3.使い魔
◇
蚕に案内された先で、あたしは華に再会した。
彼女が置かれている状況をこの目で見た瞬間、全身の血が抜けおちてしまったのかというほどの寒気と目眩がした。
華は起きていた。
深紅の神秘的な目を涙で潤ませて、あたしの姿を凝視していた。ただ、その身体は無数の糸で縛られていて、全く身動きが取れない状況にいたのだ。
悪趣味な飾りのように、華は手足を縛られて吊られていた。
まるで、蜘蛛の巣に捕まった胡蝶のように。
「蝶……」
華の泣き出しそうな声に、あたしは思わず駆け寄った。
抱きしめて、その温もりを確かめた。
華からは濃厚な蜜の香りがする。口をつけられた気配もなければ、乱暴な事をされた様子もない。
「華、大丈夫? 怪我はしてない?」
あたしが声をかけると、華は肩を震わせた。
彼女を縛っている糸は、思いの外頑丈でちょっとやそっとじゃ千切れそうにない。華がもがいたところで、解放されそうにないものだった。
――この糸は何なのだろう。
焦りのあまり、あたしの脳裏はその答えを導き出せずにいた。
「蝶……駄目なの……」
華は声を震わせながら、あたしに言う。
「お願い……城に帰って……」
「出来ないわ。華を置いて帰るなんて無理よ」
「お願いよ……蝶……逃げて」
華がその言葉を口にした時、背後で蚕のほくそ笑む声が聞こえた。
振り返れば、蚕はまっすぐあたし達を見つめていた。あたしは無言で少年を手招き、華の傍へと下がらせた。
「華を返して」
真っ直ぐ蚕を見つめ、あたしは訴えた。
「返してくれないと、幾ら旧友でも許さないわ」
「へえ。本当に君はその子の事を愛しているんだね」
「当然よ。だって、この子は月があたしの為にくれた大事な子なのよ」
「それだけじゃないように見えるな」
蚕は不敵な笑みを浮かべ、舐めるようにあたしと華とを見比べた。
「つまりさ、蝶、もしもこの子がずっとこの場所から離れられないとなったら、君もずっとここにいるつもりかい?」
「華の傍を離れないわ。一緒に月の城に帰る方法を探し続ける」
「そっか。やっぱり君は変わっているね」
蚕が一歩踏み出した。
あたしはぐっと大地を踏みしめて、蚕の目を睨みつけた。避ける事なんて出来ない。この場を退く事は、華と少年を危機にさらすことだ。
そんなあたしの意思を汲み取ったように、蚕は目を細めた。
「僕がその子の蜜を吸わなかった理由、君には分かるかな?」
唐突に、彼はそんな事を訊ねてきた。
「昔さ、君と僕は蜜吸いの事でよく喧嘩したよね。君は花を守りたい派で、僕は花を狩りたい派。僕がたまに花を枯らしてしまう事を凄く怒っていたよね」
懐かしいなー、と、蚕はわざとらしく呟いて見せる。
「そんな僕が、その子の美味しそうな蜜を前に、どうして何もしないでいたのか――」
その時、あたしの目はある物体を捉えた。
蚕の背後に何か光の線のようなものが見えたのだ。
いや、糸のようなもの。光を反射する鋭くて軟い糸のようなものだ。かつて、あたしは操り人形というものをこの目で何度か見たことがある。月の城で、或いは、騙されて数日間住まわされていた場所で。
そうだ。
今の蚕の姿は、何だか操り人形のようだった。
蚕の身体に纏わりついている糸は、華を拘束している糸にも似ている。
「君には分かるかい?」
蚕が微笑みながらあたしを真っ直ぐ見つめる。
あれは何の糸だろう。何の糸だっただろう。
思い出した瞬間、あたしは逃げだしそうになった。でも、動けない。動くことが出来ない。動き方が一瞬だけ思い出せなくなった。
あの糸の主は、どんな類の者だっただろう――。
「蚕……」
震えそうな声を必死に律して、あたしは蚕に訊ねた。
「貴方、まさか……」
蚕は答えずに笑みを浮かべるばかり。
ただ、その身体についている糸がきらりと光った気がした。
その瞬間、あたしはとうとう動き出せた。くるりと華の傍へと寄り、彼女の可憐な身体を縛っている忌々しい糸に噛みついた。固くて丈夫な糸だったけれど、渾身の力を込めれば、あたしには千切ることが出来た。
華が解放されて地面に座り込み、透かさず、少年がその身体を支える。
