10 ゴールはもうすぐ
「ところで、ネルの家ってここからどのくらいの距離があるんだ? 女一人で出歩くくらいなんだから結構近いんだろ?」
嬉しそうに鼻唄を歌いながら隣に並んで歩くネルにふと問いかけるキノ。肌を撫でるように吹く風が少し汗ばんだ肌に心地よい。
「そうだな。このペースで歩くならおよそ一週間といったところだと思うぞ。こんなのんびりしておるなら間違いないじゃろう。だがな、焦らなくても我が家は逃げたりはせぬから安心するのじゃ!」
キノの問いかけに気にする素振りもなくニコニコしながら答えるネルの言葉に開いた口が塞がらないキノ。
「ちょっと待て……あと一週間だと? それはあかん……あかんぞ!」
「? 何をそんなに慌てておるのじゃ? 我が家は逃げも隠れもせんと……」
焦りを隠せないキノに『こいつ何言ってんだ?』と言わんばかりの眼差しを向けるネルであるが、キノ自身としてはたまったものではない。
一週間。
キノの懐にある財産がもつかどうかのギリギリのラインでもある。
タブレットで食料を買うことができないにせよ、手持ちが少なければ調味料や水すら買えなくなる。いざどうしようもなくなってしまえば、そこらに生えているペンペン草程度の食材に塩をかけてでも手を出すのはやむを得ないであろう。
だが、キノの中には譲れないものがある。
料理はおいしく。
酒にあうものを。
味付けのないゲテモノ料理?
巨大ムカデの素焼き?
冗談じゃない。いっそのこと餓死したほうがマシだ。
「い、いや、あれだあれ! 年頃の女の子が一週間もふらふら家から出てたら両親が心配するだろ? しかも帰ってきたらなぜか見知らぬ男を連れて来たとなると間違いなく家族会議もんだぞ。」
キノの言い訳がましい言葉を聞いていたネルだが、宙を見つめ少し考え込むと何かを閃いたのかニヤリと微笑んだ。
「それもそうじゃな。では……」
~~・~~・~~・~~・~~・~~・~~・~~
「むほ――! これは気持ちいいの――! この魔導具は馬車のように揺れもなくすいすい進むのぅ! ほれもっと速く進ませるのじゃ!」
自転車をこぐキノの両肩に手をかけ二人乗りを楽しむネルは、弾けんばかりの笑顔ではしゃぎ声をあげている。
「ぜぇ……ぜぇ……これ以上は無理……足つりそう……」
もう辺りは薄暗くなりかけている。なだらかな道が続いてはいるが、かれこれ二時間は休みなく自転車に乗っているだろうか。途中やらせろと駄々をこねるネルにやらせてはみたが、さすがにすぐに乗りこなせるわけでもなく結局キノがハンドルを握ることとなった。
「なんとまぁ非力じゃのぅ。ワシがこやつを乗りこなせるようになれば町から町へ馬よりも速く走ってみせるぞ!」
「ぜえ……そうかいそうかい……ぜひとも早いとこ乗れるようになってくれよ。そして俺を後ろに乗せて楽させてくれ……」
緩やかな上り坂を立ちこぎしながらペダルを踏み込む。この自転車が変速機能すらないママチャリだったならば、すでにキノの足は乳酸がたまってギブアップしていただろう。
「うむ! やはり暇潰しにとお主を見定めたワシの目に狂いはなかったわ! どうだ? ワシにこれを譲ってはくれぬか? ぬおっ! 下り坂なのじゃ! 風が気持ちよいぞ――!」
ケラケラとはしゃぐネルの笑い声が草原に響く。若干凸凹した道なので軽く弾んではいるが、ペダルを漕ぎっぱなしのキノにとっては一時の休息といったところか。
「ふぅ……まぁそんなに欲しいならいいけど誰かに目をつけられて盗まれても知らねえぞ。まあネルから何か奪おうって命知らずはいないとは思うけどな。」
「にしてもだ。」
「何でお前はこいつの事知ってるんだ?」
「ん? こいつとはこの魔術具の事か? それはな、お主と初めて会う前に気持ち良さそうに乗っているのを見かけたからじゃ。それでワシは思ったのじゃ。『このけったいな魔術具に乗ってみたい』とな。そして更にこうも思ったのじゃ。『もしかしたら暇潰しになるものをもっと持っているのではないか?』ともな。」
「……あれか……グラーシュさんの依頼を受けて急いでいた時に乗ってたのを見たんだな……って全然気がつかなかったわ!」
「まぁお主に気付かれるほど未熟ではないぞ。一応幼き頃より鍛練はこなしてきたからのぅ。で、先程の言葉は嘘ではあるまいな!? この魔術具を譲ってくれるというのは!」
「あ――やるやる。助けてくれたお礼と思えば安いもんだ。それとこいつは魔術具じゃねぇからな。自転車っていう乗り物だ。魔素はいらないからコツさえつかめば誰でも乗れるからな。」
「ふむむ……魔素がいらぬとは……一体どうやってこんな物を手にしたのじゃ? 料理の味付けといい暗闇を照らす魔術具といい色々な地に赴いて見聞を広めておるワシが知らぬ物を、お主はまだまだ隠し持っておるように思うのじゃが……」
「ああ前にネルにやった懐中電灯か。とりあえず余計な詮索はすんなよ――。じゃないとすべて没収だからな――。」
「う、うむ! 分かったのじゃ! だから没収だけは……」
―うまいこと口止めはできそうだ。だがあまりこいつの前ではタブレットの購入品を大っぴらにしないほうがよさそうだな。にしても……漕ぎっぱなしは辛すぎる……まだ着かねぇのかよ……―
下り坂から平坦な道に戻り、再びペダルを踏み込むキノ。とその時、ネルが前方を指差し声をあげる。
「キノよ! 見えてきたぞ! あれこそがワシが住むアルス王国じゃ!」
ネルの声に反応し視線をその指先に向けると、すっかりと陽が落ちた暗闇にぼんやりと町の明かりが遠くにあった。
「よ、よっしゃああぁぁ! もうひとふんばりだああっ!」
ゴールが目前に迫ったキノは溢れ出そうな安堵感を押し殺し、ぷるぷると震える両足に気合いを入れ直した。
アルス王国で待ち受けるいたたまれない程の不運を知らずに。




