2.道案内
◇
何事もなく平穏な日々が終わると思っていたのは、確かに平和ボケしていたからなのかもしれない。
そのくらい、ここ一年の月の城はただ季節が巡るだけの同じような日常に包まれていた。
それはあたしにとって、本当に幸せなことであったし、これから先もずっと続けばいいと思うくらい大切なことだった。
だから、絨毯の敷かれた二階の長廊下の窓辺より、何も考えずに眺めていた夕闇に沈む外の世界の中で、華の友人である野生花の少年が一人だけで血相を変えて森を抜けだしてくるのが見えた時、血の気がすっと引いてしまった。
どうして、彼は一人で月の庭に飛び込んできたのだろう。
誰に追いかけられるわけでもなく、彼はただまっすぐ、開けっぱなしの正面玄関を目指して走っていた。
どうして、彼は独りきりなのだろう。
その理由がじわじわとあたしの脳裏を侵食していった時、あたしはようやく堰を切ったように走り出した。
階段を駆け降りる頃、少年が玄関にちょうど辿り着いた。
「どうしたの、一体!」
駆け寄りつつあたしが問うと、少年は青ざめた顔であたしの手を掴んだ。
「大変なんだ、華が!」
それだけで十分伝わった。
あたしは思わず少年に掴まれたまま玄関の外へと出て、庭のもやっとした空気を前に息を飲んだ。
この一年、庭に出る事さえ殆どなかったのだ。
ピリピリとした空気が肌を刺すようで少し怖かった。
「華がどうしたの?」
森を見つめたまま、あたしは少年に訊ねた。
少年は息を切らしつつ、どうにか答える。
「華が見知らぬ胡蝶に捕まったんだ」
「――胡蝶に……」
それは、息が止まりそうなくらい恐ろしいことだった。
振り返れば、少年は涙を浮かべていた。必死に走り、まだ息は整わない。有りっ丈の力を費やして走り続けたのだろう。
夕闇の中でも確認出来る銀髪の美しい髪は、汗でべったりと濡れていた。
「僕がついていたのに……」
「その胡蝶に遭ってしまったのは何処? どっちへ向かったの?」
あたしは少年と目を合わせた。
こうやってみれば、やはりまだ子供だ。森で生まれ育ち、大人ぶってはいるけれど、胡蝶相手に敵うはずがない。
けれど、同じ胡蝶のあたしならば……。
「お願い、連れてって」
あたしは少年に懇願した。
森は恐ろしい場所。
出来る事なら近づきたくもない場所だ。けれど、華が攫われてしまった以上、そんな泣き言で後悔したくない。
あたしは少年の頭に手を置いた。
「貴方が頼りなの。お願い、教えて」
「蝶……」
息を切らせつつ、少年は怯えた目であたしを見上げてきた。
「月様に知らせた方が……」
「いいえ」
あたしは首を横に振った。
「すぐに向かった方がいいわ。それに、月はどうせ出して貰えない」
あたしの言葉に少年もまたぎこちなく頷く。
月が聞いたら城を抜けだしてでも助けに行こうとするだろう。
けれど、城の者達はそれを必死に止めようとする。下手をすれば、執事や女中頭は月を一室に閉じ込めようとするかもしれない。
月はもうずっと命を狙われているのだ。
悪しき魔女に狙われていて、その魔女の安否が定かでない以上、安全なこの城から出るだけでも城の者達の肝を無駄に冷やしてしまう。
一年前、あたしを助けるために月は右肩に大怪我をした。その時の傷はだいぶ癒えたけれど、女神の身体を持ってしても、まだまともに右手を使えるほどに回復してはいないのだ。その上、また月が怪我をするような事があったら、今度こそ執事の顔は真っ赤になって頭の血管が切れてしまうかもしれない。
「分かった」
少年は頷いた。
「ついてきて!」
あたしの手を離れ、少年は再び走り出す。
先程、あんなに息を切らしていたのに、もう全速力で庭を駆けだした。あたしもそれを追って、躊躇うことなく走り出した。
