異世界力士 大樫山
強く優しく力強く、悪も不幸も捻じ伏せる、それがリキシたるもの。
炎が渦巻き、建物の残骸に囲まれたただ中、ドヒョーサークルが取り巻く一角のみ掃き浄められたかのように開けていた。
いや、かのようにではない。勝ちと負け、陽と陰、白と黒、すべてを二色に描き分ける土俵の上に不粋な障害物などあろうはずがない。
その中に在るのはただ二つ、東西の強者のみ。
一方はまさに山のように大きいという比喩が、骨肉とそして鍛え上げた鋼の鱗を備えて実体化したかのような、見上げるほど巨大で威圧的な存在だ。
ドラゴンである。
しかも、高速で空を飛び毒針を持つ飛竜などトンボも同然、足を持たぬ地竜はミミズ、岩の肌の深山竜もカブトムシ程度に捻る正真正銘の真竜である。
全身を覆った落陽色の赤黒い鱗の下にはその巨大な身体を十全に生かす巨木を荒削りにしたような筋肉が見てとれる。
頭部に魔剣のごとき鋭くそびえ立つ竜角、その下にギラギラと輝く目玉はただ一点、己の対手を睨んでいた。
魔竜の視線の先には竜と比べればちっぽけな男が向かい合っている。
威圧感に負け、腰を抜かし震えているのだろうか。
否!魔竜の視線を真っ向から受け止め、それどころか逆に魔竜をも飲まんとする力強さで睨み返している。
ぶつかり合う両者の視線。仮に実体化したならば鍛冶屋の相槌もかくやといった熱く激しい火花が撒き散らされただろう。
男は剣、槍、斧、そういった武具を携えていない。無手である。それどころか鎧や盾、衣服すらも身に付けていない。
ただひとつ、腰まわりを固く巻いた厚手の腰布、マワシただそれだけが男の纏っている装束である。
大木のように太い胴回りからは大型の獣を思わせる脚が伸び、大地を踏みしめている。どっしりと腰を落とした姿勢の左右の足は大地を掴み、男を不落の城塞と成している。
岩のように隆起した背筋、小鬼など文字通り一捻りにできそうな両腕、力のほどはいかほどもあろうか、今はただ静かに両腿の上に添えられている。
ただひとつ、男の頭部のみが異形であった。
固く結ばれている口元の上にある鼻は大きく上を向き、上頭部には小さく三角を描く耳が二つ、見事に扇型を描いたマゲを挟んでついている。
明らかにヒト族ではない。
オークである。
オークと言えば、食う奪う犯すしか脳の無い、享楽的な生物である。
暴飲暴食を繰り返しだるんだるんにたるんだ醜い身体、欲望を満たすことしか頭にないのが、豚に似た顔から垂れ流されているのが嫌が上にも判る汚い顔、徒党を組み行商人や村を襲うなど、数いる亜人獣人の中でも取り分けて憎まれている種族である。
だがどこからどうみても男の種族がオークであるとは思えない。
身体が違う。肉と言うのも憚られるような醜い代物と、美術館の男性像も裸足で逃げ出す肉体美を比べるのも失礼だ。
顔が違う。明らかに知性がある。闘う男のある種の色気すら感じさせる。
そして何より眼が違う。目力が物理的な圧力すら感じる。歴史の書に載り、いくつもの国々を滅ぼし、二つ名をほしいままにする魔竜と真正面から向き合い何ら退くこともない。
火花散るドヒョーの外では、あまりにも無謀と言える危険を顧みず、ガレキに隠れ数多くの人々が両者を見守っていた。
田舎っぽい元気な感じの若い娘がいる。多くの皺に埋もれ髪も髭も真っ白な老人がいる。酒場の店主であろう前掛けをした働き盛りの男女の夫婦がいる。
堂々とした体格に煌びやかな鎧を着た戦士がいる。竪琴を片手に持った涼やかな風情の詩人がいる。剣を持った手の震えに気付かない若い兵士がいる。
誰しもが一言もなく固唾を飲んでドヒョーの両者を凝視していた。
