3.香
◇
どれだけ時間が経ったのか分からない。
分からないけれど、目を覚ました所で答えは何も見つからない。
目を覚ましたわたしに世界が教えてくれる物事は、わたしが糸に捕まっているという現実が嘘ではないという事。そして、絡新婦が目の前にいるという事。
何一つ、眠ってしまう前と変わっていないらしい。
夢の中はよかった。今のわたしが失っている日常の夢だった。温室で目を覚まし、蜜を吸いに来ない蝶を起こしに行き、月と会って他愛もない言葉を交わすそんな日常。
あれがわたしの戻るべき世界。帰るべき場所。
「おはよう、華」
絡新婦に声をかけられて、わたしは口籠った。
即答出来なかった。反抗しているわけではない。怖いからだ。真っ直ぐ見つめられているこの状況が怖くて仕方なかった。
まるでわたしの動きを魔法か何かで縛っているようだった。
「蝶がもうすぐここに着く」
絡新婦がわたしの耳元でそっと呟いた瞬間、震えが止まらなくなった。
「君の蜜の香りに引き寄せられて、間違いなくここに辿り着くはずだ」
何て事だろう。
事態は間違いなく絡新婦の思い描く通りに動いている。彼女の計画ではそのまま、わたしも蝶も手にして月の手の届かないようにしてしまうのだろう。
月の敵ではない。
その言葉がわたしの頭で響いた。
月の城にいたい。月に見守られながら、蝶と二人であの城にいたい。心からの願望で、わたしにとっての幸せの姿に違いないことだ。
それでも、絡新婦の言葉が突き刺さる。
わたし達は……わたしは、月にとってよくない存在なのだろうか。
「残念だったね」
絡新婦が優しい手つきでわたしの頭を撫でた。
「君達の負けだ」
この場所に閉じ込められて、二度と月の顔も見ずに過ごせと言う事だろうか。
それが月のためであると本気で言っているのだろうか。
「いや……」
掠れた声がわたしの喉を伝って零れていった。
「そんなの、いや」
月の命を脅かしていると言われて、完全には否定できない自分がいる。止められないからと無防備にも森に出て、こうして捕まってしまっていてはそれも当然だ。
けれど、わたしは買われたのだ。
他ならぬ月に買われ、月を主人として生きる事になった。
それはわたし自身の選択ではないけれど、人工花として生まれ育ったわたしにとって、無視出来ない事だった。
わたしは月の所有する花。
月がいらないと言うまでは、わたしの主人は月以外の誰でもない。
「別に君を返してやってもいいんだ」
絡新婦は淡々と言った。
「一生あの城に閉じこもり、もう二度と森には出てこない、一時も月の傍を離れず、怪しい奴には近づかないと約束してくれるなら、君だけは月の元に返してあげるよ」
「わたしだけじゃ駄目よ。蝶も一緒じゃないと」
「蝶は駄目。あの子は渡さない」
「お願い。蝶は繊細な人なの。月と引き離さないで……」
「知っている。これまでずっと彼女を見てきたからね。でも、それがなんだ。私は彼女が生きていればそれでいい。それに、私を拒むなら、時間をかけて喰い殺すだけさ」
「そんなの身勝手だわ」
わたしの言葉に絡新婦は声を出して笑った。
「身勝手? ああそうだねえ。女郎蜘蛛なんて総じて身勝手な連中ばかりさ。それでも、私は慈悲深い方だと自分でも思うよ。生き残る道を教えてあげるのだからね」
「そんなの……」
「君ももっと身勝手に生きればいい。それとも、蝶と共に茨の道を歩みたいかい? 若き女神を再び孤独にして、蝶と共に私の元にいたい?」
言葉に詰まってしまった。
わたしの願いは蝶と共に月の城に住まうことだけだ。それが確かな事なのに、絡新婦に見つめられているとはっきりと言えなくなってしまう。
絡新婦は笑みを変えずにわたしを見つめる。
「可愛い子だね。女神には君がいれば十分だ。君の蜜は餞別に貰っておくよ。蝶が寂しがらないようにね」
「酷い……」
ゆっくりと言葉と共に涙が落ちていった。
何の涙なのかは分からない。感情の乱れが眼を震わせているのだろうか。ただ、蝶のことを思うと、心苦しくて仕方なかった。
きっとこれは、わたしのせいだ。わたしのせいで、蝶の平穏が壊されてしまう。
そんな思いが込み上げて来て、嗚咽が漏れだした。
「泣く必要は無い」
絡新婦は静かに声を落として言った。