少年を追いながらちらりと城の窓を見上げたけれど、月がいま何処にいるのかはさっぱり把握出来ないままだった。
門を抜けて、森の土を踏んだ瞬間、その懐かしい感覚に気を取られそうになった。慌ててそれを振り払って、あたしは少年の背中を追った。
前にも少年を追いかけて全速力で走ったことがある。
それも確か一年前の事だ。
あたしはあの時、自分自身の死を免れるために走ったのだ。あたしを追いかけていたのは蟷螂という種族の血を引く妖精の女。胡蝶を食べて生きる蟷螂に迫られたあたしを助けてくれたのが、この野生花の少年だった。
そんな彼を一年後の今も同じように追いかけている。
今度は自分が助かるためではない。
――華を助けなくては。
焦る気持ちだけが先走って、時間が妙にゆっくりとしたものに思える。あたしの足も、少年の足も、悲しいほどに遅く感じる。
ふわふわとした土の上を走りながら、あたしはただ少年の背中を見つめ続けた。何処で誰があたし達を見ていようが今だけは構わない。
もしも目の前に何者かが阻むために現れたとしても、無心でそれを避けられる自信があった。
そのくらい、今のあたしには少年の背中しか見えていなかった。
華は無事だろうか。
無事でいないわけがない。無事でいない展開なんてあり得ない。そう強く思い込まないと、身体に震えが出てきてしまいそうだった。
まだ絶望してはいけない。
あたしに出来るのは、少年を追いかけることだけ。そして、華を攫った胡蝶を見つけ出して、その相手をすることだ。
男であろうが、女であろうが、絶対に華を返してもらう。
その強い思いを胸に、あたしは少年を追いかけ続けた。
そして、ようやく、時間にすればほんの数十分ほどで、その場所にあたし達は辿り着いたのだった。
◇
野生花の蜜の香りの充満するところ。
そこは、ここで生まれ育った胡蝶であるあたしでさえよく知らないような神秘的な場所だった。
辺りを彩っているのは、足を持たないごく当り前の植物と、その植物を湿らせる光り輝く露だった。
光っているのは一体何だろう。
よく見れば、あたし達胡蝶のように人間達から妖精に分類されるような小さな生き物達が、魔女によってあらゆる薬の材料にされるのであろうリン粉をまき散らせながら飛んでいるのが分かった。
木々が囲む小さな庭園。
太陽光も月光も届かないようなこの暗くて明るい不気味な世界の真ん中で、少年は辺りを見渡していた。
何らかのやりとりを感じる。
名前も知らないあの小さな妖精たちと会話をしているのだろうか。
ふと気付けば、この閉鎖的な庭の周りに野生花達が集まってきている。あたしの来訪に怯えつつも、少年の様子を窺っているようだった。
「蝶」
少年が振り返ってあたしを呼んだ。
「この子達も見ていたんだ」
その言葉にあたしは一歩踏み出した。
少年と小さな妖精以外の野生花達がそっと身を引いてくのが分かった。それには構わずに、あたしは少年の隣に立った。
あたしの周りを、小さな妖精たちが取り囲む。
繰り返しあたしの名を呼ぶと、あたしの小指ほどもない小さな手のひらでぺたぺたとあたしの身体を触っていった。
彼らの囁くような声があたしの耳に響き渡る。
「胡蝶は逃げた」「逃げた」「逃げた」「可哀そうな花を連れて」「連れて」「花を」「可哀そう」「あっちに逃げた」「こっち」「どっち」「逃げた」「蜜を吸うために」「蜜を」「早くしないと」「殺されてしまう」「急いで」「急いで」「急いで」
ぐるぐると小さな妖精たちが飛び回り、あたしの目を回そうとした。
そんなあたしと小さな妖精の間に割って入るように、少年が彼らに問いただす。
