明日のLyricistに、願いを。
壁の時計が、十時を告げている。朝じゃないよ、夜の十時。
カバンを勉強机に置いてベッドに寝転んだ時、時計の針は九時を指していたような。ただ黙って布団にくるまっていただけなのに、あの退屈な授業ひとつ分の時間が、あっさりとおれの前を流れ去っていく。
時間の流れって、不思議だ。秒針の間隔は変わってないはずなのに、こんなに感覚が違うんだもん。
帰宅したおれを待ち受けていたのは、食卓の上で勢揃いしていた夕食だった。
今すぐにでも飛び付きたい欲求を抑えて、八時に帰ってくる父さんを待つ。都心の職場から八高線で帰ってきた父さんにとって、一番の癒しは母さんの料理なんだって言ってた。よく分かんないけどさ、そういうの、愛妻料理とかいうの?
いつか同じことを、おれもおれの子どもに語るのかな。だとしたらその子どもは、おれと誰の子?
……そんなことを考えてたら顔が赤くなって、慌てておれ、テレビに目を戻したんだ。
宿題、出てたっけ。
あ、出てた。数学と英語だ。英語は今日のテストで間違えた単語の復習。数学は多分、次回の予習。
おれはベッドから上半身を起こした。部屋の反対側に、勉強机が見える。宿題はぜんぶ、あそこに乗ってるカバンの中にある。
手を伸ばす。届かない。
足を伸ばす。足なんか届いてどーすんだよ。
問題だけを思い出して、頭で解こうとする。……なんてできるわけないだろ。そんなことができるならおれ、とうの昔に長谷部より秀才になってるよ。
結局、完全に起き上がらなければ宿題が手元に来ないことを早々に悟ったおれは、諦めることにした。 いいよ、別にやらなかったからって死刑になるわけじゃないし。明日の朝にでもやれば済むし。
今はもう少し、ここでこうして布団に埋もれていたいんだ。
……長谷部は今ごろ、どうしてるんだろ。
おれは布団を胸元まで引き上げて、それから頭の後ろで手を組んだ。そうして、特に理由もなく天井を見上げた。
長谷部は真面目だし、しっかりしてるからなぁ。おれみたいにだらだらしてないで、今もまだ机に向かってるのかもしれないや。
ちなみにおれの部活仲間が勉強を放り出して漫画を読んでるのは、ついさっき送られてきたメッセージで発覚済みだ。【今月号からの新連載、意外と面白くね?(笑)】なんて書いてあった。こんな時間にメッセージなんて何の用件かと思ったら、それかよ……。拍子抜けしたら、いっそう布団が柔らかく感じて。
もう四年も使ってる布団。おれの臭いと温もりが染み付いた、馴染みの布団。
長谷部の布団からは、きっと長谷部の匂いがするんだろうな。
「…………」
危ない、また変な妄想を始めそうになった。深呼吸をしてスマホを手に取ったら、さらに布団が柔らかくなったみたいに感じた。
ああ、このままどこまでも布団に埋もれて、沈んでいってみたい。そうしたらいつか底の向こう側で、長谷部にも会えたりしないかな。そんな小説みたいなことは起きなくていいから、せめて長谷部の匂いに溺れてみたいや……。
長谷部と出会ったのは、去年。同じクラスになって、同じ体育館を使う部活に入って、それから何かと話すようになって。気付けばもう、一年以上が経とうとしてる。
おれ、いつからあいつのこと、意識するようになったんだっけ。
いつからこうやって、布団の中で『好き』の二文字をもてあそぶようになったんだっけ。
会っている間なんか、まともに目を合わせてるのも苦しいのに。胸から息がどんどん漏れ出して、話題も、あいさつも、何もかもが吹っ飛んで行っちゃうのに。
手持ち無沙汰でスマホを手にしたのはよかったけど、特に何かをしたいわけじゃなかった。長谷部の連絡先は知らない。電話帳にもSNSのフォロー先にも、あいつの名前は見当たらない。聞き出す勇気が出せるなら、おれだっていつまでもこんな風に片想いしてない。
だから代わりに、藤橋にメールを送った。
【今度の羽村の中学校との練習試合、頑張ろうな】
【こんな夜中にどうしたんだよ(笑)】
即、返事が返ってきた。それおれのセリフなんだからな、この野郎。薄い笑みを口元に引きながら、メールの続きを目で追う。
【ま、練習試合が終わって期末試験を乗り切れば、夏休みだもんなー。お前も夏祭り、一緒に行くだろ?】
多分ね、と返信をしたためる。多分ね、と口にも出してみる。
多分、お前らと一緒だよ。長谷部と一緒に行きたいけど、行きようがないし。
ため息をひとつついたおれは、スマホを適当に投げ出した。しんとした夜の空気が、カーテンの隙間からそっと部屋に忍び込んでくる。部屋に漂うそれを見るのが嫌で、壁に向かって身体を横にした。
壁とおれの間に、人ひとり分くらいのスペースができてる。そこにいてほしい姿を考えながら、不意に身体中を駆け抜ける痺れのような衝動を感じて、おれはまた、大袈裟にため息をついた。むずむずするようなこの感覚、嫌いじゃないけど、好きでもなかった。疼く快感に抗わずにじたばたしてみたい。でも、前にそれをやって母さんに『うるさい』って怒られたんだよね。
長谷部。
おれさ。
一度も白状したことないけど、それどころか最近はちっとも会話もできないけど。それでもお前のこと、好きなんだよ。大好きなんだよ。
本当は今みたいに避けていたくないよ。隣を歩いて、手を繋いで、同じ景色を見て笑っていたいよ。どんな些細なことでもいいから、拾ったり見つけた幸せを分かち合いたいよ。……もっと欲を言ってもいいなら、触れてみたい。抱きしめてみたい。おれの知らないおれを見てみたいし、他の誰も知らない長谷部を見てみたいけど。
でも今はまだ、そんな未来に踏み込む一歩を出せなくて。
だから寄り添う幸せを味わっていられるのは、夢の中だけ。勉強もスポーツもできて、あいつを振り向かせられる魅力を何もかも兼ね備える自分なんて、幻想世界の住人でしかない。
夢の中でなら無敵になれるんだ。そしたらおれ、いくらだって言えるのにな。
『好きだよ』……って。
嬉しくて寂しい悲鳴を上げる悩みに心をぐらぐらと揺らされながら、おれは今夜もまた、眠りにつく。布団を抱きしめる。
おやすみ、今日。
楽しい明日が訪れますように。明日は今日よりも、笑っていられますように。
明日こそは大好きなあいつに、自分の気持ち、言えますように。