アデッタは大樫山に初めて会った時を思い出していた。
数年前、行商人の娘だったアデッタは、とある山中で山賊らに囲まれていた。父母も敢え無く斬られ、行商のキャラバンの生き残りは自分ひとり。
命の灯火も危ういが、若い女性である自分の身、このような無法者に成すすべもなく蹂躙されるのかと絶望の中。
目の前でオークもかくやという下種そのものの笑いを浮かべていた山賊が横向きに吹っ飛んだ。
メキョボキバキというすごい音とともにノーバウンドで大木に激突し動かなくなる山賊。
「このような狼藉、この大樫山が許さん」
太く低い、だが朗々として非常に耳聞こえのよい声の益荒男がアデッタを庇い立った。
だがその容姿は……大問題である。
荒い麻の布袋の目の部分だけ開けたものを被り、上半身は裸、下半身はパンツのみ。
「へ、変態だー!?」
「なんだと!山賊だけでも面倒なのに」
「お前だー!」
思わず突っ込んでしまったアデッタ。
だがそれに構わず、山賊らがその錆びた剣で益荒男を切りつけた。
だが切りこめない。複数の刃は益荒男の肌に赤い筋を付けたが、皮一枚、肉まで達することができない。
容姿に気を取られてしまったが、益荒男の肉体は凄まじく鍛え上げられていた。
肉厚の筋肉が浮かび上がる肩、くっきりとした陰影の胸板、丸太のような腿、むさ苦しい山賊らとは雲泥の差。隆々としたその肉体が益荒男をより巨大に魅せている。
切ったはずの剣がまるで通らないことに唖然とする山賊ら。そこを益荒男の左右の張り手が襲った。
肉の棍棒である。腕の鉄槌である。強風に飛ばされる案山子のごとく、右へ左へ文字通り吹き飛んでいく山賊らは張り手を食らった時点で意識は遥か天空に飛び去っている。
逃げようと背を向けた連中も、益荒男の疾風怒濤の踏み込みで結局は同じ末路を辿った。
山賊らを一網打尽にし縄で括り上げた後、益荒男は父母をはじめとしたキャラバンのみんなの埋葬を手伝ってくれた。
街道の片隅に全員を埋葬すると、益荒男はその大きな両手を合わせ祈りの姿勢を取った。麻袋を被ってながらもその敬虔な空気が背中から醸し出される。
「キャラバンの皆様方、そしてアデッタ殿のご両親、アデッタ殿はこの大樫山が責任をもって町まで送り届けます故、安心して成仏なされよ」
大樫山がリキシという職の戦士であり、実はオークだというのを知るのはもう少し後のことである。
マイッツァーは大樫山に故国を救ってもらった時のことを思い出していた。
マイッツァーは今は亡き北の国の出身であった。冬になると雪に閉ざされ、あまり豊かではないとはいえ平和だった国が滅ぼされたのは50年前のことである。
王も貧民も、山も川も、草木も岩も、すべて腐り落ちた。
ある死霊術師が、たった1週間で国をすべて腐らせた。
当時、ようやく宮廷魔法使い見習いに昇格したばかりのマイッツァーは、抵抗を試みる師らと王の命で、僅かな生き残りと共に国から脱出した。
ようやく国境線まで逃げ延び振り返り見たものは、腐海に飲み込まれ沈んでいく王城と、尖塔で腐り落ちていく国旗だった。
あれから50年の日々が過ぎ去った。
新たな地に根付き50年の時間を生きてついに老年。
「ああ、死ぬ前にもう一度故郷を。あの美しかった国をもう一度この目で見たかった」
あの地は50年経った今でもくだんの死霊術師の支配下にある。風の噂では汚泥と瘴気渦巻く不毛の地らしい。
「あの時力があれば。今このとき力があれば。どうか、どうかもう一度」
酒場でマイッツァーが悔しい酒を飲み潰れるのを見た者は多い。
その中に、ウエイトレスとして雇われたアデッタと、用心棒として雇われた大樫山がいた。
