4.主
◇
走って、走って、走り続けて、それでも城は遠かった。
一体いつになったら辿り着けるのだろう。
城までの道は少年に委ねるしかなかった。彼を全面的に信じて、わたしはひたすら彼の足を引っ張らないように走り続ける。
息はとっくに切れているし、段々と足の感覚もおかしくなってきている。
でも、止まる事は絶対に出来なかった。
わたし達に出来る事はただ一つ。いち早く月に教え、助けを仰ぐ事だけだ。その為に雑念を捨て、余計な不安から今だけは目を背けた。
蝶はきっと大丈夫。
絡新婦は不要な嘘を吐いたりしないだろう。ずっと狙ってきた相手をあっさりと殺してしまうような事はないはずだ。
そう信じたかった。
「華、見えてきたよ!」
振り返りもせずに少年が言った。
彼の言う通り、わたし達の走り向かう道の先には開かれたままの城門があった。あの先に飛び込めば、月の女神の膝元。森に入るようになって一年、すでにわたしは何度か少年と共に庭に飛び込んで難を逃れた事があった。
訊けば、蝶も同じように逃れることがあったらしい。
「行こう!」
少年に引っ張られて、わたしはその中庭に飛び込んだ。
美しく剪定された人工的な空間。人間ならではの美が込められたこの場所を抜ければ、城の玄関扉に辿り着く。もう日も落ちて暗いのに、扉は開きっぱなしだった。
無言のままわたし達は玄関扉へと飛び込んだ。
息を切らしつつ、辺りを見渡してみても、誰もわたし達に気付いた様子を見せない。
こんなに物音を立てて、執事や女中が誰ひとり気付かないなんて珍しい事だ。慣れ親しんでいるはずの月の城は、いつにもなく何処もしんとしていてとても気味が悪い。何だか奇妙な緊張感のようなものが漂っているような、そんな気もした。
「華お嬢様!」
突如、沈黙を破ったのはこの城の執事の声だった。
見れば、わたしの部屋に続く長廊下にて、彼が若い女中と使用人とを連れてそこにいた。顔は真っ青で、何処となく疲れているようにも見える。
それでも彼の声はとてもはっきりとしていた。
「何時だと思っているのですか! 月様が随分と心配されておりますよ」
「御免なさい、理由があるの。月はどこ?」
「部屋に御出でです。女中頭も一緒ですよ。理由とはなんです?」
「それは月に直接説明するわ」
わたしはそうとだけ告げて、その場から逃れた。
すぐに執事の制止するような声が聞こえてきたけれど、耳を傾けることなんて出来なかった。今から月に頼む事は、きっと、この城に仕える殆どの者の意思に反する事だ。
一年もこの城に住んでいたのだから、そのくらいは良く分かった。
女中や使用人の声かけを掻い潜り、わたしはただ真っ直ぐ月のいるはずの部屋を目指した。少年もすぐ後からついてきていた。執事が言っていたのは、いつも月が過ごしている場所の事だろう。そこ以外に思い当たる場所がない。
部屋の扉は閉まっていた。
この中だ。
「月!」
思い切って扉を開けた瞬間、月の視線と目がぶつかった。
月の隣には執事の言った通り、女中頭がいる。突然現れたわたしの姿を見て、少々呆気にとられたような表情を見せた。
「華……」
ややあって月がようやくわたしの名を呼んだ。
気だるそうなその様子の裏に少々の安堵が浮かんでいる事に気付かされて、少しだけ嬉しかった。
けれど、喜んでいる場合ではない。
「大変なの――」
わたしが言いかけた時、ふと少年が女中頭に視線をやった。
はっとその視線に合わせてみると、女中頭がじっとわたし達の様子を見ている事に気付かされた。
その威圧するような視線にわたしは思わず口籠った。
彼女の姿勢は飽く迄も女神を守るためだけにある。蝶を助けて欲しいなんて彼女からすれば寝言も同然だろう。
でも、こうしている内にも時間は過ぎてしまう。
「すまないが、席を外してくれるか?」
と、その時、月の冷静な声が響いた。
向けられた先は女中頭。わたしの動揺をきっと察してくれたのだろう。
女中頭はしばし物言いたげな表情を浮かべて月に視線を送ったが、わたしと少年の視線に負けたのか、何も言わずに真っ直ぐ扉へと歩いて行った。
去り際にもう一度だけ、月へと視線を送る。
あまり優しさの込められていないらしいその目配せに、月は面倒臭そうに頷いた。
女中頭が去り、その足音が遠ざかるのを確認するや否や、すぐにわたしは月の元へと駆け寄った。
