2.糸
◇
時間の流れがとても遅い気がする。
けれど、今が一体何時なのか、ここにいては分からなかった。きっとここは、魔女の力が充満している場所なのだろう。
糸に縛られながら、わたしはただ時間が過ぎるのを待っていた。
誰かが助けに来なければ、いつまでもこのままだ。
でも、蝶や月が助けに来るという事態には不安が付きまとった。蝶は絶対に来てはいけない。わたしを捕えている魔女は、蝶を捕まえることしか考えていないようだった。
蜘蛛の女は恐ろしいほど禍々しく、強大な力が溢れ出ているかのように見えた。
女神とはいえ、その命がただ大地の命に等しいというだけの月では敵わないのではないだろうか。そうでなくても、月は外出を禁じられている。彼女が助けに来る事なんて期待してはいけないことだ。
全ては森に足を踏み入れた時に覚悟していたことだ。
もしも、わたしが少年と共に何かに捕まってしまった時は、全ての運を天に任せ、蝶や月の助けなんて期待せずにどうにかしなければならない。
でも、どうすればいいのだろう。
わたしが捕まっている糸は、わたしの力では抜けない。指で思いっきり引っ張れたら違うかもしれないけれど、両手両足に胴体まで絡められている今の状態では、本当にどうすることも出来ないのだ。
蝶が来なければこのまま朽ちていくだけ。
もしも蜘蛛が計画を失敗させれば、苛立ちまぎれに殺されてしまうかもしれない。
死ぬのは怖い。枯れるということは怖い。
けれどそれでも、蝶や月が生き続けられるのならばそれでいい。
何度もそう思っているはずなのに、やっぱりわたしは恐怖を押し殺し切れていない。身体の震えは止まらず、じっとしていれば不安が様々な感情や言語となって頭の中を巡っていくようだった。
「華」
急に、しっかりとした声をかけられて、わたしは思考を止めた。
気付いてみれば、目の前にあの蜘蛛の女がいた。
覗き込むようにわたしを見つめ、そのきめ細やかな手をわたしの頬に当てる。間近で見る蜘蛛の顔は、なかなか整った作りをしていた。
まるで優しげな感情でも籠っているかのような顔で、彼女はわたしの目を見つめていた。
「君の名前を蚕から聞いた。あの子も、君の事を『華』と呼ぶの?」
あの子。
それが一体誰の事を示しているのか、不思議とすぐに分かってしまった。わたしは答えられないまま、ただ蜘蛛の目を見つめている事しか出来ない。
綺麗な目だ。
そう思った。色合いは地味だけれど、透き通るように光っていて、とても美しく輝いているように見えた。
「可愛い子。人間達が欲しがるのもなんとなく分かるよ」
答えられなかったわたしに苛立つわけでもなく、蜘蛛は微笑みを浮かべ、その手をわたしの首筋から腹のあたりまですっと這わせていった。
その手に触れられているだけで、蜜が溢れて来てしまいそうだった。そうでなくても散々蚕にかき乱されてきたのだ。
この感覚にじっと耐えているのが苦痛で仕方ない。
「私の名前は絡新婦」
蜘蛛――絡新婦はそんなわたしを冷静に見守りながら、手を止めずにそう言った。
「私が欲しいのは君の生み出す蜜ではないんだ」
「知っているわ……」
わたしは震える声をどうにか律しながら絡新婦に答えた。
「貴女は蝶が欲しいのでしょう?」
そんなわたしの目を覗き込んで、絡新婦は手を止めた。動いてなくても触れているだけでじわじわと温もりが伝わってくる。
こうしているだけでも、絡新婦に伝わって欲しくない震えが生まれそうで怖かった。
「そうだよ」
絡新婦は短く答えた。
小鳥の囀りのような声がわたしの耳をくすぐっていく。
「私は蝶が欲しい」
「どうして蝶なの? 胡蝶なんて他にもいるんでしょう?」
「初めてあの子を見た時からずっと欲しかったから。胡蝶は私にとってコレクションのようなもの。捕まえた後は、私の物になるか、私の糧になるかの二つに一つしかない。でも、一度捕まっていながらそのどちらにもなっていないのが蝶なの。だから――」
恍惚とした様子で絡新婦は言う。
「私はあの子が欲しい。今までに二回も逃げられてしまったけれど、今度は逃がさない。その為に、君には協力してもらうよ」
