10 海の中では誰でも臆病になる
『うっわ……キノの準備してくれたこのアイテムすげ~な……』
ワイヤーに吊るされた錨と共にゆっくりと暗い海の中に沈みながら、思わずニョロゾは呟いている。
若干の潮の流れはあるがその身が流されるほどの速さでもない。ゆっくりと海の底に近づいてゆくせいなのか、漆黒の闇に似たような薄暗さに包まれつつある足元に目を奪われてしまう。
『失敗はできないからな……せっかくここまで段取りしてもらったんだから、是が非でも魔輝真珠を持って帰らないと……』
ワイヤーを掴んでいない左手には、これまたキノから譲ってもらった懐中電灯がある。魔法では補いきれない明るさの維持を可能にしている。
徐々に深い藍色に吸い込まれるように、海底深くまで沈みながらニョロゾはふと自身の胸に沸き上がる不安に駆られていた。
『俺って生きて帰れるんだよな……?』
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「それって何するの?」
甲板の上で釣竿とリールをカバンから取り出して準備を整えつつある俺に覗きこむアヤメさん。
「これはですね……刺身を手に入れるための道具です!」
もう今の俺の心には刺身しかない。魔輝真珠なんぞどうでもいいと思い始めている。とにかく刺身が食いたいのだ。
「えっと……刺身っていうものがどんなものか分からないんだけど、キノくんが欲しがるくらいなんだからよっぽどのものなんだろうね!」
屈託のない笑顔を向けるアヤメさんだ。この笑顔と色気に惹き付けられファンになる冒険者も山のようにいることだろう。
だが、今の俺の心はまったく乱されない。例えアヤメさんが乱れた装いで迫ってこようとも一瞥をくれるだけで、その後の進展は皆無に等しい。
俺は刺身が食いたいんだ。
「おおっ!このアイテムを出したってことは……新鮮な魚が食べられるんだ!」
目をキラキラさせながらネシャが近づいてきた。うむ。とりあえず口元のよだれを拭くんだ。
「川の魚と違って海の魚は種類が豊富だからな。どんな大物が釣れるかも分からないからこないだの道具よりしっかりしているだろ? もちろんたくさん種類が釣れれば料理のレパートリーも格段に広がる。つまりは……びっくりするようなものが食えるぞ。」
ニヤリと不適な笑みをネシャに投げかけ親指を立てる。すかさずお返しとばかりに右手の親指を立てるネシャ。
「んじゃみなさん。俺はニョロゾから連絡来るまでは自由にさせてもらいますからね!」
ジグと言うルアーをラインの先に結び海面に落とす。
かなり沖合いに出ているせいかどんどんラインがリールから出ていく。程なくしてラインの動きが止まった。ジグはどうやら海底についたようだ。
「さて……今夜は久々の刺身だぁぁぁ!」
一声雄叫びをあげ、俺はロッドをしゃくりあげ異世界でのジギングを始めたのである。
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『……なんだ? あのキラキラ光りながら沈んでいったのは?』
ゆっくりと沈んでいくニョロゾをあっという間に追い越して、僅かな日の光を反射しながらジグが沈んでいった。
『ネシャがスプーンかフォークでも落としたかな? いい気なもんだな。。。ぁあああ!?』
軽くため息をついて視線を足元に向けると、ニョロゾの倍以上もある銀色に光る魚体が何かに引きずられるように上へと泳いで行った。
『な、なんだ!? 俺食われるかと思ったぞ……』
たった一人で海の底に潜る今のニョロゾにとっては、すべての事が自分の命に関わることだと認識している。ゆえにたかが魚であっても気を抜けないのだ。
『にしても、まだ底に着かないのかよ……っと……あれは海の底か?』
ライトに照らされた先に海藻が揺らめく岩場が徐々に姿を表してきた。
わずか数メートル先しか確認することができない黒い海底には、いびつな岩と海藻、そして銀色に輝く魚体を揺らめかせて数匹の魚が優雅に泳いでいる。
『う~む。やっぱりネシャも来てもらえばよかったな。正直怖すぎるぞ。まぁ泣き言ほざいても始まらないからさっさと探すか……』
鋼のワイヤーに命綱をくくりつけ周囲を照らしながら魔輝真珠を探す。事前に調べた書物からどのような貝なのかはわかっているので手当たり次第に岩場の隙間を丹念に調べる。
『相当量の魔素を含んでいるから近づけば気配が感じられると思うんだけどな……っと! またか……これはスプーンじゃないな?』
ニョロゾの目の前に先程と同じ銀色のジグが落ちてきた。手に取ろうとすると、まるで生きた魚のように海底から跳ね上がる。不規則な動きをしながら徐々に上へとあがっているようだ。
そして肉眼では確認できなくなるほど上昇したその時である。漆黒の闇の中から目にも止まらぬ早さで一匹の巨大な魚がジグめがけてその大口を開き一飲みにしてしまった。
魚は先程と同じように暴れながらも何かに引きずられるようにゆっくりと上へ消えていった。
『……間違いなくキノの仕業だな。ってことは今夜の酒のつまみはあの魚だな! うし! 早いとこ見つけてうまい酒にありつかねぇとな!』
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「キノくん……ちょっと凄すぎだよ……レイザーサーモンもこうやって手に入れたんだ……」
ポカンと口を開けてため息混じりにアヤメさんが呟く。
「まさかこれ程と……ある意味今後の食の流通を劇的に変えてしまいそうですね……」
憎らしいほどのイケメンのグラーシュさんもアヤメさんと同様の表情だ。
「くうぅっ! キノが釣ってるのはどれも数十万は下らないやつだよ! もうキノは漁師になるしかないよ!」
目を輝かせながら、釣り上げた魚を手早く捌いていくネシャが興奮ぎみに声を荒げる。
「漁師かぁ。のんびりそんな生活もいいかも知れんな~魔物討伐よりは安全な気がするしな。っと! こいつもでかいぞ!」
余程荒らされていない海なのかほぼ入れ食い状態だ。かれこれ20匹は釣り上げただろうか。いい加減リールを巻く腕が疲れてきたぞ。
「これだけ釣れればみんなにいい土産ができたはず! こいつで最後にしようか!」
船上でお祭り騒ぎのようにしていると足元にいるオルがゆっくりと立ち上がると唐突に話しかけてきた。
―ニョロゾが見つけたと念話を飛ばしてきたぞ―




