事実は小説より――心臓病を患っていた兄と高校球児だったぼく――
事実は小説より奇なり、とはことわざだけれど、実際はそうでもない。
多くの場合、小説の方が奇抜だ。だからこそ面白い。
そして限りなく続く現実に、小説より奇妙な一握りのことが起こるとしても、何の不思議もないだろう?
そういうわけで、これからするぼくの事実についての話はつまらない。
小説だったらもっと面白く出来るのに、と思わざるを得ない。
ぼくには双子の兄がいた。
彼はもう死んでしまった。その悲しみは近ごろやっと癒えてきた。
もう会うことが出来ない、そのことを考えると辛いけれど、どうやったって彼はもういないし、だとしたら彼との思い出を懐かしんで微笑んだ方が生産的だ。
兄は心臓病を患っていて、ぼくは野球の選手だった。
それはずいぶん昔のことだ。
ぼくは平凡なプレイヤーだった。そりゃ、高校レベルではまずまずの選手だった。
そうでないとピッチャーなんてやらせてもらえない。
だけどとてもプロに手がかかるような才能はなく、せいぜいが、県内で十番手ぐらいに警戒される選手、といったぐらいだ。
球速は遅かった。百二十台前半がせいぜい。
変化球のキレは並で、ただ球種は多かった。
コントロールには自信があった。それがぼくの生命線だった。
そんな投手を擁するまあまあの戦力を抱えた県立高校が、はじめて地方大会の決勝に進んだ。
その快進撃には、実力よりも幸運の方が大きな要素を占めていた。
準々決勝あたりからぼくらはいつコールド負けするのだろうかとひやひやしていたけれど、優勝候補筆頭だった強豪校との試合は雨で、とんでもない球速を出すエースピッチャーは二回の裏で足を捻って降板した。
そうして、敵チームにはエラーにならないミスが続出し、驚いたことに、ぼくらはコールド勝ちをした。
準々決勝のその勝利で勢いがつき、準決勝もなんとか接戦を制していた。決勝点は同点を狙ったスクイズの後のサヨナラタイムリーエラーだった。
ベンチで見ていて、嘘だろそれ、とぼくはついつぶやいた。
三年の夏、最初で最後の、甲子園に手がかかる位置だった。
ぼくにとっての夢だった。
高校で選手生活を終えることになる多くの選手の夢でもあった。
大学でやる覚悟もない、プロに行けるような才能もない、そんな選手たちの。
そうして、決勝戦の前の日、練習を終えたぼくは兄の病室にいた。
兄は翌日、手術をする予定だった。危険な手術で、成功率は五十パーセントぐらいだと聞いていた。
けれど、やるしかないのだ。そうしないと兄は、高い確率で死んでしまう。
兄は不安げだったが、落ち着いていた。
長い病室ぐらしで、すっかり痩せていた。双子であるぼくらの道が別れたのは中二の春で、兄の病気はその頃判明したのだ。
あれから五年。ぼくは筋肉に磨きをかけてスポーツに専念し、兄は病室で本ばかり読んでやせ衰えていた。
病気についての本が多く、タイトルを見るだけで気が滅入った。
死について書かれた本もたくさんあった。
兄は覚悟を決めていたようだった。
「兄貴、怖いかい?」
一通り日常の話を終えた後、改まってぼくは聞いた。
兄はうなずいた。
「死ぬかもしれないんだ。そりゃ、怖いさ。でも、怖がっていてもどうしようもない。これが俺の現実だ。……なんて、強がることも出来るけど、本当は不安で仕方がない。何で俺は、死ななきゃならないんだろうな」
「大丈夫だよ」
「なにが? 無責任だな、お前は」
「だって、成功すれば、助かるんだろ」
「それさ、失敗したら、死ぬんだよ、っていっているのと同じだぜ」
兄はそういうと、力なく笑った。
「まあ、なるようになるさ。明日、手術室にいって麻酔がかけられる。意識が失われる。戻ってくるのか、そうでないのか俺は知らない。死ぬにしても、生きるにしても、悪くないかもな。苦しんで死んだり、苦しんで生きたりするよりはさ」
そういう兄の指先は震えていた。隠しようのない死への不安がそこにはあった。
兄は頭を振って、ため息をついた。
それから視線をぼくへと向けた。