「こんな事、私達、虫の世界にはよくある事さ」
◇
蜜の流れが鬱陶しい。
香りは漂い続け、止めようとしても止まらない。
そうしているうちに時は過ぎていき、今に蝶が来てしまうのではないかと言う怯えがわたしの心に生まれていた。
少年は連れて来てしまうのだろうか。
きっとそうだろう。彼はまだわたしを捕まえたのが胡蝶だけであると思っているはずだ。それならば、同じ胡蝶である蝶に助けを仰いでもおかしくはない。
蚕や絡新婦が言っていた事は本当なのだろう。
それならば、こうしている内にも蝶たちは段々とこの場所へと近づいて来ているはずなのだ。そう思うだけでも、息が苦しくなった。
そして、とうとうその時は来た。
姿を消していた蚕が現れたのだ。
「こっちへ向かってきます」
丁寧に告げる蚕に、絡新婦はくすりと笑みを漏らす。
「行って、案内してやって」
まるで親しい客でも来たかのように、絡新婦は蚕に命じて下がらせると、わたしにそっと耳打ちをした。
「糸の力を弱めてあげる」
驚くわたしの目を見つめながら、絡新婦は付け加えた。
「君には千切れないだろうけれど、外から力が加われば、すぐに千切れるはずだよ」
「解放してくれるの?」
「さっきも言ったでしょう? 君は返してやってもいいんだ。もう蜜は幾らか頂いたから、蝶の事は心配しなくていい」
つまり自信があるのだろう。
ここに足を踏み入れさせれば蝶を手に入れられると考えている。その策が彼女にはあるのかもしれない。そしてそれはきっと、わたしには到底阻止出来ない事だ。
踏み込ませてはいけない。
そう強く思った時、わたしの脳内に声が響いた。
『華……華?』
少年の声だった。
花同士でのみ使える能力だ。わたしの気配を探り当てて使える者がいるとすれば、わたしを知っている花しかいない。
彼であるのは間違いないだろう。
『華、聞こえる?』
やはり、来ているのだ。
声が届くほど近くにいる。
蝶も一緒なのだろうか。
『駄目、来ないで』
わたしはとっさにそう言った。
『華だね?』
少年の声が怪訝そうに答えた。
『蝶と一緒に助けに来たんだ。無事なの?』
『わたしは大丈夫よ。奴も傍にいない。でも、駄目なの。すぐに蝶を連れて逃げて』
『何故? もう近くまで来ているのに。胡蝶はいないんだね? 逃げ出せる?』
『無理なの。縛られていて手も足も動かせない。でも、自分でどうにかするわ。だから、貴方は蝶を連れていますぐお城に戻って』
『何を言っているんだい? 華?』
少年の強い問いかけに答えようとした瞬間、絡新婦がわたしの額に手を当てた。
息の詰まる思いで彼女の目を見やると、冷たいものがその瞳に宿っていた。
「何を話しているかは知らないけれど」
絡新婦は言った。
「説得は無駄よ。もう蚕が行ってしまったから」
本当にもうどうしようもないのだろうか。
絶望感がひしひしと身体を駆け廻っていく。
わたしの肉体に流れている蜜が憎い。これがなければ蝶に居場所を悟られることもないのだ。わたしの位置が分かっている以上、蝶は引き返したりしないだろう。
それは悲しいくらい確かな信頼だった。
相手はわたし達が束になっても敵わないだろう蜘蛛の魔女。そもそも、まさか彼女がここにいるなんて蝶は知らないのだ。
そう、教えなくては。
『ねえ、聞こえてる? 返事をして。蝶にも伝えて欲しいの』
「そうはさせない」
さり気なく花同時の声を使ったつもりだった。
けれど、絡新婦の恐ろしく低められた声がわたしの耳に沁み込んでいった。
「内緒話はここまで。ここは私の世界なんだよ」
「そんな……どうして……」
「これぞ魔女の力、とでも言っておこうかな」
魔女。
その存在が何たるかはわたしにはよく分からない。
わたしを育て、月に売り渡した花売りも、魔術については何も教えてくれなかった。当然だ。わたしは金持ちや貴族の心を癒すために売られる花に過ぎない。魔術の知識なんて、無用なものでしかないはずだ。
それでも今ばかりは、知識がないという事が恨めしくて仕方なかった。
魔女という者は花同士の会話すら阻める力があるものなのだろうか。
だとしたら、もう何もかもが遅すぎた。
「残念だったね」
絡新婦の笑みが目に焼き付いて離れなかった。