「行き先に心当たりはない?」
すると小さな妖精たちの皆が首を振る。
けれど、妖精たちはまっすぐあたしを見つめた。
「でも胡蝶なら」「貴女なら」「大丈夫」「匂いが分かる」「あの子の蜜の匂い」「貴女を引き寄せる」「匂いは濃いから」
あたしはそれらの言葉に縋りつくしかなかった。
「本当に? 本当に香りが残っているのね?」
必死に問いかけると、小さな妖精たちは頷いた。
そして、全員が同じ方向を指差した。
「あっち」「あの先」「この先」「こっち」「向こう側」「そんなに遠くないわ」「遠くない」「だから」「頑張って」「頑張って」「頑張って」
木々の壁を越えた向こう側。
その先は四方八方に開けているらしくて、香りを辿らなくては何処をどう行けばいいかも分からないだろう。
辿っていけば、華を攫った胡蝶がいる。
迷っている暇はなかった。
「行きましょう」
あたしは少年の返事を待たずに、狭い木々の間を越えた。
予想していた通り、その向こうは木々が疎らにしか生えていなかった。
それでいてあまり光が射して来ないのは、木々の一本一本がずっと大きくて天高くでうんと枝を伸ばしているせいだった。
薄暗い森は野生花にとっても、胡蝶にとっても危険だ。
あたしは慎重に辺りを警戒しながら、周囲を流れる風の匂いを嗅いでみた。生暖かい風が、得体の知れない生臭さと共に覚えのある香りを運んできた。
「蜜の香りだわ……」
間違える事はないだろう。
こんな危ない森の中で、華のように恐ろしいほど濃くて甘い香りを漂わせている者がいるなんて思えない。
あんなに愛しい香りを残せる者がいたとしたら、教えて欲しい。
「華……」
その名を口にした途端、身体が動きだしそうになった。
抑えていた感情が悲鳴を上げはじめ、あたしの理性を蝕んでいく。けれど、そんなあたしの手を野生花の少年はしっかりと握りしめた。
「蝶、落ち着いて。ゆっくり進まなきゃ」
「でも、華が……」
「大丈夫。あのね、蝶。僕、華の声が聞こえたんだ」
その訴えに、あたしは黙って少年を振り返った。
真っ直ぐな薄紅色の目があたしをじっと見つめている。その目を見ているうちに、少しだけあたしの思考を狂わせようとした焦りが引っ込んでいった。
花同士は花同士だけの会話が出来る。
自然に暮らす野生花であっても、人間の保護下で血統を守られている人工花であっても同じらしい。
彼らが口を使って喋るのは、あたし達のような他種族の者たちと接触する時だけであって、花同士ならば、度々その能力を使って会話をする。
テレパシーのようなものだとかつて華が教えてくれた。
胡蝶であるあたしにそれは聞こえない。
本来、群れを成して生活していた彼らが、胡蝶を始めとした野蛮な虫達から逃れるために発達させた特殊能力だと人間の著作に書いてあった。
もうずっと前、羽化したての頃に読んだものだ。
「華は大丈夫。ただ酷く怯えているみたいなんだけど、蝶に『来ないで』って言っている」
「助けて、ではなくて?」
「そうなんだ。華は何かで縛られているみたい。華を攫った胡蝶は、いまは近くにいなくて、助けるなら今なんだけど、蝶を連れて逃げろって言って聞かないんだ」
「ここまで来て引き返すなんて出来ない。きっと混乱しているのよ」
もう蜜を吸われてしまったのだろうか。
いや、この場合、吸われていないと考える方がおかしいかもしれない。
あたし以外に蜜を吸われたことのない華。常に手加減を意識して出来るだけ大事に蜜を吸うのがあたしだけれど、他の胡蝶にそれを期待できるわけもない。
きっとその胡蝶も華から漏れる甘い誘惑に抗えなかっただろう。