マイッツァーが、大樫山が北の地に旅立ったと聞いたのは数日後のことだった。
追いかけたマイッツァーが北の国の国境を越え不毛の大地に踏み込んだ時に、遠くに偉丈夫の背中が見えた。
草木も生えず、地面からは紫色に濁った液体が沸き、腐臭を伴った瘴気が流れる不毛の地、かつては緑あふれる大地だったその真ん中に大樫山はマワシ姿で仁王立ちしていた。
酒場ではユカタと呼ばれる衣装を着ていたが、その下に隠された筋骨隆々の肉体が惜しげもなくさらされている。瘴気すら大樫山の周囲を避けて流れているようだ。
そして見事に結われたマゲの下の異形の顔が力強く引き締められている。
大樫山がその右足をゆっくりと天高く振りかぶった。
そして振り下ろされた足が力強く大地を踏みしめる。
見よ!振り下ろされた大地から草木が芽生える、汚水が消え去る、風が澄み渡る。ドス黒く汚染された大地が洗いあがりの洗濯物のごとく清浄になってゆく。
続けて振り下ろされた左足からも大地が浄化されていった。不毛の大地が春の野原を思わせる自然あふれる大地にみるみる変わっていく。
リキシのこの儀式は四股を踏む、というらしい。四股とは手足五体の意であるが、醜、つまり邪悪を踏みしめ浄化する、清浄破邪の儀式であるという。
ほどなく邪悪の気配は真夏の霜のように消え去り、いったいどこが不毛の地だったかも分からぬほど自然を取り戻した。
「大樫山、ありがとう。もう、これで思い残すことはない」
「マイッツァー殿、礼を言われるのは早い。元凶が残っており申す」
「な!だめだ大樫山、あの死霊術師はたったひとりで国をひとつ滅ぼす剛の者。あなたを危険に晒すわけにはいかない!」
「正を成し悪を打ち滅ぼす、善を勧め邪を捻じ伏せる、それがリキシの役目であります」
そう言うと大樫山はたったひとりで国の中央、腐海に沈む王城に向かった。
大樫山に任せ座視することなどできぬ。マイッツァーは大樫山を追った。
くだんの死霊術師は王城の前で待っていた。ねじくれた長い杖を片手に持ち、かぶったフードの下は骸骨に薄皮が張り付いた死人の相。その眼には赤く邪悪な色が灯っていた。
「オーク。ヒトのジジイ。タカガ二人がこの死霊術師に挑むとイウカ。笑止」
「悪を成し、人々を苦しめ、王国を滅ぼした元凶。このジュウリョウ大樫山が倒す。ここが年貢の収め時だ」
大樫山は奇妙な構えを取った。腰を落とし両手の拳を地面に着ける。首を上げその爛々とした両眼は相手を見据えている。
急所である頭部を守らないその構えに死霊術師の顔が嘲笑に歪んだ。
「炎と瘴気に侵されて死ぬがイイ!」
大樫山の立ち合いと、死霊術師の一抱えもある紫色に燃える火球が放たれたのは同時だった。
大樫山の巨体が紫の炎に包まれ、
「やったカ!」
その炎をそよ風のごとく流され、真っ向からの大樫山のぶちかましを受けた死霊術師はクッキーを壁殴りハンマーで砕いたのごとく粉々になった。
嘲笑を浮かべたままの死霊術師は自らの敗北を意識できたのであろうか。宙を舞う死霊術師の残骸は光に包まれ、砂となり風に消えていった。
リキシは光の戦士である。今日このときにリキシを志しドヒョーサークルに登った児童でも僅かな聖性を帯びるのだ。ましてや日夜油断なくケイコを積み重ね、人々の幸せを願い尽力する大樫山の聖属性はいかほどか。汚辱に塗れた大地を四股で清浄に戻すだけでもうかがい知れる。
一方、死霊術師とは邪悪の権化だ。本来であれば先の紫色の邪炎は火傷と瘴気の混合で被害者を蝕み苦しめる厄介な双属性の魔術である。