そして、その時は遂にやってきてしまった。
◇
少年と蝶が蚕に連れられてやってきた。
その姿が見えた瞬間、わたしは思わず泣き出しそうになってしまった。糸さえなければ今すぐに彼らの元へと飛び込んでいきたい。
けれど、わたしはその涙を必死で堪えた。
泣いていいわけがない。これはわたしに与えられた罰なのだ。油断してはいけない場所で油断してしまった罰。
それでも、わたしの目の潤みはどうあっても抑えきれないようだった。
「蝶……」
その愛しい名を呼ぶ自分の声がいつも以上に掠れていて、どうしようもなかった。
わたしの声につられるように蝶は走り出す。すぐに蝶の香りと温もりがわたしを包み込んできた。もう二度と感じることがないとさえ思ったその感覚を前にすると、震えが止まらなかった。
このまま時間が止まってしまえばいいのに。
「華、大丈夫? 怪我はしてない?」
優しい蝶の声に、涙が零れ落ちた。
嬉しい。蝶の声と温もりがとても心地いい。このままずっとこうしていて欲しい。そんな感情が溢れ出て、わたしの理性を狂わせる。
けれど、わたしは必死にその感覚を制御した。
「蝶……駄目なの……」
震える声を抑えて、どうにか告げた。
絡新婦が影から見ている。二人はまだ気付いていない。言わなければ。伝えなければ。そう思えば思うほど、気が動転して上手く言葉に出来なかった。
「お願い……城に帰って……」
どうにか伝えたい事を言ったものの、蝶は首を横に振る。
「出来ないわ。華を置いて帰るなんて無理よ」
「お願いよ……蝶……逃げて」
わたしがそう訴えた途端、離れた場所から蚕の溜め息が聞こえた。
蝶が彼を見やる。無言のまま少年を手招き、わたしの傍へと寄らせた。
「華を返して」
気高い声が放たれた。
そんな声を聞くのは久しぶりだ。これまでずっと月の傍で怯えたように過ごしていた姿が嘘のようだ。
「返してくれないと、幾ら旧友でも許さないわ」
――旧友……。
わたしは蚕を見つめた。彼がかつて言った通りだ。やはり、この二人は旧友なのだろう。では、どうして。どうして蚕は、蝶の味方になってくれないのだろう。
蚕はわたしの視線を無視して、蝶へと言った。
「へえ。本当に君はその子の事を愛しているんだね」
「当然よ。だって、この子は月があたしの為に買ってくれた大事な子なのよ」
「それだけじゃないように見えるな」
不敵な笑みが浮かびあがり、彼の視線がちらりとわたしをも捉えた。
「つまりさ、蝶、もしもこの子がずっとこの場所から離れられないとなったら、君もずっとここにいるつもりかい?」
「華の傍を離れないわ。一緒に月の城に帰る方法を探し続ける」
駄目。
そう言いたかったけれど、言葉を封じられたかのように何も言えなかった。
「そっか。やっぱり君は変わっているね」
蚕がそう言って一歩踏み出した。
蝶は動かない。じっと蚕を睨みつけて、わたしと少年の前に立ちはだかっていた。胡蝶同士の戦いだからだろうか。
いや、けれど、違うのだ。
この場にいる敵は蚕だけではない。
それを伝えたいのに、声が発せられなかった。
「僕がその子の蜜を吸わなかった理由、君には分かるかな?」
蚕が笑みを浮かべながら蝶へと訊ねた。
「昔さ、君と僕は蜜吸いの事でよく喧嘩したよね。君は花を守りたい派で、僕は花を狩りたい派。僕がたまに花を枯らしてしまう事を凄く怒っていたよね。懐かしいなあ」
蚕がわざとらしく蝶に語りかける。
そんな蚕を蝶は黙ったまま睨みつけていた。
「そんな僕が、その子の美味しそうな蜜を前に、どうして何もしないでいたのか――」
まずい。
絡新婦が動き出した。
慌てて蝶を呼ぼうとしたけれど、声が出なかった。まるで、誰かがわたしの口を塞いでいるかのようだった。
「君には分かるかい?」
蚕が微笑みながら蝶の気を引きつけている。
けれど、蝶の視線は蚕よりやや後ろへと向いていた。
お願い。気付いて。声が出ないままわたしは祈り続けた。
やがて、蝶の身体がぴくりと動いた。心成しか震えているように見えた。異変に気付いたのかもしれない。けれど、彼女が逃げ出すと言う事はなかった。
「蚕……」
蝶が真っ直ぐ蚕へと声をかけた。
「貴方、まさか……」
そう言いかけた時、蚕の笑みが深まった。