「出来ないわ。蝶はもう月のものよ。月の傍にいないと壊れてしまう。わたしを使ったって無駄に決まっているわ」
「それはどうだろう? 蚕が言っていたわ。君のお友達の野生花が、蝶を連れて森に入ったそうだよ」
「蝶が……」
そんな馬鹿な。
俄かには信じられなかった。
あんなに怯えていたのに。野生花に会いに行くことも出来なくて、日に日に痩せ細っていった蝶が、森に入ってしまうなんて。
「しかもね、女神は一緒じゃないんだって。上手い具合に蝶だけを誘き出してくれるなんて本当に有難い子」
笑みを噛みしめながら絡新婦は言う。
信じたくは無かった。
でも、嘘を吐くなんて思えない。
駄目だ。蝶は来てはいけない。わたしだって助けて欲しくないわけがない。助けて欲しいのは山々だ。こんな場所で枯れてしまうのは嫌だった。
でも、それでも、蝶がこんな魔女に捕まってしまうなんて嫌だった。
一年前、蝶が食虫花に捕まった時、わたしはとても苦しかった。月には何も教えてもらえず閉じこもっているようにと言いつけられたけれど、少年に事情を聞いてからはじっとしていられるわけもなく、考えなしに城を飛びだしてしまったほどだ。
その後、生きた蝶の姿を見る時まで、頭の中は真っ白だった。
蝶の姿を見た時もまた、衝撃は大きかった。
血だらけの蝶。弱々しく消え入りそうな姿。傷だらけなのは身体だけではなく、心にも痛ましい傷を負っていた。
あんな姿はもう見たくない。
絡新婦に蝶が敵うなんて思えなかった。対面すれば絡新婦の思うつぼだろう。そんなのは嫌だった。
目の前で蝶が捕まるなんて嫌だった。
「お願い」
こんな無駄な叫びを――。
「蝶に手を出さないで」
一体何度繰り返せばいいのだろう。
「見逃してあげて」
無駄だと分かっているのに、言わずにはいられない。
絡新婦はそんなわたしを見つめ、優しげに頬を両手で触ってきた。
「優しい子だね」
そう言って絡新婦はわたしの額に軽く口づけをすると、小さく笑みを漏らした。
「でも、無理だよ。君の願いは聞いてあげられない」
「どうして? どうしてなの?」
泣いても無駄だと分かっていても、涙は流れだしていく。
その涙を手に取って、絡新婦はそっと口に付けながら言った。
「私が蝶を欲しがる気持ちが、胡蝶達が蜜を欲しがる気持ちと同じくらい、どうしようもなく深いものだからだよ、お嬢さん」
その目に見つめられると、何も言えなくなった。
何故、わたしは少年の手を離れてしまったのだろう。何故、蚕から逃げることが出来なかったのだろう。
全てはわたしのせいだ。
もしも蝶が危ない目に遭ってしまったとしたら、全部わたしのせいだ。
「そんな顔をしないで、華」
絡新婦は急に声色を変えてわたしの髪を撫でた。
その撫で方は月がよくしてくれるものに似ている。似ているけれど全然違った。する人が違うだけでこんなにも違うものなのだろうか。
「君は別に悪くないよ」
絡新婦の声が耳元で響いた。
「仮に月の城に籠っていたとしても同じ事。食虫花のせいで引きこもっていた蝶は難しくても、君ならばいつでも攫えそうだったからね」
食虫花。
思いがけずその名を絡新婦の口から聞いて、わたしは無意識にその目を見つめてしまった。絡新婦はその反応を予想していたかのように受け止める。
「食虫花を知っているの?」
飾りもなにもついていないその質問に、絡新婦は素直に頷いた。
「勿論。魔女同士は嫌でも交流があるものなんだ。あの忌々しい女のことならよく知っているよ。奴に蝶が捕まった時はね、私は助けてやろうと思っていたのさ」
「蝶を助ける?」
「あの女は蝶を食料としか見ていないからね。でも、私は違う。私は待ってあげられる。蝶がその気になれば、私は一生彼女の面倒を見るつもりだ。食虫花からも彼女を守り切れる自信がある」
「貴女は……」
一体何者なのだろう。
月から蝶を奪おうとしているのは確かだけれど、ただ蝶を傷つけたいわけじゃない。蜘蛛であるはずの彼女は、本当に、ただ純粋に蝶の事が好きだとでもいうのだろうか。
いや、それでも、わたしはこの魔女の願望を阻止しなければならない。
わたしの主人は月以外の何者でもないのだから、その月から蝶を奪おうとしている人の肩を持ってはいけない。