抱きとめる月の力はとても強く、わたしにとっては絶対的な守りのようだ。
でも、わたしは知っている。彼女は、本当は繊細な存在で、この大地に生まれ落ちた命ある者達にとっては、精巧に作られた硝子細工よりもずっと危なっかしいのだ。
それでも、わたしは月に頼らざるを得ない。
「どうした、華」
月の静かな声が耳に入り、涙が零れた。
少年に見守られながら、わたしは月の顔を必死に見上げた。
「大変なの、蝶が、わたしのせいで、蝶が……」
「蝶に何かあったのか……」
月がその深みのある色の目にやや怯えたような表情を浮かべた。
金で買われたわたしとは違って、蝶と月の関係とは、親愛という結びつきだけで成り立っているものだ。その分、とても純粋で、とても複雑なものかもしれない。
「落ち着いて何があったか話してくれ」
月の言葉にわたしは必死で首を横に振った。
「時間がないの。早く助けなきゃ、蝶が食べられちゃう」
「食べられる……」
その言葉を繰り返した月の身が強張ったのを感じた。
恐らく、一年前の事を思い出したのだろう。蝶と自分の身に降りかかったことを思い出し、恐怖が甦ったのだろう。
月の肩にはまだ傷痕が残っている。
蝶を捕え、月を誘き出し、この大地を終わらせようとした恐ろしい魔女がつけたものだ。
「食虫花ではありません」
動揺を見せる月に、少年が小声で付け加えた。
短い言葉に、少しだけ月の力が抜ける。
「じゃあ、何者だ? 何に捕まったんだ?」
「蜘蛛よ」
わたしは必死に声をひそめて告げた。
気を抜くと部屋の外にまで漏れる大声になってしまいそうだった。
「絡新婦と名乗ったの。蜘蛛の魔女。胡蝶を捕まえて奴隷にする恐ろしい魔女よ」
「絡新婦……」
月はその言葉を繰り返し、呟く。
「女郎蜘蛛か……」
「わたしのせいなの」
堪らなくなって、わたしは月に縋りついた。
「わたしが絡新婦の手下に捕まってしまったから……」
月がわたしの頭にそっと手を置いた。
「そいつの目的は蝶だけか……」
その視線の先にあるのは、部屋に掲げられた聖剣。彼女の判断は早い。わたしがそっと離れると、月は真っ直ぐ聖剣へと向かった。利き手である右腕をあげようとして、静かに左腕へと変える。
まだ満足に動かせないのだ。
それでも、わたし達では敵わない。わたしが頼れるのは月しかいないのだ。
左手で聖剣を握りしめて、月は鋭い声で言った。
「城を出よう。続きは移動しながら聞かせてくれ」
◇
月とわたしが部屋を抜け出すより先に、少年がそっと廊下へと抜けだし、辺りを窺った。わたしと少年の尋常でない様子に、城の者たちはきっと何らかの異常を察知しているだろう。
特に執事と女中頭は既に、月が城を抜けだすのではないかと心配しているかもしれない。
その予想はあながち間違ってもいなかった。
もう下がっていてもいいはずの女中や使用人が、何の用事があってか、廊下をうろちょろとしていたからだ。
少年の先導でわたし達はどうにか見つからずに外を目指した。
月が部屋を出ているのはともかく、聖剣を握っている姿はどうしても隠せない。どうにか誰にも見つからないように、わたし達は玄関扉を目指した。
玄関は閉められていた。
蝶がまだ帰ってきていないのだから、まさか鍵までは閉められていないだろう。そう信じたい。素早く駆け寄って月が扉に手をかけたその時、廊下から甲高い声が聞こえてきた。
「月様!」
女中頭だ。
その声に背中を押されるように月は扉を開け放った。
「お待ちください!」
必死に叫ぶ声が聞こえたが、月は止まらない。わたしは少年と共に月を追った。後ろから城の者たちが追いかけてきている気がしたが、振り返っている余裕は無かった。
城門を抜けると、少年が月を追いこしてすぐさま脇道へと逸れた。
月もそれを追いかけ、わたしも後に続いた。
二人について行くのがやっとだった。
ここから先は、少年の方が詳しい。けれど、わたしも少しだけ覚えている。蚕に攫われたあの場所は、別に初めて訪れた場所ではない。精霊たちと戯れ、森で起こる話を教えてもらうことは、少年が最初にわたしに教えてくれた遊びだった。
あの場所の事は覚えている。
殺されてしまうと恐怖した感覚は今も少しだけ残っている。
「華」
不意に月がわたしを振り返った。
遅れてきているのに、その時やっと気付いた。少年と共に月を案内しているつもりだったけれど、いつの間にか月に追い越されていた。