気付いてくれた。きっとそうだ。
次の瞬間、蝶はとっさに動き出した。蚕から目を逸らし、わたしへと近づいて、わたしの身体を拘束する糸に噛みついた。強く噛みついたのだろう、あんなにどうしようもなく頑丈だった糸は、あっさりと千切れ、わたしの身体を解放してくれた。
座り込みそうになるわたしを、傍にいた少年がすぐに支えてくれた。
「二人とも、急いで月の城に!」
蝶が声を荒げたその瞬間、蚕が彼女へと迫っているのが見えた。
思わず息を飲んだ。
蝶が気付くより先に、その手が真っ直ぐ蝶の身体を拘束する。突如の拘束に、蝶は上手く抵抗出来ずに捕まってしまった。
いけない。このままでは。絡新婦の思うつぼだ。
断片的に思いながらも、身体が動かなかった。
蝶は抵抗しながら、必死にわたし達へと声を荒げる。
「逃げるのよ、早く!」
「――蝶……」
もうこれ以上、泣きそうな事実を誤魔化す事なんて出来なかった。
そんなわたしに向かって、蝶は叫んだ。
「月に知らせて! お願いよ!」
「駄目だね」
蚕の冷たい声がほぼ同時に届いた。
その目に睨まれて、わたしはますます動けなかった。
「下手に動けば君達の大好きな蝶が苦しい目に遭うよ。ほら、見て御覧」
蚕はそう言って、蝶の首へと手をまわした。
「この細い首を絞めるのなんて簡単なんだ。君達の決断一つで、蝶が苦しむか、苦しまないかが決まる」
頭の中が真っ白になった。
見たくない光景だった。自分が捕まっていた方がまだマシだ。蝶が傷つくところなんて見られるはずがない。
逃げ出すなんて、これでは出来ない。
「お願い、逃げ――」
叫びかけた蝶の首を蚕が容赦なく絞めた。
蝶の耳元で蚕が何かを囁いている。
どうして。旧友ならばどうして。そんな疑問も虚しいだけだ。確かな事は、このまま逃げるなんて不可能な事。
けれど、首を絞められつつも、蝶はわたし達へ視線を送った。
月に知らせる。
確かにわたし達に出来る事はそれだけだ。胡蝶を相手に戦えるわけがない。況してや、その背後には絡新婦もいるのだ。
けれど、不用意に動けば蝶が苦しめられてしまう。
「別にね、僕は女神様に知られたって構わないって思っているよ」
蚕がわたし達に向かって言った。
穏やかな声がとても恐ろしい。
「君達がもしもここでじっとしているのなら、蝶は無駄に苦しむことはない。でも、君達が女神様に知らせに行くのなら、蝶は無駄に苦しむことになる。結末はどっちも一緒だよ。僕が譲歩しているのは、その結末に至るまでの蝶の状況だけさ」
「お願い、蝶を放して」
やっとわたしは訴えることが出来た。
無駄だと分かっていても、そうせざるを得ない。
蚕はそんなわたしを見て、笑みを漏らした。
「君は優しい子だね、華。蝶に好かれるだけあるよ。でも、駄目だよ。残念だけど、それは出来ない。本人が大人しくしてくれないからね」
わたしは蝶を見た。
助けに来てくれた蝶。一年ほど引きこもっていたはずなのに、少年の案内でこんな所まで来てしまった。
「蝶を残して行きたくないの……」
彼女が傷つくのが怖い。
絡新婦の支配するこの場所に彼女を一人置いていくなんて恐ろし過ぎる。
わたしの視線より蝶は目を逸らした。その目が一瞬だけ何かを諦めたような感情を宿したが、すぐに奮い立つような強い感情が宿ったのが分かった。
そして、その目が再びあげられた時、彼女の視線が捉えたのは、わたしではなく少年の方だった。首を掴まれたまま、蝶はじっとわたしの身体を支える少年を見つめ、大きく息を整えてから声を張り上げた。
「お願い、華を連れてって!」
それは、わたしではなく少年にだけ向けられた言葉だった。
――そんな。
わたしが動揺するより先に、少年の目付きが変わった。蝶へと何か訴えるより先に、そして、蚕がその行動に反応を示すより先に、少年はわたしの手を掴むと、躊躇いなく走り出した。
わたしは彼に引っ張られて走るしかなかった。
――けれど、そんな。
振り返れば、蚕と蝶が残された空間が見えた。けれど、その光景を長らく見ている事は出来なかった。
少年は脇目も振らずに走り続ける。
蝶の命令を忠実に守って、彼は真っ直ぐ月の城へと向かっていく。
わたしはただそんな彼について行く事しか出来なかった。