「二人とも、急いで月の城に!」
焦りを抑えつつ声を荒げた所で、蚕が背後から掴みかかってきた。
その手に触られた瞬間、抑え込んでいた恐怖心が身体の中で爆発した。震えが止まらず、上手く抗えない。
少年と華が怯えた様子であたし達を見ている。
「逃げるのよ、早く!」
「――蝶……」
泣き出しそうな華にあたしは叫び続ける他なかった。
「月に知らせて! お願いよ!」
「駄目だね」
蚕の冷静な声が響く。
その目はどうやら華達を睨んでいるようだ。
「下手に動けば君達の大好きな蝶が苦しい目に遭うよ。ほら、見て御覧」
蚕はそう言って、大きな手であたしの喉元を覆った。
「この細い首を絞めるのなんて簡単なんだ。君達の決断一つで、蝶が苦しむか、苦しまないかが決まる」
華の顔が青ざめていく。
少年もまたどうすべきか迷っているようだった。
冗談じゃない。今はとにかく、あの二人を逃がさなくては。
「お願い、逃げ――」
そう声を発した瞬間、蚕の手に力が込められて、あたしの息が止まりかけた。力を緩められると、息が出来る事の有難みが身に沁みた。
「悪い子だなあ、君は。自分の立場を分かっているの?」
耳元で蚕の囁く声が聞こえた。
成す術がない。今の蚕に幾ら訴えたところで、何も解決しない事をあたしは知っている。彼に糸がついている限り、彼の自我はあってないようなものなのだ。
あたしに出来る事は、華と少年に訴えることだけ。
何度も視線で訴えて、あたしは二人に願いを託した。
――月に、知らせて。
「別にね、僕は女神様に知られたって構わないって思っているよ」
怯える二人の花の子供達を前に、彼は穏やかに告げた。
「君達がもしもここでじっとしているのなら、蝶は無駄に苦しむことはない。でも、君達が女神様に知らせに行くのなら、蝶は無駄に苦しむことになる。結末はどっちも一緒だよ。僕が譲歩しているのは、その結末に至るまでの蝶の状況だけさ」
「お願い、蝶を放して」
やっと華が口を開いた。
蚕はそんな華に向けてくすりと笑みを漏らす。
「君は優しい子だね、華。蝶に好かれるだけあるよ。でも、駄目だよ。残念だけど、それは出来ない。本人が大人しくしてくれないからね」
華があたしを見ている。
今にも泣き出しそうなその目を見ると、胸が苦しくなった。
「蝶を残して行きたくないの……」
駄目だ。あの子は優し過ぎる。
あたしは真っ直ぐ少年を見つめた。蚕の手はあたしの首からまだ離れてはいない。けれど、今だけは例え喉を潰されてしまっても、声を出さずにはいられなかった。
「お願い、華を連れてって!」
早口で、大声で、あたしは少年だけに向かって言った。
そんなあたしの目を見て、彼の目付きも変わった。うろたえる華の手を掴んで、彼は躊躇わずにこの場を離れだした。
蚕がその行動に動揺する前に、あたしは彼の腕を両手で掴んだ。
「――なるほどね」
蚕は冷静に、この場から逃げていく華と少年の背中を見送っていた。
あたしの喉を絞めるわけでもなく、かといって、あたしの拘束から離れるわけでもなく、彼はその場に突っ立っていた。
「思い切った事をしたね、君も」
蚕は薄っすらと笑いながらそう言った。
見えなくなってきた二人の花を追いかけるわけでもなく、彼は空いた方の腕をあたしの腹部へとまわした。
「女神様は間に合わないと思うよ」
蚕は淡々とあたしに語りかける。
あたしはぼんやりと蚕の声に含まれている心を読みとろうとしてみた。
「このあたりの森にはね、魔法がかけられているんだ」
「――蚕」
「幾ら女神様でも、魔法を払うのは困難だ。君は見つかることもないまま、時間切れを迎えるだろうね」
「ねえ、蚕」
首を抑える手も、腹を抑える手も、きちんと温もりがある。
声の調子もまるで普通の胡蝶のようで、おかしな所は無い。
その声に含まれている心だってそうだし、今は見えないけれど、彼の宿していた目の光だっておかしな所は一切なかった。
けれど、それなのに、蚕はあたしの知っている蚕ではなくなっていた。
美しいだけの残酷な旧友ではなく、何者かの手垢のついた胡蝶に成り果てているのだ。