「掴まって」
月は聖剣を持っていない右手を差出して言う。
わたしは首を横に振った。
「大丈夫。平気」
すると、月はやや微笑んだ。
「私が平気じゃないんだ。すまないが、手を握っていて欲しい」
そう言いなおされて、わたしはおずおずと月の手を握った。
見た目に反して温かくて柔らかな感触だった。わたしの手をしっかりと握り締めると、月はまっすぐ少年へと視線を戻した。
少年はもう随分と先に行ってしまっている。
その背中に向かって、月は黙々と進みだした。
平気じゃないなんて嘘だ。そう思ったけれど、わたしは黙っている事にした。蝶に起きた事を話した時の月の表情が目に焼き付いている。
それだけ、月は蝶の事を大切に思っているのだ。
震えなんてちっとも感じないけれど、怖いのは確かな事なのかもしれない。そう感じながら、わたしは月に従った。
「絡新婦は糸を操るの」
歩きながら、わたしは小声でそう告げた。
「糸に繋がれたら身動きが全然取れなかった。蝶もきっと今頃、糸に捕まっているのかも」
「蜘蛛はそういう生き物だからね」
月は静かに言い、表情を曇らせる。
「蚕っていう胡蝶も一緒だったの。胡蝶のくせに絡新婦に味方をして、蝶を捕まえる手伝いをしてしまったの。わたしを捕まえたのも彼なの」
「そういえば、胡蝶を奴隷にするって言っていたな。その女、蝶も奴隷にする気か」
「そのつもりのようだった。蝶は多分、拒み続けるわ。でも、魔女の誘いを拒み続けるって事はつまり――……」
そこまで言ってふと、わたしを助けに来てくれた蝶の顔を思い出した。
蚕に捕まり、あの場から逃げられなかった彼女。捕まっていないわけがない。もうあの時にはすぐ傍まで絡新婦が近寄ってきていたのだから。
では、今、どうなっているのだろう。
絡新婦に出会った蝶はどうなっているのだろう。
「……急がないと」
月は静かにそう言った。
少年は常に先を進み、わたしと再会した場所を目指している。彼ほど、この森を把握している者もあまりいないことだろう。
けれど、それでもわたしは不安だった。
絡新婦も蚕も自信があるようだった。絶対に見つからない。絶対に間に合わない。それは、絡新婦が魔法を使えるからだろうか。
「絡新婦は魔法も使えるの。月に見つからない自信があるようだったわ」
わたしの言葉に月はぴくりと眉を動かした。
「それはどうだろう。魔女という者は嘘つきだからね。口から出任せを言って、華を怯えさせていただけかもしれない」
月はそう言うが、その表情からは緊張が取れない。
わたしは不安だった。このまま蝶が見つからなかったら、どうなってしまうのだろう。きっとわたしは一生後悔し続ける事になる。何よりも、蝶に二度と会えないなんて考えたくもなかった。
わたしは心の隅で祈った。
――どうか月の言う通りでありますように。
時間が経っても辺りは同じような景色が続いている。
その中を少年は始めのうちは迷いなく進み、わたし達は彼の後を追っていた。しかし、二、三と月と会話した後は、少年は段々と探りながら進むようになっていた。
探らなければ分からないという事だろうか。
辺りは夜闇が覆っていてとても不気味だった。月に手を握られていないと、怖気づいてしまいそうだ。
それもそのはず。
この一年、わたしが外に出ていたのは昼間だけなのだ。夜の森なんて殆ど慣れていない。夜には危険な虫が多いから出ない方がいいと蝶に告げられていたのだ。
一歩、二歩と進みながら、わたしは度々月に引っ張られるようになっていた。
月は何も言わない。何も言わないが、そっとわたしに歩みを合わせてくれていた。彼女は優しい主人だ。きっとわたしは花として主人に恵まれたのだと思う。それは蝶も同じ。他の胡蝶ならば、わたしはもっと苦しい思いをしていただろう。
蜜吸いの相手が蝶だからこそ、わたしは傍にいたいと思える。
早く蝶を助けたい。
一緒に月の城に帰りたい。
「そんな……」
しかし、そんなわたしの願いも虚しく、頼みの綱だった少年の途方に暮れた声がとうとうあがってしまった。
焦りながら少年は周囲を見渡した。
「この辺のはずなのに……」
そこは、わたしが蚕に攫われた場所に間違いなかった。
蚕に攫われ、少年と引き離された現場。無数の精霊たちの集う神秘的なその場所で、少年は必死に辺りの精霊たちを呼んでいた。