だが眩いほどの聖属性であるリキシに対しては、邪悪な瘴気など大海に落とした一滴の墨ほども影響を及ぼさない。死霊術に秀で、邪属性が高まり死霊術師として大成すればするほどリキシに対しての合い口は悪くなる。
さながら死霊術師に対してのリキシというのは、生身の人間が燃え盛る煮えたぎった溶岩人間に対峙するようなものである。ただ立ち会っているだけでも火傷もの、そのぶちかましを受ければ影も形も残らないのも尤もである。
マイッツァーは50年ぶりに故郷を取り戻した。腐海に沈んだ王城は朽ちているものの、今は草木が茂り大いなる大地に戻ろうとしている。
「ああ、美しいな。我が故郷」
ナズナ夫妻はその風変わりな戦士のことを思い出していた。
初めて酒場に来たときは、田舎から出てきたばかりのような少女と二人連れで、上下にも前後にも厚い筋骨隆々の肉体をユカタという衣装に詰め込み、麻袋をかぶった奇怪な容貌だった。
聞けばアデッタというその少女は道中で山賊に襲われ、家族を失ったという。不幸中の幸いで、その山賊は壊滅しすでに町の自警団に引き渡されている。近いうちにぶら下がることになろう。
そしてそれを成したのがこの連れである奇怪な大男だそうな。
この大男も田舎から出てきたばかりで職を探しているとのことで、アデッタは店でウエイトレスとして、大男、大樫山という聞きなれない名の響きの男は冒険者の店を紹介してやった。
アデッタは実によく働いてくれる娘だった。行商人の娘とのことで客あしらいも上手く、彼女を目当てにした客もまた増えた。子のなかったナズナ夫妻にはその光景は明るく映った。
一方、大樫山もまたよく働く男だった。麻袋を被った見慣れない服装の大男という異形ではあるが、特に力仕事に秀で、面倒な人気のない仕事も骨惜しみなく働くとのことで冒険者の店での評判は上々であった。
冒険者の店は冒険者と言いながらも雑事全般を扱っている。もちろんゴブリンやオーク討伐といった討伐任務も請け負っているが、建築資材運びや商品の出荷納品、あるいは屋根の修理や買い物代理などなんでも受けている。
大樫山は町内では力仕事である荷物運びを主にしていた。常人が両手で抱え上げる荷物を片手で1個づつ倍の量を運び、現場でも軽々と商品や資材を取り扱えるため、大きな重い荷物を取り扱うことが多い商人の間では指名で引っ張りだこになる人気だった。
一方、郊外での薬草採取もこなしていた。薬草採取は山野にそれこそ山ほどある草木の中から薬効のある植物を探す仕事で、重要度が高いながらその面倒さと、山野での魔物の危険性があり、不人気の仕事だった。
冒険者の店でも山積するその依頼文書に頭を悩ませていたが、それを大樫山が解決した。
大樫山は見た目にそぐわず大変薬草に詳しかった。山野を巡り、停滞していた依頼の薬草を摘んで提供した。中には旬があり手に入りにくい物があったりという例外もあったが、そもそもその薬草の旬というもの自体が、およそ夏前くらいだけ取れるとか、秋に入るとダメとかの曖昧なものしか知られていなかったりもした。
大樫山は山中の村の出身とのことでそれらに詳しいとのことだったが、駆け出しの薬草学者も裸足で逃げ出すほどのその知識量は大いに冒険者の店を助けた。
また山野の魔物の件だが、それも薬草採取のついでに片手間で片づけていた。薬草採取で冒険者の店に戻ってきた際、魔狼の牙やゴブリンの魔石などを手土産にするのは常だった。魔狼はともかく、わずかながら邪悪な知性のあるゴブリンにとってたったひとりで山野を徘徊する男は獲物にしか見えなかったのだろう。そしてその剛腕でひねりつぶされていた。
ゴブリン退治や行商の護衛任務の依頼が減るほどであった。あまりに順調な依頼の消化具合に、麻袋を被った大男という異形ながら受付嬢らにはモテモテだったという。