初めて思いっきり蜜を吸われた華の恐怖は計り知れない。同時に、常に花達の思考を狂わせてしまう甘美な蜜吸いの感覚も、胡蝶であるあたしには想像しがたいものだ。
「行かなきゃ、華を助けないと」
「でも、蝶。華が来るなって……」
「だからって、放っておくわけにはいかないでしょ?」
怖気づく少年を振り返った時、ふと、空気の流れが変わったのを感じた。
「その通り」
突如聞こえてきた第三者の声に、あたしも少年も息を詰まらせた。
恐る恐る視線を戻してみれば、いつの間にか、あたし達の行く手を阻むようにその人物は立っていた。
胡蝶。
仲間だというのはすぐに分かった。直感ではない。ただ、彼の声にも、彼の姿にも、間違いなく見覚えがあったからだ。
彼――その胡蝶の青年は、かつての友人だった。
胡蝶の仲間。同じ時期に羽化し、出会ったことのある胡蝶の青年。気が合わず、虫が好かない、ただ美しいだけの人物。
「蚕……」
久しぶりにその名を口にすると、蚕はまるで女性のように穏やかに微笑みを浮かべた。
「久しぶりだね、蝶。また生きて会えるなんて思わなかったよ」
「なんで貴方が……なんで……」
止まりかける考えを巡らせ、どうにかその答えを導き出す。
「まさか、貴方が華を……」
「そうだよ」
蚕は戸惑うことなくただ肯いた。
「君が大切にしている人工花だって知っていた。旧友として一度近くでじっくりと見たかったからね。いい機会だったよ」
「華を返して……お願いよ……」
「残念だけれど、嫌だ。女神様に囲われている君と違って僕はその日暮らしの身だからね。返して欲しければ力ずくで来たらどうだい?」
睥睨するようなその眼差しに、あたしの身は強張った。
少年が後ろから不安そうに見つめているのが分かる。そして、その不安を解消させてやる余裕すら、今のあたしにはなかった。
この蚕という胡蝶は、とても残酷な胡蝶なのだ。
かつて仲の良かったあたし達を引き裂いたのは、彼の持つ価値観だった。それはすなわち、花という存在に対しての価値観の違い。
彼にとって、花というものは消耗品なのだ。
自分が腹いっぱい満たされるのならば、花を枯らしてしまったとしても何の罪悪感も覚えない。
「蝶……この人……」
不安げに訊ねてくる少年の手をぐっと掴み、あたしは蚕を睨み返した。
蚕はそんなあたし達を見つめ、面白そうに笑ってみせる。
「へえ。相変わらず君は変わっているよ。花に懐かれるなんてね。それともあれかい? 花を懐かせておいて後で騙し打ちするとかかな?」
煽るような言葉に、あたしではなく少年が反応しそうになった。
あたしは少年の手を引っ張り、それを制した。
蚕ならば少年の命をも奪いかねない。森で暮らす胡蝶というものは、蜜を集めるのに必死なのだから。
少年は真横からじっとあたしの顔を見上げた。
何で止めるのとでも言いたそうな表情だったけれど、あたしはそれを無視して蚕だけを見つめていた。
その様子を見て、蚕は更にほくそ笑む。
「冷静だね、君は。森は久しぶりなんだろう? 本当は怖いくせに、女神様の膝元で怯えて暮らしていたくせに、随分と立派なものだよ」
あたしは蚕の言葉を静かに聞き流し、その後ろを窺った。
あの向こう。恐らくあの向こうにて、華は囚われている。香りを辿ればきっと迷わずにいけるだろう。
「考えているね」
蚕が言う。
と、その時、蚕はあたしの予想に反する行動に出た。
彼が突然、あっさりと道を開けたのだ。
「返しはしないけれど会わせてあげるよ」
「何を企んでいるの……」
「別に。その方が面白いってだけさ」
彼の笑みの意味が分からなくて、あたしは思わず後退りしそうになった。
そんなあたし達に、蚕は手を伸ばす。
「おいで。道案内してあげる」
その口調からも、彼の真意は伝わって来なかった。