野生花達と戯れる精霊。
彼らの姿は一つもなかった。
「誰か、いないの?」
少年の必死の問いかけにも、精霊たちは姿を現してくれなかった。
ふと横を見れば、月が辺りを見渡していた。夜闇を払う月光のような鋭い眼差しで行くべき道がないかを探っているらしい。せめて、手掛かりでもあれば違うのに。
と、その時、上空からその笑い声は聞こえてきた。
「これは、これは、女神様」
よくよく目を凝らして見れば、わたし達の頭上に蝙蝠がいた。
暗くてよく見えないが、声からすれば中年の男のようだ。彼の姿に、少年と月が同時に警戒を見せた。
その様子に蝙蝠の目が細められるのが見て取れた。
「こんな時間にふらふら歩いていては危ないですよ?」
「食虫花の手駒だな」
透かさず月が返した。
食虫花の手駒。その言葉の意味を理解して、わたしは思わず月に寄り添った。それならばわたし達の敵でしかない。どうやら嫌な人物に会ってしまったらしい。
だが、月は冷静だった。焦る様子もなく、じっと蝙蝠を睨んでいた。
「そんなに怖い顔をなさらないでくださいな。何も私は貴女とやり合う気は全くないのですよ。主様と違って、私は無力で哀れな蝙蝠に過ぎませんからねえ」
とても胡散臭い口調で蝙蝠は言った。
月の表情は変わらない。探るように蝙蝠を見つめ、さり気なく剣を構えている。
「お前達も関わっているのか?」
低められた声には敵意がはっきりと込められている。その威圧に、傍にいるわたしの方が怯んでしまいそうだった。
けれど、肝心の蝙蝠は怯まなかった。
「違います」
きっぱりと蝙蝠は告げた。
「今の主様にそんな御力は御座いません。他ならぬ貴女がその剣で残酷にも貫いてしまわれましたからね」
「でも生きているんだな? そうだろう?」
月の脅す様な声にも、蝙蝠の様子は全く変わらなかった。
「それは勿論。主様はあのような一撃で命を落とすほど柔な御方では御座いませんよ。ですが、これだけは正直に告げましょう。貴女の大切なものを奪ったのは、私でも主様でも御座いません」
声を押し殺すように蝙蝠は笑う。
信じていいのだろうか。どうも、信用出来ない空気しか漂っていないように思ってしまう。しかし、それでも蝙蝠は攻撃してくる様子もなく、ただじっとわたし達を見つめたままこう言った。
「寧ろ、その逆です。主様の命によって、貴女のために大切なあの胡蝶を取り返す手助けをしてあげましょう」
「手助け……?」
月が怪訝そうに眉をひそめる。
何か企んでいるのだろうか。彼の言葉を何処まで信じればいいのか、無知なわたしには全く分からない。わたしは黙ったまま月の様子を窺った。月は慎重に蝙蝠と向き合いながら、ぼそりと呟いた。
「どうも信用ならないな」
月の正直な言葉にも、蝙蝠は笑みを崩さなかった。
「なあに、すぐに分かりますよ。もうすぐ此処に大きな手掛かりが私の導きで現れるはず。彼女こそが貴女の愛する胡蝶への道標となるはず」
真意の読み取りづらい笑みと共に蝙蝠がそう言った丁度その時、少年がはっと視線をずらした。その先は、木々に隠された隙間の向こう。新たな空間が広がっているだろうその場所より、薄っすらと嗅ぎ慣れない甘い香りがしてきた。誰かがわたし達のいる場所へと近づいて来ているようだった。
月が警戒しながらそちらを見やった。
わたしの手を握る力が強められている。わたしもしっかりと月の手を握り、そちらを見つめた。
そして、ややあってその者は現れた。
野生花の少女。
わたしや少年とはまた違う種族の花だ。この月の森では見たこともない花だ。
眩い金髪に真っ赤な目が真っ先にわたしの目に飛び込んできた。木々の間から抜けだすように現れた彼女は、すぐにわたし達に気付き、その澄んだ眼を揺らがせた。
「日精。貴女の探し求めていたのはこの方ですよ」
頭上より蝙蝠が告げた。
その言葉に、日精と呼ばれた少女は目を見開いた。その視線が捉えているのは、ただ月だけのようだった。
日精はしっかりと月を見つめたまま、静かに頭を下げた。
「初めまして、女神様」
たどたどしい少女の声が響き渡る。
「蝶に逃がされて、貴女を探していました」
その言葉を聞いた瞬間、目が覚めるような感覚がわたしの中にも広がった。それと同時に、蝙蝠が無言でその場を去っていく音が聞こえてきた。