秋も深まったころ、ナズナ夫妻の奥さんのほう、セリさんが身ごもった。待望の初の子である。
だがその子の発育が悪く、またセリさんも体調を崩し寝込みがちになった。
この時代、妊娠出産は命に係わるものであった。現代でも異世界でも問わず、もちろん妊娠出産は大事ではあるが、体調を崩した挙句母子ともども、という不幸な事例は決して珍しくなかった。
ある日、しばらく留守にすると言い残し、行先も告げず大樫山が町を出た。
その消息は分からず、必ず無事に戻ってきた大樫山の不在に、町の人々はその身の無事を案じていた。
だがおよそ3週間もたったころ、夜半遅くに大樫山は帰ってきた。
着ているユカタはボロボロになり、腰に巻くだけになっている。その裸の上半身は治りかけの巨大な裂傷に覆われていた。
そして背負っていたのは2本の巨大な爬虫類の足である。
大樫山は酒場の厨房から大きな鍋を借りると、その足より肉を切り出し野菜と共に煮こみだした。
やがて酒場には胃腸を空腹に誘う鍋の香ばしい匂いが漂い始めた。
よく煮えたころ、椀に鍋の具を取り分けると大樫山はセリさんにそれを勧めた。
「飛竜のモモ肉のチャンコ。精が付きます。セリさんどうぞ」
おそるおそるそれを口に入れたセリさんの目がカっと見開かれた。
「旨い、旨すぎる!野趣を残しながら香ばしい肉の香り、心地よい歯ごたえと共に柔らかく噛み切れる肉、そしてその肉より溶け出した肉汁と野菜の出汁のハーモニー。やばい、これはやばい、食べる手が止まらない!」
「たくさんあります、酒場のみなさんもどうぞ」
大樫山の勧めに酒場の全員が殺到した。
「ウーマーイーゾー!!」
「なんだこれ、なんだこれ、旨い、手が止まらない!」
「ダメだ、いくらでもいける、俺さっき晩御飯食べたばっかなのに」
やがて鍋は空になった。残念そうに見つめる一同。その目がふと厨房に向くと、まだ一部しか切り取られていない大きな足が目に入った。
「あれはダメです。今回はセリさんに精をつけてもらうために取ってきた飛竜なので。セリさん優先です」
「ああー、そうだわなぁ」
残念そうな、だが満ち足りた顔つきで酒場の常連が帰っていった。
残されたのはナズナ夫妻とアデッタ。顔色が良くなかったセリさんも力が満ちている。お肌ツヤツヤ状態である。
「大樫山ありがとう。わたしのためにそんな傷だらけになって」
「人々の幸せを守るのがリキシの務めです。良い強い子を産んでください」
この後月日満ちてナズナ夫妻は女の子を授かった。玉のような笑顔のかわいい子であった。母子ともに健康で、翌年に新たに男子を授かったという。
アルフレッドらは国境線の戦争を思い出していた。
隣国が一方的に宣戦布告し国境の砦まで殺到したときに、不幸にもアルフレッドは初陣で砦に配属されたばかりであった。
砦の展望に上がれば、眼前を埋め尽くした隣国軍がしずしずとこちらに押し寄せてくるのが見える。
「ああ、生きて帰れないんだろうなぁ。ついてないなぁ……」
「すまんな、もはや逃がしてやる余裕もない」
「団長……」
アルフレッドの背後に立っていたのは砦の責任者、オオノ団長だった。その横には砦に滞在中だった吟遊詩人、イイオキ氏もいる。
「残念ではありますが運命を共にするもの。その戦さを命絶える瞬間まで朗々と謡いあげて見せましょうぞ」
「惜しむらくはその歌を聴くものがいないことですな」
「なんの、この世で聴く相手がいないならば冥府の鬼に向けて聞かせましょうぞ」
「フハハ、流石は音に聞こえた吟遊詩人、豪胆ですな」
