11 ネルの家にて
延々と続く回廊には帰路に着いたばかりの2人の足音だけが反響し、その足音以外には虫の羽音すら耳にできないほどの静寂さが際立っている。床に落ちる雫があるならばそんな微弱な音すら耳に留まりそうだ。
「あの~ネルさん?」
「ん? なんじゃ? ワシに対してさんとか言うでない。気色悪いのぅ。」
束ねていた髪を振りほどき、前髪を整えながらキノに答えるネル。キノを家に招く事ができたのが余程嬉しいのか、口元が緩み少しばかり目尻が下がるその表情は、嬉々として弾んでいるのが誰の目から見ても明らかだ。
「……こちらがネルさんのお宅?」
「そうじゃな。」
ネルは鼻高々といった様子でキノに答える。誰だろうと我が家に関心を持たれるのは誇らしいことである。気のせいか彼女の足元も軽く弾むかのようにその歩みを進めている。
「何LDKですか?」
「えるで~け~?」
えるで~け~。聞いたことがない。何かの単位なのか? それとも呪文か? 頭の中がクエスチョンマークになりながらも、この後両親にキノをどう紹介しようかと思考をフル回転させる。
「あ……何でもないっす……お部屋は何部屋ほど?」
「さてのぅ。関心がないので数えた事もないわ。」
当然である。この屋敷には家族だけではなく、メイドや料理人、警備の者等多くの使用人が住み込みで働いている。いちいちそのような者の生活状況まで知る必要も関心もネルにはない。それゆえ、いつも見慣れている屋敷の間取りなど彼女の心を満たすものにはなり得ない。
「この等間隔で並んでる屈強な方々は? とってもお強そうに見えるのですが?」
「ああ。気にせずともよいぞ。お主に悪さをするような馬鹿者ではないはずだからな。」
表情一つ崩さず正面を見据え小盾を左腕に腰には剣を携えた男が、二人が歩む回廊の両端に直立不動で構えている。微動だにしない様子から初めは作り物の像かと思っていたが、ネルが前を過ぎる際に少しばかり視線が泳いでいるのをキノは見逃さなかった。
「ちなみにこの家っていうか、お城だと思うのですが……廃墟じゃないで……ふぐおっ!」
キノが言い終わる前にネルの肘打ちが脇腹に突き刺さる。もう少しずれていたならばキノの肋骨は二本ほど小枝のように折れていただろう。
「……それ以上は言うな。」
「あい……。すみません……。」
―廃墟―
キノがそう尋ねるのも無理はない。よく整えられた多くの仕える者がいる。城といっても過言ではない建造物。多分、いや間違いなくネルは王族の血筋なのだろう。
だが、何もないのだ。
建物しかない。
床を彩る絨毯はおろか、絵画や彫刻といった調度品すら一つもない。あるのは日射しを遮るために整えられたカーテンくらいか。それすらもニーチェの家にあるものよりはるかに質素なものである。
しばらく歩いていくと、目の前に豪奢な扉が見えてきた。
間違いなくこの先にはネルの両親がいるはずに違いない。
「父上、戻りましたわ。」
凛としたネルの声に瞬時に反応するかのようにゆっくりと扉が開く。
部屋の奥の座にはやはりといっていいだろう。王と呼ぶに相応しいオーラを放つ髭を蓄えた屈強な男が鎮座している。
「うむ。少し帰りが遅いので心配しておったぞ。……で、その男は?」
ネルの父親である男は怪訝そうな表情をキノに向ける。その口調、表情からは敵意は感じられない。むしろ関心すら薄そうである。
「はい。今日散歩をしていると、ヌールの草原で意識を失っていたので少しばかり介抱しましたの。話を聞くとかの地からこの地に流れ着いたようでしたが、トゴーチの町で歓迎されず彷徨ってしたうちに疲れ果ててしまったようですわ。そのような状態でしたので、あまりにも不憫と感じたゆえにこちらに招くのがよいと思いまして。」
―違う。いつものネルじゃない。何というか……お上品過ぎて気持ち悪い。いつものあのキャラはどこに隠したんだ!?―
そう感じずにはいられないキノであったが、波風たてないように言葉を紡ぐネルに感心しているのも事実である。
そしてその佇まいにも目を奪われる。格好は冒険者のような着飾りではあるが、父親と言葉を交わす姿は凛としていつもの砕けた姿が微塵にも感じられない。これは幼少から王族として振る舞いを叩き込んだ親の教育が行き届いている証拠だろう。
「なるほど。我が娘ながらそのような慈愛に満ちた行いは皆の手本となるであろうな。だが、城に連れて来ずとも城下町の宿にでも案内すればよかったのではないかな?」
―やはりここは城か。ということはこの部屋は玉座の間といったところか。けど……ここにも何もないぞ? よっぽど財政難に苦しんでる国なのか? いやいや、城に来るまでの町並みは結構な暮らしぶりに見えたんだが…―
口には出さないがキノの目から入る情報からは奇妙な矛盾を感じ得ない。町の繁栄とは反比例しているのだ。
「確かにそうすべきかと思いましたがトゴーチの町での扱われ方を考慮しますと、たった一人で見知らぬ地に流れ着き右も左も分からぬまま町の宿屋に押し込まれるなどという行為を許すならば、それは愛ある親切と呼べるでしょうか?」
ネルはしっかりと自身の父親を見据え、己の考えを声高に告げる。普段は可愛がるばかりでいつまでも娘は幼いものだと感じていた自分の考えに改めねばなるまいと娘の心の成長を喜ぶ反面、若干うろたえながらも娘の続く言葉に耳を傾ける。
「実のところ私はそのような扱いが相応しいとは思いませんわ。少なからず知った間柄の私の家に招き、昔話に華を咲かせて語らい、これまでの疲れをゆっくりと癒す空間こそが今の彼に必要な助けだと。」
「彼? ……知った間柄? 昔話……だと?」
娘を愛でる空気に包まれていた玉座に座る男の表情がみるみる変わっていく。
「ええ。父上にも以前お話したでしょう? 気になる方ができたと。」
少し照れているのか頬を赤らめうつむくネル。
「……まさかその者が?」
徐々に般若の如く眉間に怒りのしわが刻まれつつある。顔色もネルに勝るとも劣らぬほどに赤らんでいく。
「はいっ。もうこれは奇跡だと私は確信しておりますわ。奇跡以外にはありえませんわ! 今日はもう遅いので明日にでも彼の……」
くねくねと体をくねらせながら照れを隠そうともしないネル。そして父親の豹変にまったく気づく素振りもない。
そして痙攣のように体を震わせゆっくりと玉座から立ち上がるネルの父親。
「こやつがネルをたぶらかしたのかあぁぁぁっ!!!」
「ひ、ひっ…………があああっ!!」
雷のような怒号が響いた瞬間、空気に殴られたかのようにキノはその声圧によって吹き飛ばされ激しく壁に叩きつけられた。