「それより、帰らなくてもいいのか? 明日、お前も試合があるんだろ」
「ああ」
「こないだのピッチング、見たぜ。どうして打てないんだろうな、お前の球。見た目はしょぼいのにさ、うまく抑えるもんだ」
「コツがあるんだ。相手は同じ高校生だし、どこでもどんな球でもかっ飛ばせるプロみたいな化け物ばかりじゃない。打てないコースと打てるコースがある。打てないタイミングと打てるタイミングがある。打てない球種と打てる球種がある。どれかをずらせば、全部とはいわないまでも、なんとか抑えられる。あえて、打てるように投げるのも有効だったりするんだ」
「いいな、そういうの。タネあかしみたいでさ」
にっこりと兄は笑った。
皮肉めいた言葉が好きだった兄。
ペテンのようなぼくのピッチングは、兄の好みにあったのだろう。
「お前が甲子園で投げるのを見られたらいいな。そうして全国のプロ予備軍が、お前の浅はかな意図を打ち砕くんだ」
「そうなったら、そうなるだろうね。ぼくには無理だ。全国のやつらを抑えるのはさ」
「ただ、一矢報いるぐらいはできるんだろう?」
「たぶんね。もしかしたら、その球は、デッドボールかもしれないけど」
「それで十分さ」
兄は微笑み、そして天井へと目を移した。
「明日、俺が目覚めたら、お前は勝つか負けるかしているんだろう」
「明日、ぼくの試合が終わったら、兄貴は目覚めてるんだね」
「目覚めていないかもしれないけどさ」
「目覚めていると思うな。そしてぼくは勝ってるよ」
「そうなるといい。それがベストだな」
「そうするさ。少なくともぼくはそうする。兄貴もそうしろ」
「つまり明日、俺は目覚める。するとお前が勝っている。そういうわけだな」
ぼくはうなずいた。そうして、暗い病室でぼくらは握手をした。
「約束だな」と兄がいった。
翌日の試合、ぼくは全力を尽くした。
自分がいままで培ってきたあらゆる技術を駆使して、そして負けた。大敗だった。
七回途中、何とか二失点で粘ってきたけれど、ついにぼくの詐欺師めいたピッチングは突破された。四点を取られ、そこで降板した。
代わりの投手はぼくよりも素直なタイプで将来性もあったけれど、相手にとってはカモだった。本格派に近かった分、打ちやすかったのだろう。
十一対三で、ぼくの夏が終わった。
敗戦の涙を流した後、ぼくは母の携帯電話に電話をかけた。
兄の手術は終わっているはずだった。
辛い結果を予想していた。あの約束をぼくは守ることが出来なかった。
もしかしたら兄貴もそうなるかもしれない。
長いコールのあと、電話に出た母がいった。
「残念だったわね」
母の声は暗く沈んでいた。
「そうだね。でも仕方がない。……兄貴は?」
ぼくは悪い返事を予想していた。
約束を守れなかったぼくには、どのような期待も持ってはいけない気がしていた。
「……手術、大成功よ。あの子、こういってた。『約束が台無しだ』ってさ。あんたの試合中にもう、目覚めたのよ。『勝っているはずだったろ。負ける一部始終なんて見せられると思わなかった』って伝えておいてってさ」
それからも兄は長いこと生きた。
今までの病気が嘘だったように健康になり、一年間の浪人の後、大学へと進んだ。
ぼくよりもずっと優秀で、最後には大学の教授になった。
ぼくは大学では野球をやらなかった。
野球部の先輩のつてで就職し、そこでたまに草野球をするぐらいだった。
今ではすっかりその仕事も長くなった。たまにある草野球の試合では、監督をするようになっていた。
兄が死んだのは、一年ほど前のことで、交通事故の結果だった。
ハンドルを切り損ねて、崖から落下したらしい。兄に責任のある、純粋な事故だった。
ぼくの事実の話はそんな風だ。
兄の心臓病やぼくの甲子園、果たせなかった約束、そんなドラマティックな事柄が並んでいたって、現実はあっさりしている。
兄は別段あの約束のせいで死んだわけでもなく、ぼくも成長してプロ野球選手になったりはしていない。
滑らかに、よどみなく、留まることを知らず現実は進む。
小説のように奇なることは、いまのところ、ぼくの人生には起こっていない。