「吟遊詩人にとって謡うべくものを歌えぬことこそ恥でありますれば」
そうしているうちに隣国軍は矢の距離まで来た。もはや先頭の兵士の表情まで見える。
「来たぞ。総員構えろ!……なんだ?」
オオノ団長がその手を振り上げようとしたその時、砦の正門の外にひとりの男が立った。
「誰だあれは。即刻下がらせろ!」
「あれは町のほうから来た、確か大樫山とかいう冒険者の戦士です」
展望の騒ぎをよそに、大樫山の耳聞こえの良い美声が響いた。
「隣国軍に告げる。兵を、力を持ちいて平穏を乱す所業許し難し。即刻兵を引かれよ」
「バカめ。そのようなたわごと聞けるか。貴様ごと砦を踏みつぶし、国を蹂躙してやろう」
「どうしても引かぬと?」
「無論、当然、自明の理だ」
「ならば良し、貴軍があくまで兵によりこの地を蹂躙するというならば、まずはこの大樫山を倒していただこう。来たれ!大鉄傘!」
大樫山の叫びと共に、砦を含めた国境線に沿った光の壁が南北に走った。天空の神の目で見れば、国を大きく覆う光の傘が見て取れるだろう。
「小癪な真似を。弓兵、魔術兵、あの壁を打ち壊せ。破城槌でぶち破れ」
だが雨のように撃たれた矢は屋根に遮られる雨のごとく、火球氷弾雷術も城壁に水をぶちまけたほどにも効果を発しない。
「なんだあの壁は。あれほどの大魔術、どこかに綻びがあるはず」
その綻びは隣国の真正面にあった。
大鉄傘は砦を一部含んで展開されている。その砦の大きく開け放たれた正門のみ、大鉄傘の防壁は展開されていなかった。正門には正円の舞台が設えられている。ドヒョーサークルである。
「この大鉄傘はあまねく国を覆い守る光の壁。通りたくばこの大樫山をこのドヒョーサークルで打ち倒すのみ。さあ、我こそは、という益荒男は疾く来たれ!」
「おい、第2部隊。かまわないから全員で突っ込め。あのバカを殺せ」
隣国第2部隊が剣や槍を片手に正門に突っ込んだ。だが、通過できたのは最初のひとりのみ。あとの数十人はドヒョーサークルに立ち入ることもできずはじき返された。
「さあ来い!」
両腕を大きく広げズイっと前に出てきた大樫山に、不幸なひとりが槍を構え特攻し、案の定右の張り手でドヒョーの外に弾き飛ばされた。
「さあ次はだれだ?」
隣国の攻撃は日が傾くほどまで続いた。そしてその全員がなすすべもなく大樫山にドヒョーの外に放り出された。
夕方、17時すぎごろ、隣国から4人の増援が着いた。
「見てられねぇな」
「おお、国の四天王、火水風地がそろい踏みとは。これで勝てる!」
「じゃあ俺から行くかな」
派手な装飾を施された赤い鎧を着た軽薄な雰囲気の男が、巨大な両手剣を担いでドヒョーサークルに入ってきた。
「火のイフリートだ。この魔剣レーヴァテインの錆にしてやる」
睨みあった2人の立ち合いはドヒョーの中央で激しくぶつかり合った。
勝ったのは大樫山のぶちかまし。レーヴァテインごとイフリートの体は隣国軍の真っただ中に吹きとんでいった。決まり手は押し出し。
だが大樫山も無傷ではなかった。それまで着けていた荒い麻袋が大きく裂けていた。
大樫山の肉体は傷を負っていない。だが、大樫山の正体を今まで隠していた麻袋が破れ、その異形の顔を晒していた。
「オークだと?」
「オークなのか?」
敵味方両軍から疑問の声が上がった。が、
「オーク。彼はオークなのですか。まさか、これほど歌になる英雄譚の主人公がオーク!なんということだ!素晴らしい!美しい!これは詩がはかどる。おお芸術の神よ、私をこの場に居させてくれた幸運に感謝します!」
感極まったイイオキ氏が絶叫する。
そうしているうちに隣国軍から2番目の将が出てきた。