「何があったのか教えて」
蚕は黙した。
ぴたりと動かないまま、どうやらあたしを見つめているらしい。
「貴方に何が起こっているのか、教えてよ」
彼の視線を感じる。鋭いようだけど、その奥に何が含まれているのかさっぱり伝わって来ない。冷たいようにも思えたし、空っぽのようにも思えた。
まるで人形や陶器の目に見つめられているかのような感覚だった。
やがて、蚕は静かに笑みを漏らした。
「それは今に分かるよ」
彼はそう言って、あたしを突き飛ばした。
地面に転び、鈍い痛みが全身を襲ったちょうどその時、周囲で景色が変わっていくのが微かに見えた。痛みのせいで涙目になりつつも、あたしはその景色の変化に焦った。
蚕はじっと転んだあたしを見つめ続けている。その周りで、どんどん景色は変わる。ただの森だった風景の中に、一本、二本と光の線が増えていく。
木々の間を狭めていき、巨大な揺りかごのようなものを作り始めた。
蚕の意思で動いているわけではない。もっと違う者の意思を受けて、それらは動いていた。その者は今、姿が見えないけれど、確実にこの近くにいる。
これは、家のようなものだ。
糸で出来た仮の住まいのようなものだ。
その仮の住まいの主人は、誰にも知られないこの場所で数日間の甘美な食事を楽しむ。
立ち上がって逃げようとしたあたしに、蚕はにじり寄ってきた。髪を乱暴に掴まれて、痛みのあまり小さく声が漏れていく。
「蝶」
蚕は言った。
「怖いのは最初だけだよ」
その目はやはり淡々としていて何も感じさせない。
正気なのか、正気でないのかということですら判断させてくれない。
「ああ見えて彼女は優しい。特に自分の隷属にはね。でも、もしも君が拒んでしまえば話は変わる。君は馬鹿ではないから分かるだろう? ねえ、蝶?」
言葉を発する気になれなかった。
それよりも、辺りで出来上がっていく住まいを見ているだけで、頭がどうかなってしまいそうだった。
――彼女。
蚕の示すその人物が現れてしまえば、あたしは本当に逃げ場をなくしてしまう。頼みの綱は、月の元へと走った華と少年だけになってしまう。
視界が揺らぎ、全身から汗が滲んでいく。
「彼女は孤独な人でね」
蚕が静かに語る。
「出来るだけ多くの隷属が欲しい。隷属になる選択さえすれば、君だって食べられずに済む。簡単な事だよ。ただ彼女の言う事を聞いて、彼女に寄り添うだけのことだ」
「……そんなの嫌」
出来るわけがない。
あたしはさり気なく腕に刻まれた刺青に触れた。これがある限り、あたしは月の城のものだ。月以外の者に屈服する事なんて出来るわけがない。
「だって、あたしはもう――」
「刺青なんて無意味だ」
蚕は表情も声の調子も狂わさずにそう言った。
「彼女は生粋の魔女だからね。人間の心にしか作用しない形だけの刺青なんて彼女には通用しない。蝶だって、そのくらい分かっているだろう?」
「あたしは――」
言いかけたところで、蚕の大きな手が掴んでいた髪を離し、すっとあたしの刺青に触れた。撫でるように触ると、蚕は溜め息を吐いた。
「別に変わらないじゃないか」
さっきと表情の変わらない声だった。
「女神様の下僕だって、彼女の奴隷だって、同じようなものだよ」
辺りで住まいが完成した。
逃げなくてはという焦りが強すぎて、うまく身体に力が入らなかった。刺青に触れる蚕の手の感触が、その焦りを深めていく。
動かない。動けない。震えのせいだけではなく、動こうという考えに力がこもらない。
まるで魔法にでもかけられたようだ。
あたしは完全に感覚を鈍らされていた。
「蚕……」
美しい青年の顔を見つめ、あたしは唸った。
灰色の目があたしの顔を映している。その色をあたしは精一杯の呪いを込めながら睨みつけていた。
蚕の後ろには、既に「彼女」が来ていた。
見覚えのある顔。見覚えのある眼差し。
彼女は己の造り出す住まいの糸に寄りかかって、穏やかな表情であたし達を見下ろしている。
蚕に対して、或いは、その魔女に対して、震える体を必死に抑えつけながら、あたしは吐き捨てた。
「貴方の事は一生恨むわ」
あたしの言葉に蚕は笑みで応えた。