しかし、そんなわたしの眼光にも絡新婦は表情さえ変えてくれなかった。
「食虫花の狙いは女神そのもの。女神の傍にいる限り、蝶は危険に曝される。蝶が再び人質に取られれば、
今度こそ女神はまんまと食虫花の手に落ちるかもしれない」
淡々と絡新婦は可能性を語っていく。
その目に込められている感情の色は全く読めなかった。
「君達はこの大地を滅ぼしたいのかい?」
絡新婦は微笑みながらわたしに訊ねてきた。
息の詰まる思いと衝撃がわたしの心を揺さ振っていた。
「女神の守りに縋り、頼りながら、彼女の命を危険に曝してそれで満足?」
「違う、わたし達は……」
そこまで言って、二の句が繋げなくなった。
言われてみればそうなのだろうか。
分からなくなってきた。
一年前、月は命を落としかけた。食虫花が蝶を捕まえて人質に取ったせいだ。食虫花の狙いは月の命。その為ならば、わたしだっていつ利用されてもおかしくはない。月は助けに来てくれるだろう。あの時、月が助かったのは全くの偶然なのだ。わたし達の登場を予想していなかった食虫花が生み出した隙を、月が突いただけのこと。
深手を負った食虫花はあの場で消えてしまったけれど、恐らく死んですらいない。
わたし達がいる以上、月の足を引っ張るのは目に見えて確かな事かもしれない。
「わたし達は、月と一緒にいたくて……」
「女神には必要ない。彼女の役目は次世代を残すまで生きることだけ。どうせあと数年で女神は生まれ変わり、何もかも忘れてしまう」
「やめて。その事は言わないで」
それは恐ろしい神話だった。
月があと数年で死んでしまうかもしれないという神話。月と名を持つ女神は三十歳で次の女神を生み落とし、そして死んでしまうという神話だ。初めて聞いたのは半年ほど前。それ以来、怖くて、怖くて仕方がない。
「月は死なないわ。だから、一緒にいなくちゃならないの」
「月の姫の誕生を願っているのか。確かにそれはいい時代かもね。でも、虚しい願いだ。余計なお世話かもしれないけれど、そんな淡い夢に縋っていないほうがいいよ」
「貴女は……何者なの?」
わたしはようやくその問いを絡新婦に向けた。
「月の味方なの? 敵なの?」
その問いに、絡新婦は目を細めた。
まるで狐のようだった。人間に紛れて暮らし、様々な怪しい物を売る行商人の狐のように、絡新婦はわたしに笑みを向けた。
「敵ではない。同じ魔女だからと言って、愚かにもこの大地の女神の命を奪おうとしている食虫花なんかと一緒にしないで欲しい」
「じゃあ、どうして月から蝶を奪おうとするの?」
「さっきも言っただろう? 蝶が好きだからだよ。それに、蝶の存在は、女神にとってよくない影響を及ぼした。大丈夫。もしも蝶を探しに月が森に入りこんだとしても、私は責任を持って彼女の命を守る。森には食虫花の手下がいるからね」
月の敵ではない。
その事実がわたしの頭を混乱させた。食虫花とは違うこの蜘蛛。月の命を守るためにもわたし達を排除しようとするこの蜘蛛。
蝶を奪う理由を正当化しているだけなのではないだろうか。
そうは思うのだけれど、月の命を無駄に危険に曝していると言われれば返す言葉も見つからない。
「食虫花は――」
わたしは俯きながら、絡新婦に訊ねた。
「今、何処にいるの?」
「この大地の影の中さ」
絡新婦は即答した。
「身体を癒しながら機会を窺っているらしい。いまのあの女を警戒する必要はないけれど、奴の手下が煩わしい。それに、いつまた復活して女神を奪いに行くか分からない。だからこそ――」
絡新婦の手が優しげにわたしの身体を撫でていく。
「女神の事も、蝶の事も、私に任せて、君はここでじっとしていなさい」
その手に身を委ねていると、闇が覆いかぶさるような眠気に見舞われ始めた。
眠気に抗いながら、わたしは深々とした水の流れるような感触を覚えていた。
全身を守る皮膚の下で、花としてのわたしが作りだす全ての蜜が流されている。
その流れがゆっくりと絡新婦の手へと滑りこんでいっていることに気付いた時、部屋を灯す明かりが消えてしまったかのように、わたしの視界がすっと暗くなった。
眠りたくない。
曖昧な抵抗も虚しく、わたしは夢に落ちた。