「火なぞ四天王では下っ端。オークごときにこの水のクラーケンが負けるはずもない。我が無限水流に朽ち果てるがいい」
決まり手は小手投げで大樫山。
「水流による押し出しは悪くない手だったが、その程度では力水にもならん」
「ならばこの風のウィンディアが」
決まり手は送り出しで大樫山。
「女性であれどドヒョーの上では平等。だがかまいたち程度でリキシの体を切ることはできぬ。先の水のように押し出しを狙うのであったな」
最後に残った土の将がドヒョーの手前に立つ。
「土のガイアだ」
ガイアは名乗ると、背負っていた大斧を投げ捨て、鋼鉄の鎧も脱ぎ始めた。
「最初から見ていた、大樫山。このドヒョーサークルの中では武器は役に立たない。無手が最も力を発揮する。そしてこのドヒョーから押し出されるか、倒されて五体を地につけば敗北だな」
「然り、ドヒョーの上では武器による攻撃は加護により激減される。ドヒョーの上では五体こそが唯一の武器。それがリキシの誇り」
「待たせたな。さあ始めよう」
鎧を脱ぎ捨て鎧下の上着も脱ぎ捨てたガイアがドヒョーの中央に立つ。大樫山に倣い靴も脱ぎ捨て裸足である。大樫山よりわずかに上背があるその体つきは大樫山と見比べても遜色のない物であった。
大樫山が進み出て両拳を地に着く構えを取った。日も沈み山の峰に残滓を残す。18時まえくらいか。
同時に立ったふたりがドヒョー中央でぶつかり合った。ともに右手が腰を掴む。ガイアの右が大樫山のマワシをガッチリと掴み、大樫山の右がガイアの腰布をガッチリと掴む。
ドヒョーの真ん中でふたりの肉体に力がこもる。両人の肩が盛り上がり、腕の筋肉が脈動する。大きく開かれた両者の足が大地を掴む。
力の限りを振り絞った両者の体がドヒョー中央でせめぎあった。
「がんばれ大樫山」
固唾を飲んでドヒョーを見つめるアルフレッドがつぶやいた。
「アルフレッド、声が小さい。応援ってのはこうだ。頑張れ、大樫山ァァァァァ!」
オオノ隊長の絶叫が砦に響き渡った。堰を切ったようにそこかしこから応援の言葉が飛んだ。
「押せぇぇ!オオガシヤマ!」
「負けるなガイアー!」
両軍から声援が飛ぶ。
ドヒョーの中央で動かない両者。長いスモウになってきた。
だが、ついにその均衡が崩れる。
大樫山が出る、大樫山が出る、こらえるガイア、ガイアこらえる。ガイアの足が俵にかかる、こらえるガイア、寄る大樫山、押し切れない大樫山、大樫山の寄りがドヒョー際で止まる。
肩で息をする両者。
「行けぇぇぇ!大樫山ぁぁぁ!」
アルフレッドの声が大樫山の背を押した。大樫山の右腕にさらなる力がこもった。
ああ、ガイアの体がドヒョー際で裏返された。ガイアの体がドヒョーの下に落ちる。
長い長い大一番、決まり手は下手投げ。
およそ1月の対峙の後に隣国は兵を引いていった。力押し、絡め手を駆使してドヒョー上の大樫山を、そして大鉄傘をなんとかしようとしたがすべては徒労だった。
あるいはガイアが再び挑めば大樫山も負けたかもしれない。だが他の3人は打倒大樫山を決し挑んだものの、当然のように武器ありでは話にならず敗北を重ねた。そしてガイアはそれを見守り助言はすれど、ドヒョーには上がらなかった。
戦争が終わり、といえども国境線での話ではあるが、務めを果たした大樫山は国の王に召喚された。
もはや麻袋は被っていない。豚にも似た屈強な顔は、現在国一番のハンサムである。
「このたびの功績、1月に及ぶ長い時間をたったひとりで関を守り、人々の命を救い平和を守った。難攻不落の城に勝るとも劣らぬ大樫山を大いに称え、大いなる関、オオゼキの名を送る」
