪入れず。
「怖い。でも吾は怖さを飼いならす術を小さい頃から父や一族の長老たちに叩き込まれているからな。怖さを抑え込める。汝も抑え込め、まずは命綱は絶対に外れないと信じ込め、だいたい本当に外れないのだから身を預けてしまえ。そしてこの技を身に着けたら絶対に下まで滑り落ちないと自分に信じ込ませろ」
どういう暮らしをこの子は今までして来たのだろう?
少佐にも以前突っ込んで聞いたことはあるけど、結局適当にはぐらかされ『まぁ、それなりの修羅場を潜って来た強い女の子ってことは確かだわな』としか答えてくれなかった。
確かにこの子の雰囲気から察すれば、油断ならない世界で生きて来たって言うのは解かるけど。
「君はそう言う育てられ方をして来たから平気で出来るかもしれないけど、私は違うの軍隊に入るまでは普通の暮らしだったし、入ってからも前線になんて出たことが無い。今でもごくごく普通の人間よ。氷の急斜面から滑り降りる恐怖をあっという間に感じなくなるような君とは違うの」
若干の当てこすりを含ませていってみたが帰ってきた言葉が「汝は普通の人間か?吾は違うと思う」
また「え?」っと聞き返してします。
「ライドウから聞いた。汝は凄い物を作ったんだろ?吾には何のことだかさっぱり解らんが、今まで誰も作った事の無い様な物を大勢の人を仕切って作り上げたって。それに角付の女の人で軍隊の偉い人になるってことはそう簡単な事じゃないって言うのは吾にも解る。汝は普通の女じゃない。負けるのが嫌いで勇気のある頭いい女だ」
そう真剣な顔で瞳を輝かせこの子は言うのだ。
メチャクチャ褒められてるじゃないの!私!
返す言葉が何もなくどう返すべきか必死で考えている間に彼女は天幕から出ようと四つん這いになり後ずさりを始めた。
そして、天幕の中に頭だけ残すと。
「風向きが変わって寒くなって来た。ここではこんな風になると晴れに成る前触れだ。明日はまた滑落防止の訓練だ。がんばろうねぇよ」
そして頭を引っ込め自分の天幕へ帰っていった。
ところで、ネェって、どういう意味???
翌日はシスルの予報通り見事な晴天だった。
幕営地では雨だったけど五三〇二峰の頂上付近では雪だった見たいで、一昨日私たちが着けた航跡はきれいに消えていた。
また安全帯に縄を取り付け、雪の斜面を見下ろす位置に立つ。
「さて、今日も滑落防止の訓練だ。動作は一昨日教えたと通り、あとは実際に出来るかどうか?さぁ、景気よく滑り落ちて見よう!」
と、軽いノリで言う少佐。
見下ろすと、千 粁を一気に下り落ちる氷河、身を凍らす突風が拭き上げ、私の頭巾を吹き飛ばそうとする。
思わず固唾をのみ込む。
シスルが、あの黒い瞳で私を見つめていた。そしてこくりと頷く。
踏ん切りがついた。
一歩踏み出し、尻餅をつく。
耳元では風を切る轟音、景色がすごい速度ですっ飛んで行き、刺すような寒風が顔面を強かに打ち据える。
胃を絞り上げる様な恐怖が沸き起こり、体が固まる。言う事を聞かない。また出来ないの?
頭に、シスルの言葉が電光の様に閃いた『汝は普通の女じゃない。負けるのが嫌いで勇気のある頭いい女だ』
そうだ。私は勇気のある女だ!
まず上半身を捻り。目の前が真っ白になり口の中にも鼻の孔にも目にも氷の粒が飛び込んでくる。
次に氷斧を氷に突き立てる。砕けた氷や雪が舞い上がり視界を奪う。
脚を上にあげ折り曲げる。
滑り落ちる速度がだんだん落ちて来た!
そのまま体重を体の前に。氷斧にすべてを預け縋りつく。
気が付けば、私は止まっていた。
頂上から少佐の声「やったじゃねぇか!成功だ!」
ゆっくり立ち上がり、氷斧の石突を雪面に突き立て、十二本爪の鉄カンジキの前爪を雪に食い込ませるように蹴り込みつつ斜面を登る。
頂上は遥か彼方だ。こんなとこまで滑り降りたんだ。
薄い空気を何度も肺に取り込みつつ急斜面を上り山頂にたどり着くと、少佐が私の頭を子供の様に乱暴に撫で。
「よくやったぞ!シィーラちゃん!ちょっと制動に入る時期が遅いが、最初にしちゃ上出来だ。この調子なら次の段階に入れるな」
子供扱いすんな、とも思ったが、年から考えればこんなもんかと大人しく撫でられる。
シスルはと思い彼女を見ると、まるで自分が成功したみたいに小鼻を広げ満足そうに私を見つめ返して来た。
幕営地に帰ったらお礼を言わなきゃ。




