跫
無欲恬淡である事が美徳だと自負しているわけではないが。
私の生き方を鑑みるに、さして華やさや潤おいを必要としない生活が最も自分なりで心地の良いものなのだと感じられた。
そんな性分だからか、あるいはそんな性分に根差していたのか。私の楽天的な性格はよく周囲に心配をかけた。
私の働く会社では月の後半でもない限り残業がないので、今日も定時あがりと勝手に予想していたのだけれど。この日は欠員が出て、穴埋めのために3時間も残される。瞼を揉み自分の肩をたたきながら押したタイムカードの打刻は20時14分を示していた。
会社から歩いて数分の駅から4駅先で降りる。ぎゅうぎゅうに成る程に混むことはないにせよ、朝といい定時あがりの時といい、人の多い電車内は仕事に慣れはじめた今でも息苦しくて辟易してしまう。なので、この時間帯のまばらな他の乗客に混じって貝のように静かに腰掛け、窓の向こうに時折のぞく眺望絶佳の街並みをただただ見るというのはなんだか安らぐものがあった。ふと、今日は何の日だったかを思い出した。しかし私は冷めた人間だから、今日という日はめでたくとも何かの形で祝おうとも思わない。
私が気づいたのは、駅を出てアパートへ向かう道を歩き始めた頃だったが、おそらくは駅のホームからずっとそれは聞こえていた。こつこつとアスファルトを叩く音、足音だった。
居住区に面した大通りを沿う。
そのうち曲がるかと思いきや3つあった小道にはその人の目的地はないようだ。
歩調は私よりわずかに遅く、そのまま進めば聞こえなくなるはずだったが、信号待ちの際に追いつかれる。
響きの良い音は革靴で、微かに聞こえる衣擦れはスーツ。
ーー同じ車両に居合わせた矍鑠とした御年配ではないか。などと、勝手な予想を立ててみるが自信はない。
振り向いて答え合わせをしてみるのも良いが、そのような酔狂で顔を合わせるのも失礼なものだと思い、青に変わった信号に従ってそのまま歩いた。
コンビニを横切り、電柱のある角を曲がる。
依然に足音が聞こえる。
この先は畦道につながる曲がり角を外せば私の住むアパートくらいしかない。
その先にある家々だって可能性はあるが、ひょっとして同じアパートの住人かもしれない。
あまり顔を合わせないのでどんな住人がいるかはあまり知らない。もし住人の一人だったとしても、なんだか気まずいので振り向きたくない。一度挨拶をしてしまえばそれで終わりなのだから、振り返れば良いと自分でも思うのだが。抵抗があった。
両隣の住人ならだいたいわかる。一方は大学生の男の子で、よく友達を連れてきては夜通し賑やかに話している。
もう片方の部屋には初老の男性が住んでいる。大家さんの親戚ということは知っているが、いつも静かで挨拶するときも目を見ずに会釈する人だった。悪い人で無いのだろう。ただ、スーツや革靴を着ている姿は見たことがない。
アパートの敷地に入る。二階への階段を上っていくと、少し遅れて後ろから同じように階段を上る音がした。ふと、今日も同僚と一緒に昼食を摂ったのだが、その時の噂話を思い出した。
最近は近くで一人暮らしの女性を狙った犯罪がよく起こっているのだと。犯人はまだ捕まらないという。
犯罪なんてメディアで知らされるだけの存在で、場所が近かろうと対岸の火事のようなもので、無関心だった。
いざこの状況に陥って初めて危機感が生まれるというのは、我ながら都合の良い性格で、怜悧さの欠けた行動だと思い、自嘲気味にため息が出た。
自分の部屋の扉を横に止まる。
後ろの人も同じように足を止める。
後ろにいる人が件の犯罪者ならば、どういう手口で来るのだろう。
場所が割れたのだ、今でなく別の日を狙うのかもしれない。いや、それは甘い考えだろうか。
立ち止まって数秒経ち、物音がしなくなった後ろにはまだ誰かがいる。
私が通り過ぎ、その後ろの人間が近くに立っているであろう老人の部屋の扉が開かれるわけでもなく、ただ無音になった。居なくなったのかと思ってしまうほどに静かだ。
さて、誰だろう。
親や友人が唐突な用事で、しかもサプライズのつもりでこんなことをやっているのだろうか。なら面白く無いときっぱり言う必要がある。
ひょっとしたら一つ向こうに住む大学生が私と同じように挨拶をするのを面倒がっているのか。すると私が入るまで待っているのもなんとなくはわかる。そうだとすると、犯罪者云々と杞憂する自分が馬鹿馬鹿しく思えると同時に、人の事を言えないけれど、今のタイミングでも挨拶しないままやり過ごそうとしているのはどうかと思う。
仕事疲れに要らぬ気疲れが上乗せする。私は後ろの人間に軽く挨拶をして、さっさと部屋に入ってしまおうと考えた。
ああ、疲れた。欠員はそこまで珍しいことではないが、あまり多いと気が滅入るので控えてもらいたい。簡単に食事を準備した後、シャワーを浴びて、いつもより遅い食事を摂ってテレビを見よう。23時からのニュースを程よく見たら寝てしまおう。
その前に、後ろにいる大学生か。はたまた遊び心の過ぎた知人か。知人ならギリギリまで気づかぬふりをしてやろう。遊び心というのなら遊び心で返す。これが私の些細な答の矢だ。
鍵をバッグから取り出し、ドアノブに手を伸ばす。そのタイミングで、さも今気づきましたというような態度で後ろの人間を見た。
目が合い、相手が笑う。片手にぶら下げているものをこちらに見せた。
私はなんでもっと早く振り向かなかったのか。