「この大樫山、人々のために、人々の幸せのために、不撓不屈の念を持ってスモウに励みます」
「ありがとう大樫山、この国を助けてくれて本当にありがとう」
時は戻り現在。国崩しの威名を持つ魔竜が国を襲った。城は崩れ落ち、大樫山にオオゼキを授けた王も行方は分からない。
町は火の海になり逃げ惑う人々をむさぼり食らおうとした魔竜の前に、断固として立ちふさがったのが大樫山だった。
炎の吐息を真っ向から耐え、振り下ろされる鉤爪を躱して突き押し、余波のガレキから人々を守り続けてはや一昼夜、全身いたるところ傷のない場所はなし、まさに満身創痍の言が当てはまるその肉体を物ともせず、大樫山は魔竜に対峙していた。
「がんばれ、大樫山……」
アデッタが祈る。
「頑張ってくだされ、大樫山」
マイッツァーが見守る。
「あなたのおかげで強い子ができました。大樫山、負けないで」
ナズナ夫妻が声援を送る。
「大樫山、オオゼキなんだろ、誰にも負けない関なんだろ、頑張れ!」
「その力強きを見せてくれ!」
「おお大樫山、今こそ活躍の時!私の、わたしたちの英雄、千秋楽を勝利で彩ってください!」
アルフレッドたちの激励が大樫山に送られる。
遠く街はずれからも祈りが届いていた。オークでありながら力強く、いついかなるときも幸せを守り人々を助けた大樫山。この魔竜の襲来に際しても多くの人々が大樫山に助けられた。
「大樫山、大樫山、ありがとう!」
「オオガシヤマー、ガンバレー」
「勝ってください大樫山、あなたならできる」
おお今こそ見よ!祈りを、声援を送られたオオゼキ大樫山の体が眩いまでの光に包まれてゆく。
やがてその光は収束し、翼、いや、雪よりも白い綱として大樫山の背後に締められた。そして腰の前面には化粧マワシ。赤地に金縁で彩られたその化粧マワシには天を貫く大樫。
まごうことなきヨコヅナの雄姿である。
ヨコヅナとは成るものではない、選ばれるものなのだ。善を勧め悪を打ち、幸せを守り不幸にぶちかます。人々のため、人々の幸せのためにスモウに邁進した一握りのリキシのみがヨコヅナとなるのだ。
その美しさ、その力強さ、その神々しさ、まさにヨコヅナの名にふさわしい。
赤黒く魔竜の名に相応しい国崩しの邪悪さとは対照的であった。
ドヒョーにはいつの間にか第3者が立っていた。裃を纏い、軍配を持つもの、裁定の神である。
『ヒガァァシィ、ヨコヅナ大樫山、オオガシヤーマー、ニィィシィ、国崩し、クゥニクズゥゥシィィ』
『コレヨリ千秋楽ニゴザリマス』
ギョウジが軍配を手に両者のあいだに立つ。大樫山の綱と化粧マワシは光となって消え去っていた。
残るは戦闘装束たるマワシとその肉体のみ。
国崩しの両眼を睨み据える大樫山の両拳がゆっくりと地に着けられた。国崩しの顎が開かれ、必殺の吐息が口中に充填されていく。
軍配が返った。
『ハッケヨイ!!』
「というお話だったのさ」
「おばあちゃん、その話、最後はどうなったの?」
「そうだねぇ。どうなったんだろうねぇ」
ある晴れたうららかな日、老婆とその孫娘を乗せた馬車が都の入り口までやってきた。
馬車はゆっくりと外壁に設けられた城門をくぐってゆく。
「いじわるしないで教えてよおばあちゃん」
「はいはい。馬車の右手をごらん?」
「わぁ、なにアレ?」
現在ある外壁は近年建て増しされたものである。旧来の城壁は取り壊されたが、コレだけは残された。
「あれがね、大昔にこの都を襲った魔竜よ」
ソコだけ残された旧城壁は現在都の観光名所として大いに栄えている。
そこには城壁にめり込み、そのまま朽ちた魔竜の全身像が残されていた。
決まり手は突き出し、突き出しで大樫山の勝ち。